闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.10.30 根の国

抽象機械とは、アプリオリに肯定性を含む。それは与件として疑いようのないものである。変化とは肯定である。思考にはアプリオリに肯定性と有意義性がある。肯定性の産物である抽象機械は、それ自身が肯定性のための中継器、変換器としての肯定機械となる。

俺はその概念と付き合うにはあまりにも実直すぎた。純粋すぎた。俺は極めて善の人間すぎだ。泥酔して、キャバクラに赴いた。

 

「普段何をやってるの?」
「哲学をやっています」
「哲学とは?」
「哲学です」
「たとえばどういうもの?」
「僕は今やっているのは、人間はみんな機械であるという、そういう思想を持っていて、たとえば人間は死ぬじゃないですか。肉体的な死を迎えるじゃないですか。……教えちゃっていいのかな」
「大丈夫。知ったところで、どうにもならないから」
「いやー無料で教えるのはなー」
「無料で教えてもいいもので」
「たとえば、肉体的な死を迎えるじゃないですか。でも肉体的な死を迎えたら、分離された審級において、固体的に死ぬと思われるじゃないですか。たとえば人間は電気信号であって、肉体的な死を迎えたら、0になるじゃないですか。肉体的な死を迎えるにも関わらず、人間は死ぬと思いますか?」
「思うよ」
「いや、人間は死なないんですよ」
「で、それはなぜ?」
「機械としては生き残るんですよ」
「それはどういうこと?」
「人間は今や電子上におけるアーカイブを神として、内在的規定者としての神としてそれを認めてるんですよ。アーカイブというのは記録保管場所のことで、アーカイブとして人間は貯蓄されていくんですよ。電子上に。要は科学は未来としての宗教なんですよ。だからそれをみんな信仰するようになってて、アーカイブこそが神なんですよ。ってなった時に人間は死なないんですよ。機械として人間は死なないんですよ。機械っていうのは生成とか変化を行うための場所なんですよ。人がそれに触れれば生成するんですよ。絶えず変化してるんですよ。それのための素材なんですよ」
「で、その続きは?」
「人は機械に触れて、人間っていうのは。俺いるじゃないですか?俺誰かわかります?」
「酒井くん」
「酒井っていうのは酒井じゃないんですよ。酒井機械なんですよ。分離された審級としての酒井じゃないんですよ」
「分離された審級って何?噛み砕いた言い方して。わかんないから」
「酒井は単体として存在してるわけじゃないんですよ。酒井は今、酒井を知ってて、酒井を今受容してて」
「受容はしない、別に」
「受容はしてないかもしれないけど、酒井を今感じてるじゃないですか」
「感じているというか、認知はしてる。ああいるんだなーみたいな」
「だからそれは生成してるんですよ。異質生成なんですよ。だから互いに、異なるものとして生成し合っているんですよ。それだけで生きているわけじゃないか。それは生成変化って言って、主体性を絶えず生産してるんですよ。異質生成を受けて絶えず主体性を生産しているんですよ。だからその媒体がある以上、人は死なないんですよ。だから僕は抽象機械なんですよ。中継器、変換器としての僕がある限り、死なないんですよ」
「じゃあ僕がいなくなったら死ぬの?」
「いなくなるわけはないんですよ」
「じゃあ死ななくない?」
「だから死なないんですよ」
「じゃあ本来の意味で死ぬ時ってあるの?」
「たとえば、一義的な意味は、肉体的な死を迎えた時は、僕の意識が電気信号としてなくなって、生物のホルモン的なものもなくなって、死ぬかもしれないんですけど」
「それは認識としては一回目の死っていう感覚でいいの?とりあえず一回死ぬじゃん。でもそれが完全に死ぬわけではないっていう認識なわけでしょ?」
「そうです。機械としては生きてるんですよ。わかる?」
「わかんないけど」
「わかんないじゃないですか」
「わかんないじゃないですかじゃなくて、私はわかんないからわかんないって言ってる」
「だから、機械として、だから」
「それはいい。一回置いといて」
「名前なんすか?名前は」
「いいよそれは」
「名前なんでしたっけ」
「みぃです」
「だからみぃ機械、みぃ機械としてはあるんですよ。だからみぃっていう人が死んでもみい機械としては生き残るんですよ。だからそこに触れれば異質生成する。だからあなたの素材は残ってるんですよ。だからあなたは素材なんですよ。他人を生成するための素材なんですよ。だから生き残ってるんですよ。死んでも生き残ってるんですよ。あなたは永遠に生き残るんですよ。なに飲んでるんですか?」
「ん、ジャスハイ」
「だから生き残るんですよ」
「で?」
「だからその、要は、人間は素材でしかないんですよ。だから人間は何か作ろうとするじゃないですか。何かを作ろうとして、何かを完成させようとするっていう意思があるじゃないですか。それは完成させるってことにおいては、一番大事なのは過程なんですよ。それを完成させようっていう過程が大事なんですよ。完成するっていうことにおいても、完成したっていう品は結局人間がそこに食いついて、触発されて、そこで生成するっていうところの媒体でしかないんですよ。結局永遠に続いていくんですね。物事っていうのは」
「どこに残っているの?人間がそこに残るっていうのは。どこに残り続けるの?」
「だから、アーカイブ
「で、そのアーカイブはどこにあるの?」
アーカイブはだからネット上、電子上にある」
「それはSNSとかそういう感じ?」
SNSっていうか、その、ツイ、まあ今で言うとTwitterとか、YouTubeとか、ブログとか、そういう電子上の技術において確立された物事において存立し得るんですよ。それに付随して、自我は出来上がる。そこにおいて、そこにあったものを絶えず人間は見るじゃないですか。そこにおいて生成し得る可能性としての自己ができあがるんですね。だから人間は死なないんですよ」
「じゃあ、なに、そういうさ、SNSとかそういう媒体がなかった時代の人間は完全に死んでるってこと?」
「でもそれは」
「そういうさ、出来事とかさ、まあたとえばそういう戦争がありました、でもそういう一個人の名前は残ってないわけじゃん。そういうのは完全に死んでるってことになるの?」
「だからそれは結局、小さきものをいかに見定めるかっていう問題があるんですけど、それは死んでないよねっていうことにしたいわけですよ我々は」
「それはあなたの考えですよね?」
「我々の恣意がそうせしめてるってことは、確かなんですけど、それは人間のエゴかもしれない。けども、僕はそういう人たちも見定めたい。たとえば、ロシアに奇形児が保管されているクンストカメラっていうものがものがあるんですけど。奇形児たちは、奇形児たちは、人間として生まれたからには、動物が押されたり引っ張られたりするところの機械としての動物ならば、人間としての救いはないじゃないですか。しかし人間として生まれてるからには人間としての救いがないとおかしいですよねっていうところで、生まれて死んで、もう奇形で、人間じゃないよねっていう人が保管されてるんですけど、人間として生まれたからには魂がなきゃおかしいよね。その人にある種の救いがなければおかしいよねっていう」
「じゃあ人間だけじゃないじゃん魂があるのは」
「いやでも動物と人間は区別すべきじゃないですか」
「区別したところで、動物にも魂がある」
「その根拠は?」
「ないっていう根拠はないでしょ」
「ないっていう根拠もないですけど」
「じゃああるかもしれないじゃん。なんでそれを否定するの?」
「否定してないですけど」
「じゃああるかないかわからないじゃん。あるっていう考えもあるよね。動物にはSNSとかそういうクラウドとかっていうのがないじゃん。それはどうなの?」
「え?」
「じゃあ動物は完全に死ぬの?」
「じゃあそれならば、僕は思うんすけど、動物っていうのはたとえば反射的なあり方で存在してるのにすぎないかもしれないじゃないですか。それがなくなったら死ぬのかっていうところにおいて、人間は絶えず救いを求めるわけですよ。動物にも救いは欲しい、人間にも救いは欲しいよねっていう。……だったら何ができるんですか?」
「なんで逆に聞いてるの?あたしが聞いてるんだけど。なんでちょっと論定をずらしたの?」
「いやだからずらしてるんじゃなくて、何ができるのか?」
「私が聞きたい」
「そこはちゃんと明確にしておかないと」
「違う違う。私は完全に死ぬのか死なないのかを聞きたいの。ペットとしての動物がSNSとかに写真上がったりとかするわけじゃん。だからずっと残るわけじゃん。でも野生としての生まれた動物なんかは上がらないわけじゃん。上がらないで死ぬのはあるわけじゃん。そういうのは完全に死んじゃうの?」
「それは我々が、あのー、把握してるところにおいて死なないじゃないですか。動物は生きてるでしょ。動いてるでしょ。動物は我々にとってある種の思い出を生産してるでしょ。ていうところにおいて生きてるでしょ」
「完全な野生はどうなの?」
「完全な野生。だから人間に気づかれないところに、意識を持ってるところに気づかれない野生っていうことでしょ?」
「そう。死ぬの?」
「それは、結局、難しい命題なんですよ。どういうふうに捉えてるんですか?」
「私は逆に聞きたいの。わからないから」
「俺もわからない」
「なんで?」
「いやだから、たとえばサバンナで生まれてサバンナで死んだ動物が人間に一向に観測されず、死んだならば、それは……死んだっていうことが観測されなまま死んだならば、そこに価値はあるのかっていう」
「価値がないわけないでしょ。どの生命に対しても」
「はい。でも我々が観測しなければいけないわけでしょ?」
「しなきゃならないわけじゃないよ。もちろん。じゃない?」
「はい」
「ごめんね。私いじめてるわけじゃないよ。聞きたいから聞いてるだけだからね。で、その観測されないで、生まれて死んだ動物は完全に終わっちゃうのか?って聞きたいの」
「そこを我々がいかに、いかにそれを死んだことに片づけないかっていう。………その人にも可能性の余地があったっていうところでは、だから結局、死ぬっていうのは………でも、全人類に……たとえば、生きるってなるじゃないですか。生きるってなって、全人類に社会的な実現ができる余地を残すってことは不可能じゃないですか。ある種の弱肉強食なわけで、生き残るってこともあれば、埋もれることもあるわけじゃないですか」
「よくわからないんだけど」
「いやだから我々は、ある種…………あ、ビール」
「ゲストビールお願いしま〜す」
「結局思うじゃないですか………でも………その………あの、みぃさん生きてるじゃないですか」
「はい」
「僕生きてるじゃないですか。で、相互的なものじゃないですか。全ては相互的に生成し合っているんですよ。何かが生産されてるんですよ。それは絶対にあるものなんですよ。実在するものなんですよ。わかります?」
「それは聞いた。それは理解した」
「だから全ては、その瞬間っていうのは生成変化なんですよ。何かが変わって、何かが起きてるんですよ。だからそれは絶対に否定してはいけないんですよ。それはあるものなんですよ。実在するものなんですよ。生成して生産してる。そこにおいては可能性の領野が開かれているんですよ。絶対にそれは否定してはならないんですよ。何かに成ろうとしてるんですよ。みんなは。絶対に何かを志向してて何かに成ろうとしてる過程なんですよ。それを否定してはならないんですよ。だから過程なんですよ。全部は。全ては過程なんですよ。僕は何かに成ろうとしている過程なんですよ。だから僕は過程なんですよ。わかります?完成品ってものはないんですよ。それは完成したっていうものは、その完成したっていうものにおいて素材なんですよ。それを素材にしてまた作品が出来上がって、またそれを素材にしてまた作品が出来上がってるっていう過程なんですよ。だから結局終わらないんですよ。全ての物事っていうのは終わらないんですよ。わかります?」
「なんかこう話してて、それいま作ってね?っていう感じに聞こえるだけどさ、結局それは過程なわけだ。死ぬことはないわけでしょ。結局話を戻すけど、人間に観測されなかった野生の動物は結局死ぬのか死なないのか」
「うーん。結局それは無慈悲な言い方をするかもしれないけど、結局それは死んで、人に観測されませんよね?でも我々は創発的な自己を持っているんですよ。創造する意思を持っているんですよ。なにかが作られなければならないっていう意思を持っている人にとっては、絶対に救われなければならないんですよ」
「何回も言ってるが、結局答えになってないんだけど、死ぬの?死なないの?」
「だから機械としては死なないですよ。肉体としては死ぬかもしれないけど、死なない。機械っていうのはそこに触れるものがあったら、作動するんですよ。触れていなかったら、それは死んでるに等しいですよ」
「わかった」
「どういうこと?」
「そこで結論が出たでしょ?触れていなかったら、死んでいるに等しい、わかった」
「だから、違う」
「違うの?」
「あなたを見るじゃないですか。見てて、今僕は生成してるんですよ。何かを、で、あなたがいなかったらそれは生成しないんですよ。あなたがいるからそれは生成してるんですよ。だからそれは機械なんですよ。まさにあなたは機械なんですよ」
「完全に触れなかった、野生の動物の話をしてるの」
「だからそれは、触れなかった野生の動物の話は……いじわるですね」
「なんで?私は疑問に思ったから聞いてるの。いじわるでもなんでもない」
「それを汲み取ることはできないわけじゃないですか」
「うん。できないよ」
「野生の動物が死んで、その意思を全部汲み取ることはできないわけじゃないですか」
「できないよ」
「たとえば、意思を斟酌して、こういうふうに思ってたんだなって思うかもしれないですけど、でもそれは全部汲み取ることはできないわけじゃないですか。ってなったら絶対……だから……限定すべきものは、絶対に限定すべきもの……だから……人間と動物は区別すべきで、人間と人間も区別すべきだと思うんですよ。確かに人間にとって一番大事なもの、人間にとって一義的なものって、たとえば暴力的な行為があるじゃないですか。戦争が起こって、原子爆弾で破壊されましたみたいなことがあるじゃないですか。それは暴力において奪われるじゃないですか。存立を。だから暴力は……だから暴力は……みんな奪っていくじゃないですか。暴力においては我々は存立し得ないんですよ」
「言ってることがよくわからないけど、どこが区別されてるの?」
「暴力が起こって、直接的または間接的にその我々の意思が奪われるじゃないですか。それは否定すべきなんですよ。でも、暴力……だから……暴力において我々は……究極的な暴力においては……我々は存立し得ないので……それはいかなるものにおいても絶対に……それはちょっとあれだな……でも救われないじゃないですか。だからいかなる、その、だからそれは分子の、分子の配列において人間が存立し得るって言っても、意思があるじゃないですか。だから意思が……結局意思が……結局、だからそれは全人類に……全人類のその……社会的に実現を行うための余地を与えるってのは難しいんじゃないかな……どう思う?」
「いや私が聞きたい。私が聞いてるのは」
「お前が聞いてるんじゃないよ。俺が尋ねるんだよ」
「私が最初に聞いてるじゃん。人間と動物は区別されて、人間の中でもまた区別されるって自分で言ってて、私はそれに対してどう区別されるのかって聞いてるのになんでそれを違う風に話を持っていくの?」
「うーん。我々は意思なんですよ。我々はそういう問題を考えるのは無駄なの」
「じゃあやめよう」
「結局、全人類は肯定されるべきなの。だから、そういうものも素材にして、我々は今ある全人類を生成するために、媒介として働くべきなんだよ」

 

あなたは思考しているのだ。それも先験的な肯定性を含んだ思考、肯定の抽象機械を携えて、その抽象的な生成変化の機械を携えて、考えている姿にただ忽然とする。可愛らしい。あなたはまさに生起している。存在している。動的であり、常に動いている。あなたは顔を持つ。その顔貌性のフラクタル的な機械状のもの、主体性の生産のための媒介、肯定性の媒介、あなたによって、あなたという肯定の抽象機械の作動に触れて、私は絶えず肯定される。あなたは呼吸している。あなたは無駄に与えられた生に無意識的に把持されただ呆然としている。それは可愛いらしいのだ。あなたは眠る。無駄な生を引っ提げて。あなたは、詩である。ポエジーである。創発的な自己である。その創発的な自己を持つ機械だ。ナラティブ機械だ。

電子上のフィクショナルキャラクター。それはナワルだ。もう一つの自我。我々はナワルを作る。ナワルに自分を注入する。それは紛れもなく実在する。機械とは実在する。しかし、その機械で私的な領域をただ深めることしかできなくなった環境は歓迎されるべきではないのかもしれない。スマホなどは自己固執装置だ。………助けてください。私はなんの曇りもなくて。ただただ幸福で。満ち足りていて。

しかし、私は文脈に置かれている。文脈に。ある種の布置へ。気づけばもう手遅れだ。気づけばナワルが出来上がっている。難敵が。鳥獣が。ただそこから逃れたい。だけなのだ。文脈から逃れたい。文脈が私を刺す。文脈が刺殺する。私は品位を持っていたい。品位を落とされたくない。品位。私の歴史。歴史。私の歴史を知るもの。私の歴史を知るもの。内面的欲求の社会的実現。私は救われない。文脈から逃れたい。私は永遠に思春期だ。所有から逃れたい。

誰か僕のことを可愛らしいって思ってくれないかな。

 

「のいくん。私はのいくんが好きなの。ずっとずっと好きなの。私と付き合って、ずっと一緒にいてほしい……。のいくんはスーパー行く?」

「あまり行かないかな」

「売れ残りのお惣菜を見るとね、寂しそうにこっちを見ているみたいですごい可愛いの。………私だけの唯一の存在。私が買わないと誰にも見向きされない」

 

磊落のいは神々しい。見向きされないってわけじゃないし、どちらかと言えば、愛されやすいタイプだ。愛されてきた。愛されキャラ。しかし、俺は孤独を演出しなければならない。ならなかった。売れ残りの惣菜。僕は買われたいから。誰かに買われたいから。あなたに買われたいから。偏愛的な恋人に買われて、ただ愛されたいから。愛してほしいから。

しかし実のところ、僕は孤独じゃない。僕は自分一人で自分が好きでいられる。だから僕は頑強に意図的でなければならない。僕は孤独の演出家だ。僕は哲学をやることで、孤独を演出する。哲学に熱中して、自分をスーパーの売れ残りの惣菜のように演出しなければならない。買われるように演出しなければならない。偏愛的な恋人に。偏愛的な恋人が現れるために。私の文脈を破壊してくれる偏愛的な恋人。文脈から私を連れ去ってくれる偏愛的な恋人。自殺から私を連れ去ってくれる。生きてもいいって言ってくれる。私は、私の過去は、私が私の過去を救いたい。自分自身を救いたい。あなた、あなたという偏愛的な恋人という抽象機械に私は触れたいのだ。

何かしてる人は絶えず孤独の属性を引きずっている。歌を歌う人、絵を描く人、文筆家。何か傾注してる人は常に孤独の属性を引きずっている。私はそれにならなければならない。孤独なんだと思わせるために私は作品を作らなければならない。何かに熱中しなければならない。僕は難解な概念群に憧れていた。それは孤独の属性だったから。私は愛されたかったのだ。難解な概念群と格闘している孤独な哲学者になりたかったのだ。真意はわからない。本当は概念群の意味もわからない。ただ私はその概念に自分を近づけ、概念群を味方につけて、戯れて、スーパーの売れ残りの惣菜として、自分を演出して、誰かに買われたかったのだ。俺の体癖が。認められるように。かつてのびのびとしている私の体癖が。健気な心が。自由が。どうか夢幻に私を誘い込んでくれ。私の精神を承認してほしい。私は孤独ではない。私は本当は孤独ではない。私はただ水準に達したい。他者と関係できる水準に。私は誰なのか。私を見てよ。私は抽象機械としてしか生きられない。完結性が強いから、私は優れすぎているから問題を一回で解決してしまう。ゆえにみんな私から去っていく。私を必要としなくなる。誰も私を見ない。私は究極の肯定の抽象機械だ。一回性の救済の抽象機械。私はやっぱり孤独なのだ。僕は誰なんだ。好きなものがあるのは孤独のメタファーなのだ。傾注している姿。全ては予期的であってはならない。何かを作るとき、制度的企図は必要ない。自己生成分岐に委ねるべきだ。分析の中に自分を投入する。無限の哲学が開かれる。結末、結末を限定しない。完結性を持たない分析的過程。死後の世界という哲学。

根の国………それはまさに偏愛的な恋人を呼び寄せるためのスーパーの売れ残りの惣菜だったのだ。根の国とは、偏愛的な恋人のためのもの。根の国は、寂しそうにあなたを見ている。あなたに買われるためのもの。あなたにとっての唯一の存在。誰か僕らを見つけてくれ。

 

人間は素粒子素粒子は波動。波動エネルギー。波動情報として常に我々は記録される。量子真空の中のフィールドに情報が永遠にホログラム原理で記録される。ゼロ・ポイント・フィールドに私たちが抱いた意識の全ての情報が残る。それが真のアーカイブ、存在を超脱したものたちの真の記録保管場所。電子という枠組みを超えた真のアーカイブ

しかし、それは意識だ。意識の発芽。クンストカメラの奇形児たちに意識の発芽はあるのか。意識の情報が量子真空のフィールドに記録されるのであれば、意識を持ってない人はどうなのか。クンストカメラの奇形児たちはどうなるのか。分かることの体積を広げようとする科学という学問を持ってしても、クンストカメラの奇形児たちの意識は永遠にわからない。

 

………逃避。根の国とは……もう逃避だ。スーパーの惣菜の売れ残り、あなたにとっての唯一の存在になるまで、根の国は逃避し続ける。根の国という素材、根の国という抽象機械を使って私は逃げ続ける。全ては、偏愛的な恋人のための。