2023.12.18
毎日作品について考えているし、タイトルは決まっている。のにも関わらず、〝個人の社会的孤立〟が蔓延している中で、登場人物と登場人物を繋げる環境設定が思いつかない。集団は孤独の集まりであり、何らかの外的目標によって結びついている。この外的目標による共通項が行動の源泉である。
しかし、俺にはそれがない。何もない。外的目標がないんだから、散らばっている孤独の一人だ。そんなような奴が、集団凝集性を標榜して、結合集団を作ろうってんだ。しかし、何も思いつかない。アビャーサ、湯田ねる、主人公のイチルは今どこで何しているんだ。そいつらを壁の内側に住ませて、巨人を投入させるか。恐れの念の対象である。恐れの念は集団の絆の根底にあるものであり、間を引き裂くものだ。そのようなストーリーを用意しようか?絆、分離、絆、分離、絆。ジェボーダンの獣って怖くね?ナワルって怖くね?正体不明のものが襲いかかってくる。恐れの念による集団の絆による外的目標。構成員。我々は構成員であることを望む。社会的な。しかし、俺には何もない。何もなかった。若い頃から極左グループの常連である、フランス共産党のメンバーだったガタリ、フェルナン・ウリに魅了され、陰鬱な組織により支えられている硬直した世界からの脱出を図る。〈青年の家〉熱度の高い空気感に自らを投入する。
しかし今はまさに不能の時代だ。一人一人が不能を抱えている。社会運動の敗北、労働の不安定化、デジタルコミュニケーション時代の人間の存在的孤独。
社会的孤立が激化し、この不能を抱えたものが、集団凝集性を確保するにはどうしたらいいか。ナワルという正体不明のものを投入しようか。ナワル。新しい社会に不可欠なもの。人々は、自分の中にある魔女性のようなものを「ナワル」という具体的存在に投影する。そしてそいつを滅ぼすことにより、自分の中にある贖罪の代理儀式が行われる。「ナワル」とにかく、ナワルを滅ぼせ。特徴の識別が排除に繋がる。伝染病、ペスト、結核、コロナ………ナワル。
俺はナワルが来ることを憧れる。とにかくナワルが来てくれることを望む。そのナワルとは外的目標であり、人々が社会の構成員としてのあり方を獲得できるようなもの。
しかし、実際ナワルとはどこにいるのか。そのためには「罪」を見つけなければならないか。ナワルという分身に罪を転嫁せずにはいられない。自分の中にある罪。伝染病などの菌とは、罪の在処だ。罪の在処たるナワル。贖罪の代理儀式。ナワルが死ぬ。自分の罪が死ぬ。明らかなるもの。しかし、精神病は罪をどこに擦り付けたらいいかわからない。
俺は、磊落のいは結局、精神病を手に入れた。僕は病気が欲しかった。しかし、病気は外的目標にならなかった。集団凝集性のための素材にならなかった。この病気という抽象機械。機械は相互に接続されたネットワークとして機能する。しかし、俺は病気を外的目標として、欲しかった。病気を勝ち取るために奔走した。みんなでそれを倒したかった。病気を自分のところに引き寄せ、そいつをみんなで倒す。病気という外的目標をみんなで倒す。そのために色んな狂った行動をした。道化かもしれない、つまらない、愚にもつかぬ、虚言性、偽善や自慢と共有しているイロニーを他人に吹聴する。それをみんなで倒したかった。
しかし、そんなことは起きない。俺は多分病気じゃない。なぜならそれは俺がもう〝病気を必要としない〟からだ。精神病なんてものは何の外的目標にならない。かといって、原子化、無力化という不能から救うためのアソシエーションなんかも欺瞞に過ぎない。結合関係のためのソシアビリテ!「お付き合い」のためのソシアビリテ!そんなものが一番腹たたしくてならない。「お付き合い」の様式。繋がってない者を繋ぐ橋渡しの機能を持つ弱いつながり。
だが結局社会的なものを組み直すことでしか自分は定位できない。何かに。共通の集合心性からは逃れられない。「トーテムがなければ、ある部族が自分たちが同じ一族の一員であると認めることが難しくなってしまう」とラトゥールは言う。トーテムが集合心性を満足させる。トーテムにより、イチルやアビャーサ、湯田ねるなどを結びつけなくてはならない。散らばっているそいつらをそのトーテムによって。じゃあそのトーテムとは何なのか。
何度も言うようにそれがわからないのだ。トーテムがない。トーテムがなさすぎる。トーテムがあったことがない。精神病をトーテムにしてメンヘラを呼び込もうとして、その集合心性を持つメンヘラと結合関係になり、外的目標を達成しようとする高尚なストーリーなどない。メンヘラが寄ってこないのなら、俺は精神病などいらない!障害者手帳一級など何の意味もない!統合失調症や自閉症スペクトラム障害など何の意味もない!病名が外的目標にならない!病気が大事なら俺は今ありとあらゆる病気だ。生成するんだ!俺は可哀想な奴にもなれない。可哀想なやつだと誰も言ってくれない。スーパーの売れ残りの惣菜として誰も見てくれない。スーパーの売れ残りの惣菜として僕を見てくれる偏愛的な恋人が現れるのなら、僕は革命的青年運動にも加入する。レジスタンス!レジスタンスのコノテーションは、誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。
虚しい!死ぬほど虚しい。寂しいなっていう寂寞感でもない。虚しい。筆舌に尽くし難いというわけでもない。虚しい、の一言に尽きる。俺が今まで連んでいた他者から肯定的な印象を受けるようなどんなに優れた美貌を持つ人でも、虚しいと言ってどこかに消えた。その人とはもう繋がりがない。僕の親切さがその人を引き上げたのかもしれないが、諸刃の剣だった。滅びの美とかも考える隙もなく、消えた。その人は今にしてみれば、根源的な虚しさを抱えていたのだと思う。その人の虚しさを僕は溶かすことはできなかった。そんな奴でさえ虚しさを抱えているのだ。
学問とは、人に誇示するための虚しい知識欲のためにではなく、行為を目的として求められるべきものである。とメモに貼ってあった文句を読む。確かにそうかもしれない。でも、人間は果たしてそんなものになれるだろうか。行為を目的とする。そんなものになれるだろうか。行為とはなんだろうか。行為、行動とは何だろうか。
「汝の義務を果たそうと努めよ、その時汝は直ちに、汝が何であるかを知るであろう」
自分自身を知ること。それは考えることなく、行為すること。汝の義務とは何か。それは日々の要求である。日々の要求。日々の要求とは何か。僕は無意識的過程の中にいる。常に。日々に。
「この子は自分の名を呼ぶ声を聞く必要があった」僕は自分の名を呼ぶ声を知らない。誰に必要とされているのか。本当のところ、誰が僕を見ているのか。俺を誰かが見て、その誰かがどう思っているのか。知らない。誰もが自分の名を呼ぶ声を聞く必要があると思う。自分の名を呼ぶ声。
人間は骨。骨の身体の最もたる支柱は脊椎。脊髄を守る身体の中心軸である脊椎。この脊椎が俺にはない。脊椎がどこかで損傷を受けた、整復固定術を行って、ある正常な位置に。正常な脊椎を僕に用意してくれ。顔、役割、仮面が必要だ。あなたの顔、役割、仮面になりたい。あなたとは誰か。中心軸であるあなたとは誰か。存在を支える網に織り上げてください。僕の存在を支える網を織り上げてください。お願いします。お願いします。自己同一性の障害がある分だけ役割に執着する。自己同一性の障害。自己同一性の供給源がない。あなたというトーテムがない。外的目標がない。俺には何もない。虚しい。虚無。
僕は女の子と通話する。その女の子。今にも消えそうで脆い。「人は失いやすいものに愛を注ぐ。自分自身、女性、祖国」という惑星ソラリスの文句を思い出す。失いやすい。いつ消えてもおかしくない、そんな人だった。頭がぐちゃぐちゃになり、精神がぐちゃぐちゃになり、身体がぐちゃぐちゃになっている。脊椎もない。整復固定術を行おうとした。失いやすいものに愛を注ぐ。なんか俺にできることある?って聞いたら「受け入れて」と言っていた。人生の終わりに何を思うかって言ったら、受け入れること、なのか。なのか、七日、七日間しか残されていないような、息が詰まりそうになるような時間。
「語ることは行動することだ」とサルトルは言う。書くことはしつけるような意思、説得するような意思が先験的に含まれるのだとしたら。他者に対する優位の確立への意図。優越感。しかし俺らは言葉を用意しなくてはならないんだ。そうでないと、天使に吸わせる言葉の余韻がなくなるからね。言葉の余韻を快と感じる天使。天使は言葉の余韻を吸い込んでハッピーになって俺はその天使のハッピーでハッピーになるんだから。
俺は提案した。日記を書いてみないか。日記。言葉。毎日日記を提出させる。僕は日記を見る。その人の世界にはイマジナリーフレンドがいた。「周囲の世界を自分の存在にとってふさわしいものに形作ること」
そうだ、そうだよ。俺たちにはこれしかできないんだ。もう物理的な空間に定位することはやめよう。イマジナリーフレンドを作らなければならないほど、社会的に孤立しているんだ。それでいいんだ。その社会的孤立を祝福しよう!
ラトゥールは言う。「除外するのではなく記録すること。しつけるのではなく記述すること、これこそが聖典である」
俺はお前を決して除外せず、全てを受け入れ、記録し、聖典にする。他者を説得する不可欠な契機である言葉を用いない。相手の言葉が僕の言葉だ。相手から送られてくる毎日の日記の中に僕は生きる。
均一でない複数性、無差異=無関心ではない複数性、顕著な差異。あなたによって織り込まれる差異によってもたらされる私。存在するのは差異のみであり、それは互いに排除することにはならない。僕はあなたを受け入れる。記録する。聖典にする。あなたの身体はぐちゃぐちゃになり、資料体としての身体しか持たない。あなたの言語の状態にある身体による快楽が欲しい。あなたという細部の具象性。純粋な断片の空間。あなたという空間により散らばっている私は豊かになる。
統一体に組み込まれない細部、断片、断章形式により、俺の自我は解体される。
あなたというロマネスク。あなたの歌声。
抽象機械。