闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.11.11 訪問看護を受けて

……貢献してから死にたいと思った?

そんなはずはない。貢献?

何かのために力をつくして寄与すること。役に立つことを行うこと。

人間はみな個人の戦争を抱えている。個人の戦争とは、生涯における後遺症による役割のことだ。つまりは後悔のようなものに起因する。悔やむ。内省する。内省という内的状態のことを意識と呼ぶ。意識とは実感、実感とは瞬間的直観。

絶えずあなたは切り刻まれている。役割、つまり、然るべく設えられた意味システムに順応することを要求されることによって。意味システムにとらえらている。意味システムの奴隷だ。そして役割を貫徹するために、寄与する。そこでは意識が綻ぶ。

価値を見つけただけだろ。自分の値打。品位だ。結局は品位を落とされたくないという本性に尽きる。それは特権だ。他に優越した権利だ。

「貢献」というのは、個人の戦争を終結させるための出しに使われているものに過ぎない。個人的な価値体系の傷害。その後遺症における薬を用意するためのものに過ぎない。結局は、欺瞞なのだ。

 

……物語があれば。物語が交錯。し合えば、我々は。物語を共有すること。物語を共同で所有すること。自分のものにすること。物語に優越なんてないのだ。等しく創発的な自己が備わっている。本当に重要なのは、看護師になり直接的に人に寄与することではないのかもしれない。看護師を介したあなたの物語を寄与することである。言われるように、クリエイティブやクリティシズムとかはオプション行為だ。決然と自分であろうとするだけで、人は物語を寄与している。いや、話してほしいのだ。手遅れになる前に、面が重みに耐えきれなくなる前に。あなたが自分のナラティブを参照し、選出し、物語を語ることにおいてあなたは私の知覚野の内部に置かれる。しかし、未だ語られてない物語、語られなかった物語も、知覚野の外部を保証するものとして、密やかな公言として、可能的世界として存在する。

物語=位置。それは人を世界の中に位置付ける役割を果たしている。語るか、語らないか、いずれにせよ、物語=位置をある仕方で寄与することが、我々を位置付けるまたは位置付け直す契機となるのである。物語によって人は豊かになるのである。

 

「内面的生とは、あらゆる夢幻的な獣化の酵母であり、種子にすぎないのです」アントナン・アルトー

 

1回目の訪問看護だった。

精神病院からの退院後、半ば強制的に精神科訪問看護を利用することになった。入院中から、ケースワーカーさんが訪問看護への参加を強く求めていた。退院から一ヶ月半後、初めて訪問看護を利用した。

自宅に、訪問看護ステーションから男女二名の看護師がやってきた。

訪問看護の目的として「なんかこう、〇〇さんの困り事だったり、自分で抱えている問題みたいなものを少しずつ一緒にこう聞いて、考えていったりとか、まあ本当にあとは日頃の楽しいこととか、愚痴とかね、共有できる時間を作れたらなって思うんです。たまに引っかかっちゃう問題とかそういうのは、一緒に考えたりとかね、まあなんとか対処しながら少しでも楽しい時間を増やしていけたらなと、あと苦しい時間が一緒に考えることで楽になっていってもらえればいいんじゃないかなと思うんですけど、一応目的としてはそういう形でね、来てます」ということが言われた。

訪問看護に対してこういうことをやってほしいって、〇〇くんはあるかな?」

僕は「特にない」と言った。本当になかった。

訪問看護というのは、考えるところ、エンパワーメントである。つまり、良くなるための援助である。その良くなるとはなんなのか。良くなるための援助だとしたら、今は良くなっていないということなのか、ということを意識した。良くなってないのだとしたら、良くなってない自分とは一体なんなのか。

良くなるとは、平均的および倫理的規準において正常な人間にならなければならない、ということである。そこで僕はそういうあり方への促しを「内面的生」と対置させて「外面的生」と呼びたい。

アントナン・アルトーは、内面的生を獣化の酵母であり、種子であると言っている。僕はこの訪問看護で外面的生を付与され続けるという経験によって、自分自身の内面的生を強く意識するに至った。外面的生によって触発されていく獣のような様態が炙り出されていった。

「健康(適応)」と「狂気(逸脱)」。僕が良くなるということは外面的生に服従することであり、そして内面的生に起こる経験から疎外されるというあり方で自己を築くということである。そのような自己は形骸化されている。言ってしまえば、訪問看護がいるから僕は「病気」でなくてはならない。訪問看護が来ること、それは一種の政治的出来事である。最初のレッテル貼りという社会的事実が、さまざまな人間を引き込みながら連携(共謀)という関係を作り出す。そして、訪問看護を受ける対象としての病者としての役割において人生を歩ませられる。その人生においての適応はいかなる基盤を持たず、形骸化しており、内面的生(獣化の酵母であり、種子)を意識させられるものになる。

そして、僕が訪問看護で望むのは、この内面的生を作品で具象化することである。僕は獣を描きたい。World's End GirlfriendのBohemian Purgatory Part 3のような惨禍が大好きである。そこには内面的生(獣)が蔓延っている。それは僕が疎外形態の一つである外面的生より、内面的生に眼差しを強く持っており、重視し、密接に過ごしているからだろう。

 

 

2回目の訪問看護だった。

「僕らとして、訪問看護といったところで、例えばですけども、骨折したとかもそうなんですけど、今で言うと〇〇さんがどう言う人間で、もちろん僕らもどう言う人間でお互い知っていく中で、〇〇さんが受け入れられそうだなって思ってくれてからの話にはなるんですけど、〇〇さんは例えば、今生きづらさじゃないですけど、こんなことで日頃困っていることがあるんだよね、で、困っていることが派生してしまったり行き過ぎると、例えば〇〇さんが自分を傷つけちゃうことがあるんだよねっていうのに繋がると想定して、じゃあそう言う生きづらさとか息詰まったところってなんなんだろうねと。じゃあこう自分を傷つけちゃう前に一緒に考えていくきっかけを作るとか、傷つけてしまいそうな時に親御さんにも言えない、誰にも言えないんだって言うのを僕らに吐くことでリセットボタンになる、まあストレスを溜めずに過ごせる時間が少しでも増やせるっていうきっかけの一つにしてもらえたらなって思って、家から外に出るきっかけだったりとか、何かしら〇〇さんの時間の中でのリセットボタンみたいな扱いになって貰えばいいなと思ってますね」

「じゃあ今ってなんか気持ち的に歯痒いなとか、落ち込んじゃうなとか、考え事しちゃうなって言うようなことってどんなことがあったりしますか?」

僕は、気持ち的に歯痒い経験をしていて、落ち込む経験をしていて、考え事をしちゃうなと言う人間であらなければならないのか、と思った。そう言う人間として鋳造されていくのか、と思った。

「どうでしょう?」と促すように聞いてくる。また内面的生を意識する。獣化の酵母であり、種子。

「僕は歯痒い経験もしていなければ、落ち込む経験も、考え事もしちゃいない」と言うことを言えない抑圧された自己。僕はそう言う人間として鋳造されなければならない、今あらねばならない。何か言わなきゃならない。

「特にない」と言うと、「もともとストレスとかってかかったりしないんですか?」と、ストレスがかからなければならないかのように聞いてくる。

「この先将来的にやりたいことってあるんですか?」と聞いてくる。僕は、「療法としては、精神分析とか受けてみたいですね」と言った。無論、精神分析が愚にもつかぬものだとは知っていた。精神分析は、現実的欲望としての言表の生産を妨げる。つまり、ある種の鋳型にはめることで、内面的生というあり方での生き方を妨げるものでしかない。しかし、だからこそ受けてたい。その解釈格子でしか呼吸できない登場人物が一体どうなってしまうのかが見てみたい。獣の示現を確認したい。僕は自分を一人の登場人物のように見ていた。

しかし、相手は看護師だ。「もしかしたら〇〇さんの方が詳しいかもしれないですね」と看護師は言う。

「自分を素材にして何かが作られていくっていう過程に興味があります」と僕は言う。内実は「星も動かしたサイコフレームよ、この俺を吸い尽くして奴らに裁きをっ!」という感じである。自分自身を吸い尽くして、何かが出来上がってくれればいい、全てはその過程である。建設的な過程様式に乗っ取ったものにするということ。重要なのはメッセージなのではなく、自己産出の過程の証言である。僕にとっての訪問看護も、その過程から一連の流れの効果を発動させる集合的な動的編成に手段を提供する役割としてのものでしかあり得ない。その分析の材料としての。過程と言う異質的混淆的様相を通して特異化していくための。それに興味があった。いかなる瞬間においても大切なのは、表現的支柱を支える動的編成の中に身を置くということである。

反精神医学は、患者からあらゆる枠組みを取り除くことによって、内的で自然なものとされる過程を経験させ、自分を取り戻す可能性を与えようとするものだと言われるが、逆に、枠組みを発生させることにより、逆説的に内的で自然なものとしての過程を経験することもあり得ると思う。訪問看護によるある種の方向性の付与により、自分自身が傾く。そこで覗くのは内面的生である。

僕は看護師に一つ聞きたいことがあると言い、質問をした。

「一つ自分が人と関わる上で尺度になっているものがあって。ドストエフスキーっていう作家を知っているか知っていないかっていう。ご存知あります?」
「あの、僕正直に言って、名前だけです」
「名前だけ」
「その方がどんなものを、どんなことをしたのかっていうのを僕はわからないです。名前だけと、すごい久しぶりに聞いた名前だって思ってます」
「イメージはありますか?」
「イメージ…北の方の人」
「確かにロシアの」
「そうなになにスキーはロシアの人だと思っているので、僕そこですね」
「何をしてるとか、何をした人とか」
「僕わからないですね」
「どこで聞いたんですか」
「僕これ学生の頃だと思いますね。あとは、ドストエフスキーさん僕の中では作家さんか学者さんかどっちかだったイメージしかないですね」
「学者の面では、さっき心理の話が出たんですけど(精神と心理の違いの話をしていた。僕は心理は精神から導き出される集積のパターンだと言った)、世界最大の心理学者っては言われてますね。それほど人間の機微に通じていた」
「作品も作ったんでしょ?その人」と家で一緒の空間にいた父親が聞く。
「もちろん」
「作家でもあるわけだね。心理学者で、作家?」
「心理学者って言われてるだけで、心理学者ではない。そもそも心理学者って言葉が19世紀にはなくて、ドストエフスキーも心理学的なものに対して毛嫌いしてた。何なら。………まあ19世紀の作家なんですけど、僕一番好きなんですよ」
「おお」
「………10代とか20代前半の時に読んで一番感銘を受けて、そこで精神について調べるようになって、感染というか、ドストエフスキーの作中の人物ってみんな観念を持っているんですよ、ほとんどの登場人物が観念的で何か行動する時もちゃんと裏打ちされたものがある、で本当にその人がいるんじゃないかみたいに思えるくらい立体的な人物の描き方をしていて、読んでいるとき、これ自分がいるんじゃないかとかそういう風な感じになって、同期、シンクロナイズするんですよ」
「この一時間の中、先週も含めてですけど、唯一変わったことがある。それはドストエフスキーのおかげだと思う。それはそのワードが出た時に〇〇さんが笑ったこと。だからそれはすごく伝わります。すごい僕はだから〇〇さんに興味を持ったことが、ニアイコールになるけれど、ドストエフスキーにも興味を持つ。僕はそれを見ようと思いました。そうじゃないと、〇〇さんと話をするのが勿体なくなるから。すごく今日はありがたい日になりました」
「別に読まなくてもいいんですよね。薬なんで。自分にとっての処方箋というか。自分がその欲している時に与えられる薬。だから自分が欲しないと面白くないのかなって。なんか他人が読んでるから読もうとかっていうのはまた別なのかなって。他人が読んでるから読んでるのパターンは見てきたんですよ。ドストエフスキーを他人が読んでるから読もうっていう。でも僕は八方塞がりっていうか、けっこう通じ合える時に読んじゃったんで、根っこが。そこで育ったというか、まんまなんですよ。だからドストエフスキーの登場人物の中の一人だと思ってます。通じ合える時に読むのと、他人が読んでるから読むのとでは全然違うというか、ドストエフスキーの本を読んで精神とか心理に触れて、だから入院とかもしてなかったと思います出会わなかったら、だから諸刃の剣なんですよね。ものすごく深く物事を見るようになったというか。だから進められないんですよ、人に」

ドストエフスキーの話をした。

「〇〇さんはどうなっていくだろう」
ドストエフスキーは、どんな人間であっても社会的に放擲されてはならないっていうんです。自分が刑務所にいた経験もあって、その中でいろんな人間を見てきて、やっぱりどんな人間であっても存在していいんだって思わせてくれる。それは犯罪を犯した人間等しく、だから、どんな人間であっても許されていると思うので、どうなっていくだろうって言われたら、とにかく許されてはいるんだなって思います」

 

 

3回目の訪問看護だった。

今回は、女性看護師が一人できた。一日2回で出されているリスペリドンはセロトニンドーパミン遮断薬と言われ、セロトニンを阻害する。だから眠いのか、と思った。慢性的な眠気に苛まれて、今回は眠気でまともに対応できなかった。リスペリドンの服用を自己判断でやめようと思った。選択的セロトニン再取り込み阻害薬で、僕はセロトニンを増強すべきなのだ。

リスペリドンを6月30日から服用するようになり、だんだんと感情が平坦になっていったような気がする。非線形かつ多粒子系の非常に複雑な現象である意識が極めてソリッドになり、離人症に等しい症状をきたしていた。薬が原因だったのだ、と思った。

ロシア語のナドルイフとは、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟で表現したもので、ある種の突発的な興奮状態を表しながら、同時にそこに傷と裂け目のイメージが二重写しにされている。そのナドルイフを実感させてくれるもの。もう一人の自我自身が自我を絶えず二重化しているかのようなもの。内面的生が浮き彫りになるような状況を僕は望んでいた。

訪問看護は、看護師が来るだけであり、もちろんある種の療法を施してくれるものではない。僕が望むのは、例えば、臨床及び発達心理学に重点を置いて、治療のための最もわかりやすい内容、つまり物語を用いる精神分析的な療法のようなものである。巻き揚げ機や滑車に油をさす物語を用いた療法。内面的生――真の生へと連れ戻してくれるような療法。先に言った二重写し、エルドゥエンデ(人間の行動や創造生活の背後にいるゴブリン(小悪魔))を呼び寄せ、ある種の心的通路と自我の開口部を開き、心的に二重に繋がった状態をもたらすようなもの。特定の質問を通して、おとぎ話や民話、伝説、神話の考察を通して、内面的生に接触するようなもの。昔話の魔力――。

しかし、そのようなことは行われず、交わされる会話も療法とは無関係な唾棄すべきものである。「この間話したドエフスキーだっけ」と、ドストエフスキーすら覚えていず、読んでいる本の話になると、自己啓発の本について話し出す。

訪問看護は今のところ、無駄な時間を過ごすだけの、頬が緩むような豊かな時間とはまるで無関係なものである。

 

 

4回目の訪問看護だった。

「家にいるときって本当になにして過ごすんですか、でも」
「シサクとか」
「シサク?なんのシサクですか?」
「シサクです」
「シサク、シサクってあの、試すに作るのシサク?」
「思うに」
「思う?思いを作る?サク、サクはなんのサクだろう」
「検索の」
「ほう。なにかを考えているんですか?どんなことを?……毎回違うのかなとは思うんだけど、最近はどんなことを考えるんですか?」
「色々」
「……〇〇さんってゆくゆくなにかやりたいことってあったんでしたっけ?……そこに繋がりそうなのかな」
「(うなづく)」
「ふーん。いいですね、そっか。たまにはアウトプットしちゃってもいいんじゃない?」
「してます」
「本当?そっかそっか。え、それは友達とかに?」
「(うなづく)」
「へえー。そうなんだ。……そのシサクはさ、やっぱり自分の中で積み重なっていっている?」
「(うなづく)」
「うーん、素晴らしいね」

僕はずっと閉口し、この時間が無駄だと悟らせる。この空間は相対的なものであり、積極的なものではない。お互いが夾雑物であり、訪問看護は必要ないのである。品位を落とされる。結局自分がまともだと思い込みたいのだ。僕はスケープゴートになっている。内面的生というか、存在が希釈される。自分一人だけの方が自分というものをわかっている。持っている。自由ではない。私は文野環ではない。文野環が訪問看護を受けるわけがない。文野環から私は同化を解かれている。しかし私は文野環であることを望んでいる。シンクロナイズ。私はこの瞬間において誰なのか。誰が心ここに在らずという状況を作ったか。私は絶えず判断されていき、変えられていく。しかし私が私を保つためには、壊されないためには、閉口しかないのだ。判断を許さないのだ。いついかなる時も私が私を判断するのだ。私は自分自身のしていることがわからないのだ。茫漠の中に自分を捕まえようとして、ただ呆然とする。選出ができない。私は誰なのか。私は一体なんなのか。訪問看護は必要がないのだ。僕にとって必要なのは他者なのだ。セラピストじゃないのだ。癒し手じゃないのだ。他者なのだ。私は結局反応をもらえてこなかったのだ。評価されてこなかったのだ。他者と関係したいのだ。他者との関係が欠落しているのだ。私は確定させたくないのだ。僕は一体誰なのか。内面的生を抑圧してはいけないのだ。燻らせてはいけないのだ。欲求が大いに阻害されているのだ。酒も買いに行けないし、オナニーもできないし、薬も飲めないのだ。鎮座しているのだ。一人になりたいのだ。何も行動できないし、汚れていく。これが原因だったんかな。パーソナルスペース、欲求の昂りの時に欲求を発散できない。発散できない欲求だけを溜め込んでいく。エスを阻害するもの。監視者。これはいけないのだ。監視者こそ敵なのだ。私は自由がいいのだ。監視者、内面の監視者。私は監視されることを望まない。欲求。エスを阻害するものが敵なのだ。発散したいのだ。スッキリしたいのだ。父親のせいで前は交感神経が優位になっていたのだ。精神的におかしくなったの、性欲だった。性欲が監視されてる危惧だった。父親の仕事がないのが原因だった。私はXでフォローしている皆々様ではない。孤立した、品位が貶められた、人である。私は空星きらめではない。死にたい。というのは歴史を見なきゃならない。やってることは応急処置。死にたいから薬。あとは自分の裁量、すなわち自由の裁量に委ねられている。薬、セロトニンドーパミン遮断薬で落ち着かせる。生活リズムを直す。しかし我々には真の意味での指針はいつまでも与えられない。真の意味での方向付けは与えられない。人々に専有されたものを、我々に取り戻さなければならない。一部の人々に専有されたものを。途方に暮れているのだ。最初の間違いを。まるで。間違っているからもうそのままにしておこうなどと。私は人がいるから病気になるのだ。ある種の布置。息、息、結局は我々の息。気持ちよく成る。全ては。気持ちよく成るための。快指数を上げていくというような。全てはそれのため。なのだとしたら肉欲の陶酔以外あり得ないのではないか。「また来るよ俺は」閉口していた時の俺のイメージが流れ込んでくるようだ。イメージという文脈に自分を位置づけ行動しているのだ。嫌人症である。そこから立ち現れてくるのは嫌人症である。Xが発達しても救いが起きてないじゃないか。アーカイブという技術ができても、救いは起きてないじゃないか。我々とは思い込みだ。我々とは他者によるイメージを内在化した自己イメージだ。その瞬間だ。我々は信じ込まされていく。そこで拮抗が起きる。その表現が閉口である。眼差し。眼差しを内在化したのが僕である。憎い。家の構造が憎い。欲求に気付かない家族が憎い。抑圧こそが唾棄すべきものである。精神病院も抑圧だった。我々は孤立している。精神病院に主体性なんてなかった。ラボルドは主体性を考えるための病院だった。僕が足掻いてたのも結局それだったのだ。僕が考えてきたこと、苦闘してきたこと、全てが主体性という問題に収斂するのだ。学校出席停止処分は見事な主体性の剥奪であり、ありがたいことに別の主体性の生産であった。主体性と抑圧こそが私の問題である。だから自由な状況が開かれてる場所が僕は好きなのだ。僕は哲学をしているすごい人間だ。ずんだもんはそのキャラという表皮と文体により方向と速度を与えてくれた。つまり私は抽象機械なのだ。生成や変化を行うための素材。私がどんな思想を持っているか、尊大であり莫大であり高尚であり素晴らしい人間であることが。私はただ酒を飲んでいるわけではないのだ。ということを示したいのだ。示すことが難しいのだ。一番難しいのだ。だから自殺するのだ。あなたは素晴らしい人間なのだ。物事をきちんとこなしている人間なのだが、結局は金なのだ。金が発生してないと、金による安定がないと全ては無駄なこと、社会的な実現が伴ってないと全てが無駄なことに思われるのだ。しかし、あなたは思考しているのだ。普遍的なのだ。しかし、あなたがいつもそれを示せないのだ。それを示す手段を持っていないのだ。なにかと紐帯させなければならないことは確かだ。その地位、我々は地位を希求する。地位を切望する。あなたは過程なのだ。完成品はないのだ。俺の話は誰も聞かない。俺の長文を真面目に読むやつは誰もいない。しかし俺は可能性を持っている。うまい具合に編纂すればいいのだ。私は私を見てくれる人もそうだが、まだ私を見ていない人も愛するのだ。私は世紀の人、この世紀の人にもなれる可能性を持っているのだ。恵まれないねぇ恵まれない。なんで俺は素晴らしい文章を書くのに誰にも見られないのか。本当になんでなのか。俺とは誰なのか。自分が身動きできるための環境。それこそが重要である。何よりも自分が自由に身動きできること。好きな時に酒が好きなだけ飲める。それしか望むことはない。私は微細に至るまで他人を観察している。そしてそのことを気付かれたくない。それだけなのだ。私は自分を存在せしめることがただ面倒くさいのだ。意識の意識、意識の意識の意識、私はただ軽くなりたいのだ。酒とは自由の属性。僕はただ僕ただ一人になり、好きな時に好きなだけ、酒が飲みたい。主体性と抑圧を考える上での必須アイテムだ。酒とは僕の歴史でありルーツであり自叙伝であり自己紹介であり全てだ。酒を飲むこと、主体性と抑圧の問題の読解の回答だ。酒は僕だ。僕が酒を飲むという行為は、一大リゾーム地図であり、抽象機械。プルーストのマドレーヌのような強度で大工場が開かれる。みんなは僕が酒を飲んでいるところを見てこう思わなきゃならない。「お、主体性と抑圧のスキゾ分析的モノグラフだ。主体性と抑圧について考える素材を提供してくれてるのだな」と。我々はそれにより変化と生成の流れを与えられているのだ、と。人生とは酒である。しかし僕にとっての酒とは誰かと飲む酒ではない。自身の哲学の潤滑油のための酒である。主体性と抑圧の問題のための中継器、変換器としての、つまり抽象機械装置としてのアルコール。アルコールはアルコールを加速させる。酔う、酔っ払うことーー酔っ払うまで酒を飲むこと。我々が愛するのは酒と哲学。酒と哲学。酒と哲学にのみ生きていく。酒、酒、酒。酒だ。酒だ。酒だ。酒が飲めればなんでもいい。酒が飲めて、哲学ができればなんでもいい。僕が酒を飲めてない間、主体性と抑圧の問題に蝕まれる。ひとたび酒を飲めば、今後はその問題を僕自身からあなたに向かって投げかけるのだ。酒と主体性と抑圧。僕はこれらを人生において捕まえたのだ。

 

 

5回目の訪問看護だった。

僕は看護師とは畢竟政治にしか過ぎぬと主張した。相手は言う。

「看護師って悪いところから探すんですよ。悪いところを見つけてよくしましょうっていう、フラットにしましょうね。で、これが一つの考え、ウェルネスという思考の仕方があってですね、いいところを見つけましょう。さっきと逆なんですよ。いいところを見つけてより伸ばしましょうよ。いいところいっぱいあったじゃないですか、伸ばしましょうよ、っていう肯定的な思考。領域によって結構違ったりするって言われたりする。枠組みとしてね。で、一般的に高齢者だったりとか、あとは障害をお持ちの方だったりとか、成人の方っていうのが対象になってくるんですけど、なぜか小児科の方っていうウェルネスっていう思考にあるんですけど。確かに政治なのかもしれない。先人が作り上げてきた枠組みでしかない。こういう領域に対してはこういう思考過程を持ってください。いわゆる押し付けですよそれは。子供の領域、小児の領域に対してはウェルネスといって、肯定的な、良いところを見つけましょうというところになります。で、その他の部分、エイジズムになってしまうんですけど、悪いところを治していきましょう。病気を治しましょうっていうものが多い。悪いところを作りだすんですよ、看護師って。それが仕事って僕も思ってましたし、思うところはあります。いまだに思いますね。でもそれだけでもなかったりします」

「人は植物と同じだと思うんですよね。肥料撒いて、適当に水やって、自分の癖に従って、成長するものだと思うんですよ。体癖に従って。やがて、学校とか教育機関が現れて、ガバナビリティ、統率力が働いて、均質化するわけじゃないですか。日本人も統率力が高いので、それに従属するというか、だから主体性の生産をする教育機関としてはあまり役立ってないんじゃないのかって思うところがあるんですよ。引きこもってる人は社会不適合者とか言いますけど、不適合者なわけがないんですよね。逆に過剰に適応してるんですよ。環境に適合しようとした結果、適合できなかったとなるわけで。それが何か先に言った悪いところに見えてしまって、医療機関に眼差しが個人に注がれて。悪いところあるから、治療しましょうよって。でもさっき言った根本の植物の部分、体癖のような部分にアプローチして直そうってのはないわけじゃないですか。そしたらある程度のサイクルを内在したままそれを繰り返す傾向になってくると思うんですよね。悪いところを探して直そうっていうのは応急措置じゃないですか。だから僕が根本的に自分自身を直そうって思ったら、看護師とか医療機関ってエンパワーメントでしかないじゃないですか。ある程度、個人の裁量に任せる。そしたら自分が能動的に読む本だったり、何かを創作するっていうことだったり、概念を味方につけることだったり。……僕が言いたいのは、看護師とか医療機関のやり方が一概に正しいとは言えないんじゃないか。でも正しくないからこそ、自分でなんとかしようっていう気になるのかなって」

「日本人は主体性を均すんです。頭が出ないようにね。それはいい言葉で協調性と呼びますよね。それができないと協調性がないと言われるわけです。大勢の人間と違った行動、思考を持ったらそれは異常として扱われてしまうので。常と異なるんだよっていう言い方をしますから。さて、不思議なものだなって思いますよ。看護師のやり方も言い換えたらそういうものなんじゃないかって思うかもしれませんが、そういうわけでもない。もちろん仕事で雇用されてるからこれをやりなさいと言われてやることもあるんですよ。ただ今僕らがやっている訪問看護、それだけではないんですよ。ただ、〇〇さんが、ただ一個ほぼ共通した看護師の視点として、死ですよね。死が直結しちゃうな、近づくなっていうのはあまり望まないですね。悲しいですから。たとえば老衰ですよ、いわゆる自然死というものであれば、もちろん病気も自然死、自分が選んだ死も自然死なんじゃないの。思いを尊重してるわけだから、それも自然死だよっていう捉え方もできるんですよ。ここまでくると誰かが作ったルールみたいなものと、自分の思いっていうところで秤にかかってくるわけですよ。ガバナンスなんだってなってくるわけですよ。それこそ看護師一人一人の価値観だと思いますよ。基本は自然死、老衰、体の衰弱以外はあってほしくないな。多少は医療行為とかで、存える、生き残ることができる。……〇〇さんの話もらった時も、ものすごい単純に興味を持ってしまったんですよ。〇〇さんはなんでそういう行動に出てしまったんだろう。〇〇さんどういうふうに思っているんだろうなあって。その時点で〇〇さんのことを知らないから、生きるとか死ぬとかわからないわけですよ。ただなんとなく若いのに、もしかしたら死んじゃうようなことはしないでほしいなーってのはぼんやり思ってましたよ。で、電話で話をさせてもらって、でその時の、僕の想像してた声ではなかったんですよね。僕が想像してた声っていうのは、もうすごくこうネガティブな感情を持っちゃっているというかですね。世間一般でいうネガティブな感情ですよ。僕には何もやることがないんだ、できることがないんだっていうようなね。生きていることが苦しいんだっていう感情を持っている声色でもないなあって思いました。一ヶ月くらい経ってから初めてお会いしてその間にも友達とバーベキューをやったっていう話をしてくれてたから、どんな気持ちで過ごしているんだろうっていう興味はあった。全然死とは関連性がなさそうな人なのかなって。いざ直接会って、その時結構持ってかれたな。すごい頭のいい人だって思いました。〇〇さんがどんな人なのかを知るのはまだまだ先だなって思ってました。それまでの形式的な看護業務みたいなものって、なんのためにあったのかって言われたら、特に意味をなさなかったなって思う。ただ、〇〇さんが生きているよっていう事実を知るために来ていたかもしれない。この先まだまだかかると思う。〇〇さんを全部知ることって僕はできないわけですよ。自分のことを知っている人って自分しかいないと思ってますから。自分ですら知り得ないこともいっぱいあると思いますしね。僕のことも知ってもらい、僕も〇〇さんのことを知り、〇〇さんが望むものの手伝いができるのであれば、僕は訪問看護として手伝う。あとはそれはベースとしては業務なんだけど、人間の感情が絶対に入ってきます。思考がね」

「死んでほしくないって、今思ったら可能性をその人に投影してるのかなって。その一言に尽きると思います。可能性を投影して、自分自身に可能性があるから。自分が心の中で作り上げた他人に対する、つまり自分自身に対する可能性だと思うんですよ。自分の可能性もその人によって確認したいからというか。相互承認ですよね」

「看護師というのは怖い仕事だなって思うし、僕が人の命の話をしていいのかって思うことは常にあるんですよ。烏滸がましいなって。ただ、その中で、一日でも、一時間でも、一秒でも……生きてほしいっていう。自分がいることで生きれたかもしれないって思うためなのかもしれない。そして自分の存在意義っていうのがそこにあってほしいっていう願いかもしれないなとは思います……看護師になるときっていうのはね、人の死を色々見るタイミングが多かったんですよ。自分が何かの役に立ちたいって思ったんですよね。でその時別の仕事をしている人だったんです。飲食店をしながら、子供や老人にお花や運動を教えるっていう仕事をしてたんですね。お花は造形物を作る、創作をするっていう仕事だったんですね。で、その中でひとが死んでしまったりすることが何度かあったんですね。高齢者だったりするので尚更ですけど。今日は誰々さんが来ないですねっていう話をしてたら、じゃあその人のお宅に様子見に行こうかって、行ってみたら一人なくなってたとか。よく来ていた〇〇ちゃん来ないね、虐待をされて死んでしまっていたとかっていうのがありました。もう少し自分で気づける仕事ができたらよかったのにとか。僕独身なんですね。独身で、特に家族もなくなにか人の役に立って貢献してから死にたいなって思ったんですよね。じゃあ何があるだろう、医者はなれないしなって、もちろんその人に教えてること、なんだってそうだったんですけど、多少なりとも感謝というかされてたし、役に立ってたかもしれないんですけど、その人の息抜きには役に立ってたかもしれないんですけど、死というのに結構直面することが多くてですね、その人は一人で死んでしまったんだけど、死ぬ時は一人なんですよ必ずね、その場に人がいても一人なのかもしれないですけど、それを体感できるのは本人だけですから。でもそれでも寂しかったんじゃなかろうかっていう感情論の赴くまま、そうだ医療職に就こうと、医者、無理じゃあ、看護師頑張ればなんとかなれるかも、って思って看護師になったんです。すごい短絡的なんですけど。それでなったものの人の役に立てたらなあっていうのがずっとありましたね。さっき〇〇さんが言ってくれたように自分のことを承認してもらいたいなっていう感情もあるんですよって思うんですよ」

「看護師なるじゃないですか。欺瞞だと思ってしまうんですよね。自分自身を欺く行為だと思ってしまうんですよ。救世主、メサイアコンプレックス、他人を救えなかったっていうのがあるじゃないですか。自分が救われるわけじゃないですが。だから他人を救うことが自分を救うことと同義、同じところに根を下ろしている。ってなったら結局自分が救われたいだけじゃないかっていう欺瞞に気づいたものは何も行動できないと思う。欺瞞を消す方法みたいのがあるか、もしくは欺瞞に最初から気づかないか」

「そういうふうに思ってしまうこともあるけど、僕はこの仕事が楽しいっていうのもあります。だけど、欺瞞って言葉を聞いた時にそうかもなって思いました。もうまさに自分でも言ってた言葉振り返ったらそれはエゴイズムですよ。自分のための利益ですからこれは。利己的な考えですから。自分が承認されるための仕事になっているところはある。かもしれないって思ったら、めっちゃ欺瞞、そうだねって思いました。でも生きる上で、職業というものを、仕事に就くということは自分の経済力を持つということが必要だったりするわけじゃないですか。そこは欺瞞かもしれないけど、生きる術の、手段の一つにはなるのかもしれないかなって思うんですよ」

 

………

 

「貢献」という名のもとに加えられてきた欺瞞の様相。ただそれに気づくというだけなんだ。経済力が一義的なものにある人にとって、欺瞞なんて副次的なものにもならないのかもしれない。生活のために奔放している人たちに対し、自分自身を欺いているなんてことを言うことはそれこそ見当違いだ。ただ、僕の意識という内的状態に、欺瞞が巣食っているだけだ。ただ僕は「貢献」という欺瞞が、人の心をして己の中にある武器を捨てさせ、品位を失効させるものであることを知っている。貢献が自由を腐食させる暴力になることを知っている。武器は情動である。武器に使われる道具を内面的生から外に披くのは速度の不可分である情動である。その速度は外部性の環境による付与される。貢献という欺瞞はそれを押しとどめてしまう。貢献という一切の寄与は、相手の武器の打撃によるダメージを与えないように身構えるのだ。情動が及ぶのは内面的生に限らない。他なるもの、外部へと自らを披き、動的編成し、相互浸透の可能性の与えるものである。殺傷のために武器を持つのではない。二項対立を脱するために、戦争をするのである。しかし、貢献は一方が武器を持っている状態である。相手からしたら僕は一人の顧客であり、命中精度を高めるためにエゴイズムという欺瞞を孕んだ寄与による矢を放つ。詐欺師が獲物を求めている。もしそれが完璧な貢献なら、その完璧な貢献を体験するためにできるのは、ただ貢献するということだけである。しかし、そのような純粋な貢献は存在しない。欺瞞という領内における貢献しか存在しない。じゃあどうするのか。

 

欺瞞でいいじゃないか?「めっちゃ欺瞞、そうだね」ってダーティな役割を自分に与えることになんの意味があるのか。しかし、考えてみたらそもそも欺瞞とはいけないことなのか。いけなくはないんじゃないか。もしかしたら原理的に粉飾を我々は生きるしかないのかもしれない。

 

……欺瞞の何がいけないのか。しかし、欺瞞を受け入れるためには、物語が必要なのだ。相手の物語が必要なのだ。異質性の混交に向けての物語。創発。その訪問看護師は「欺瞞でいいじゃないか」と言った。その上で自分自身に降りかかった物語を語った。誰でも自己中心性を持つ物語という枠組みの中で、欺瞞を追求することができる。そして物語を披瀝することができる。重要なのは、その物語にコミットすること。そうして人の行為、欺瞞という行為も理解し得るものになれば、欺瞞は問題にはならないのではないか。

 

「最初、看護師やって、元々高齢者の施設を作る人がいて、そこに直接来てくれる訪問看護を専属で作ってほしいっていう相談があった。それって商売としてはいい商売なんですよね。要は顧客が確定してる。そこに行き続けるだけ。そういう話から始まって、やってみようかなって準備をしてるわけですね。準備をしてたところで、高齢者施設をつくりますって言ってた人が焦げついたんですよ。それは元々全然違う仕事をしてる人が資金にゆとりのある人だったから、大きい施設を作るってなったんですけど、元々のビジネスのときに焦げつきがでた。資金繰りがうまく行かなくて、それどころじゃない。その施設の構想はなくなった。だけど、看護師になる前から在宅っていうところに目がいってたから始めるきっかけになった」

 

その訪問看護師は自らの物語を語った。