闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.10.24

僕が渇望していること、それはただ一つの作品を作り上げること。それのみである。しかし僕は絶えず燻っているかのようだ。側から見たらそう見える。ただ、その作品を作りたいという欲求をいつまでも持ちながら、その取るに足らないものと絶えず隣接し、それと共に起床し、それと共に就寝し、それと共に食べ、それと共に会話し………と繰り返す。作りたいという欲求に、僕自身が絶えず作られていく。自己生成する過程だけがあり、作品はいつになっても完成しないままだ。その作りたいという内面的出来事によって撹乱された自我は、その撹乱される仕方だけを絶えず自分自身に刻印し、私の中の田畑はいつ何時も潤うことなく、ただあるのはだらしなく慈雨を待ち望んでは口を開けている姿である。作品は完成せず、その取るに足らない欲求を持つ僕自身が絶えず生成されていく。それは実存的刻印という言葉で記されている言表行為の動的編成のもたらす可能性の領野を生きようとするものだとしても。その作られない作品によって不断に作り替えられていくという実存的な領土化におけるリズムとメロディー、反復的諸要素による通過成分であるリトルネロがあるのだとしても、僕はもういい加減決着をつけてしまいたいのである。0から1にする作業をずっとしている。0を1にし、1から100にする術を身につけなければならない。

誰も待っていないと思う。僕が作品を作ること、別に誰も期待していないと思う。そんな焦眉の急を告げる事態ではないのかもしれない。しかし、僕は毎秒詰問されるのである。お前は何をしているのか。〈僕は作品を作っています…〉〈それはどんな作品なのだ?〉

………わからない。僕には何もかもわからない。思考の所与は知られていない。僕はただ作品を作りたいんですということしか言えない。それと共に歩んできたのだから、僕とは一言で言ってしまえば、その思いでしかないのだから。果てしない潜在性の開放の只中におり、それによって備給される主体性を持っている。主体性は再編成し続ける。留まることを知らない。言表作用はそれを拠り所にする。

その主体というものを手なづけようとする考えの放棄こそが重要である。それは〝過程〟と言われるものである。

 

最近、初めて山月記を読んだ。衝撃を受けたというよりは、すぐに手に馴染んだ。自分のことだったから。それはあまりにも当たり前のことだったから。自分が考えてきたところのものだったから。詩業にかまけるあまり、獣と化してしまう。獣とは李徴が自覚する自分自身の欠点である。しかし、彼はそうと自覚しながらも、獣化の酵母と種子である内面的生を手放そうとはしない。むしろ、彼はそれを快く受け入れているようでもある。

山月記はまさにスキゾ分析の物語である。生の自己構築の過程、世界の自己建設の過程には予測不可能な前代未聞の変化がともなう。獣とはその前代未聞の変化のカフカ的な表現である。山月記にあるのはまさに〝過程〟だけなのだ。我々は目的を設定し、それと共に歩ませられる。しかし、それは狂気というあり方として出現する。李徴は〝過程〟の中に、その自己生成分岐の中についに自分を獣として表現した。実際に獣になったわけではない。苦肉の策というわけでもない。プログラム化された不可避的な必然性に封鎖を促されながら、漏出線の中に存在している出口を見出すこと――。

李徴は結局詩人になりたいのではあるが、それを不可避な必然性にように捉えてしまい、ひとりでにプログラム化されていくような事態に直面して、それを否定したのである。その否定の試みこそが彼の詩業であり、その分析的過程のなかに自分を投入しているというあり方の表現として、彼は獣になったのである。そしてその時、山月記は完成するのである。

 

しかし、僕はそんなことを言ったのだとしても、いくら分析的過程が大事だとしても、自分が作品を所有していないことに倦み疲れてしまったのだ。僕はいい加減、自分の作品を持ちたい。自分を作品と紐帯させたいと強く思った。この言葉は内面的出来事に撹乱された自我による痙攣である。それが自分を獣にしていく。僕は獣に身を堕とす。僕は獣である。

 

〈虎は、既に白く光を失った月を仰いで………云々〉

 

ナワル。姿違う肉体がもう一個ある。健啖の悪魔、中枢神経組織の拡大、ナワル、流入、ナワルとはアーカイブ……巨大なアーカイブ……記録保管場所……根の国根の国とは記録保管場所……。