闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.04.26〜2023.05.13(2)

2023.04.26

二項対立をどうやって脱するか、ということについて最近考え、調べるとデリダ脱構築に行き着いた。僕は以前、デリダの「言葉にのって」を読み、学校を追放されたと知った。僕自身も学校出席停止処分を下されている過去がある。学校から排除されたことによって、アイデンティティ・トラブルを引き起こした。僕もデリダも境遇は同じなのに、なんでデリダは、アカデミックな場所にいるのだと思い、毛嫌いしていたのだが、二項対立の脱構築を考える上、読まなければとなった。
そして、「デリダ 脱構築と正義」を読み進めると、学監の部屋に呼ばれて家に帰される、高等中学校に登録したが、不登校を起こしていたこと、さらに哲学教師として教え始めたが、鬱状態に陥り、学校とのギクシャクした関係は続いていたことを知り、なるほどそうかと気がついた。

 

2023.04.26(2)推しの子ネタバレ注意

ネタバレあります。

推しの子というアニメ、友達が勧めてきて、「最後泣けるかどうか討論したい。1話だけ見てほしい」というので、僕も脚本を書きたいので、参考に90分視聴したが、泣けなかったが、泣ける場面としては、ルビーが前世の退形成性星細胞腫を思い出してダンススタジオで、うまく身体を動かさなかったところと、アイの死の場面の二つでした。
感想としては、key作品で全部見た、という感じ。いわゆる泣きゲーと呼ばれるゲームブランドの麻枝准は、人の死がビジネスになっていることに関して辟易して、ナーバスになっていたと思われる。それで、本当はもうアニメを作りたくなかったが、作品を作ってほしいとの発注の依頼が来て、もし作るなら「だったら最初から人が死んでいる設定にすればいいのではないか」と死後の世界を描くAngel Beats!を作った。
推しの子もkey作品同様、泣かせるという、仕事としての人為的な部分が企図されている感が否めなくて、(あくまで個人的な感想にすぎない)没入できなかった。最後の、「これは言わなきゃ、ルビー、アクア、愛してる」「この言葉は絶対嘘じゃない」とかの場面でも覚えた感情は「わかります」だった。

「数知れない言葉を惹起するだろうが、これらの滝のように流れる言葉が互いに相殺されてのどの奥にとどまっているから、表現不可能なのだ。」ジャンケレヴィッチ「死」89p

とか、ブランショカフカ論とか、読んでいたら泣けるはずがない。決して作品を否定している訳ではないし、むしろ90分見て良かったなと思っているが、これを見て感動して泣いているとするならば、ただ、今まで見てきたものが違うよね、としか言いようがない。正直にそう思ってしまった。
この作品が人気な理由が全くわからない。これから復讐劇になっていくらしいが、面白くなるのだろうか。これから見続けるつもりは今のところないけれど。

 

2023.04.27

僕の書くものというのは、モノローグになりがちだ。だが、僕はキャラクターを作り、脚本を書きたい。そして、キャラクターを造形するとき、自分の経験から生まれるもの、信念のようなものが核となるのは勿論だが、作品の彩色として、自分の気に入ったキャラクターの出てくる小説などを、スキゾ分析的に読み、(文章を読むという実践過程の中での異質混淆的様相)これを大切にし、読み進めながら、絶えず展開をメモしていき、先に言ったスキゾ分析は、簡単に言えば、類似性の中の非類似性のようなもの、それを意識して、記していき、特異的存在にすること、それでオリジナルなキャラクターを作ること。
今はディドロの修道女を再読している。そこから産出されるキャラクターがいることを確信しながら。

 

2023.04.28 「シン・仮面ライダー」と、「名探偵コナン 黒鉄の魚影」のネタバレあります。

今日は、「シン・仮面ライダー」と、「名探偵コナン 黒鉄の魚影」を映画館で見てきた。
感想だが、「シン・仮面ライダー」は、終始、意味不明だった。プラーナや、オーグなどの用語が特になんの説明もなく多用され、置いてけぼりにされたような感じが続く。プラーナとマスクやスーツが連動して、自分の意思に反して最初敵を倒している。マスクになんやら特殊な効能が見られるが、いまだに全然よくわかってない。ヒロインは元々、ショッカーだったらしいような。何者なのか全然わからなかった。映画という尺で仮面ライダーやるのは、無理あるんじゃないのかと思った。僕が見た仮面ライダーは、世代である子供の頃に見たクウガとアギトがうろ覚えなのと、(アギトの警視庁未確認生命体対策班などの組織は良かった)大人になって見た555と、アマゾンズ。555は、適正能力のある人間が仮面ライダーになって変身人物がコロコロ変わるのが面白かったし、アマゾンズは、実験体としての流出したアマゾン側と、人間側の対比、特に印象的だったのは、アマゾンたちが揃って粛々と食事している場面など、その悲哀の印象。「シン・仮面ライダー」は、庵野秀明が、気に入った道具を使って、遊びの延長線上で作っている印象で、そもそも元ネタや、用語がわからないと、楽しめないし、今作に関してはわかってたとしても楽しめない気がした。

名探偵コナン 黒鉄の魚影」は、この上なく面白かった。海洋施設のパシフィック・ブイがそこはかとなくかっこいいし、音響もいい。物語が進行するにつれ、多数のキャラクターたちの特質が目立ち、全員が立場を明らかにするような演出になっている。黒ずくめの組織は相変わらずかっこいい。安室透と赤井秀一と絡みも見れて満足だし、潜水艦を狙撃する前、花火ボールを爆破させて海面が虹色になるところが特に感動した。そもそも、コナンの距離は200メートルというところか、とか推理シーンや、岩礁帯を使うしかない、とかの機知が良い。最後のキック力増強シューズで津波を防ぐアクションは、迫力が凄すぎて、これ、アニメか?と思いました。とにかく、スペクタクル映画でした。何回も泣いた。

 

2023.05.03

朝方起きて、酒飲んで脚本少し進めた。というか、脚本術とか読んでないから進めたと言えないかもしれない。プレッシャーなのか、気が進まない。でも何かはしないといけない。だが、キャラクターは一人浮かんだ。
シン・ゴジラ」参考資料に一部見た。総理の武器使用の許可、射撃開始、まずは攻撃ヘリコプターからの機関砲、AH-64Dアパッチを30ミリに切り替え様子見、総理の武器の無制限使用の許可、それから誘導弾の発射、10式戦車による砲弾、99式自走155mm榴弾砲96式多目的誘導弾システム、多連装ロケットシステムM270 MLRS、航空からのJDAM(統合直接攻撃弾)の空爆。そして作戦は特科隊という手段を出さずに自衛隊の総力戦は徒労に終わったとされている。
こういう流れ、は参考になった。しかし、隊務において倒されたところで、何も面白くないので、ツタヤにモンスター・パニックなどの映画のDVDを借りに行った。未曾有の生物が出てきた時の、対処の過程、結末、「シン・ゴジラ」の正攻法ではなく、それ以外の、別様な仕方での解決など、そういうのが気になった。ハウス・ホラーというジャンルも参考になると思ったので、それも、というか評価がどれだけ低くても参考になればいい。
その後、図書館に行った。リクエストした「図説マヤ・アステカ神話宗教事典」はまだ届かない。本を数冊借りた。日本の動物の信仰、伝承の本など読んだりした。今日的な習俗にあたる部分などは気になるが、日本にほとんど興味がない。
DVDや、本など借りたが、手をつける気になれなくて眠ってしまった。

 

2023.05.04

もう5日の深夜の2時10分だけど。今日は本を二冊読んだ。市の図書館にある青少年コーナーの本で、陣崎草子さんという造形作家の小説、造形作家と言ってもよくわからないので、僕が読んだのは児童文学。参考になりましたね。作品としてはなんの捻りもなかったけど。
そして、狩猟のドキュメンタリーの本。昨日の自衛隊の隊務以前のもの。
狩猟は大きく三つに分けられる。「鉄砲」「網」「罠」であるとか。参考になった。狩猟と言っても色々なあり方があり…。
そして、陣崎さんの小説では、物理、化学、生物、工学、プログラミングなどの分野を網羅している早熟のサイエンティストが登場する。兵器を作る。自衛隊とはまた違う。そういう人物。参考になった。
作品に登場させるのは野犬ではないけど、飼い主を募集をすることは稀で、大抵は殺処分になってしまうとか。諸々、知ることができた。

飲みに誘われて行った。幼稚園の頃からの幼馴染に、幼稚園の頃にあった行事聞いた。僕より覚えていた。それも参考になった。「反出生主義」の本を持って行き、問題意識について聞いた。色々答えてくれた。僕はキャラクターを造形する上で、そのキャラがする言動を、友達によって取り込みたかった。意見を複数、傾聴したかった。ネットとはまた違う。ネットをあまり触ってない人からの回答。疲弊していて、行く気も衰えていたが、僕は意見を欲しいままに行った。そのキャラのために。言ってしまえば、天ヶ瀬むゆのために。半人半妖。天ヶ瀬むゆは夢を食べているが、モデルなだけ。「個性の増大に反するのはただひとりの人物の模倣」とは、模倣の法則にも書かれている。食べるものは違う。自己生成する過程の中の飲み会で、正直、愚にもつかぬ話は聞く耳を持たなかった。ただ、どう思うか、を聞きたかった。文野環の次に好きなVtuberは天ヶ瀬むゆかもしれない。下敷きだからね。天ヶ瀬むゆを下敷きにしたキャラのために、意見を聞くために赴いた。
そして、身分を偽って街頭インタビューをした。みんな冷淡な態度で、女性一人が少し話してくれたが、響くものはなかった。そして、何度も人に話しかけるも先に言ったように、みんな一瞥もなく、泰然自若を装いながら、通り過ぎていく。ネパール人の方が接してくれ、コンビニでビールを奢ってあげ、一緒のビールを飲んだ。しかし、話に花が咲くということはなく、僕の問題意識は憂いに沈んだままだった。スケボーの若者と接触したが、月並みな回答。
というか、救いはない。人は他人の心身を体験できないのだし、救いはない。
救いって本当にないからね。

 

2023.05.05

「エボリューション」という映画を途中まで見たが、面白くない。国家地質調査部なんてものが出てくるが、検索してもヒットしない。地下まで24メートルの隕石が降ってくる。役立つのは、「遺伝子情報、DNA」など。あと、衛生局の代行として人体を調べるとか、日本と米国では経緯が違う。

LINEで通話をした。僕の問題意識について話したり、相手の話を傾聴した。「自己というは、自分の外部にあるものを内部化し、形象化したものを原型として、形成されたものである」であるから、小さい頃受け入れられなかったものは、外部にあるものに対し、嘘をついて、仮面を被り続けながら生きていくしかない。だから「本当の自分」を認めてあげる存在が必要。だけど、「本当の自分」も偽りの派生物な気がする。だから、どうすることもできない。そういう話をした。救いはあるか、という話もした。相手はクリスチャンだった。今度ドストエフスキーの話をしようと言った。ドストエフスキーのように「神」の存在に苦しんでいる人もいる。「死後の世界」とか「復活」とか「輪廻転生」とか、でもドストエフスキーは科学知識でそれを捉えようとしていた側面も見られる。

今日、20時45分。くさくさして、LINEのアカウントを削除した。「メンバーがいません」になるだろう。コミュニケーションの交通の要衝を破壊した。しかし、それでいい。過剰過ぎるのだ、LINEは。流石に躊躇はした。だが、もう断ち切りたい。もう正直に言ってしまえば、誇示したい。面倒臭いから。「自」が「他」に入り続けるのは。もう疲弊を超えた。だったら、少しでも軽くしたほうがいい。

バタイユは言う。「真の孤独に入れば、現世のものは全てが「過剰」などうでもよいものであると気づく」そう、LINEも過剰だ。

そしてこの孤独、それこそが「神」である。

 

2023.05.06 映画「エボリューション」のネタバレあります。

全部見たが、まあまあ面白かった。保安官、警察、軍隊、陸軍研究所の将軍、ニセの士官、州知事参謀本部、疾病管理センターの調査担当官など様々な組織が出てくるが、

生物の博士と地質学者、高校で化学勉強してた消防士志望の人が、手を組んで、博士がたまたま元素周期表見て、謎の生命体の基本が窒素であることがわかり、人間という炭素が基本の生物に毒である砒素を注入するように、ナパーム弾を使用した軍事的解決ではなく、普通に軍用車両とかじゃなくて、タンク車で物質でもって倒すってのが良かった。「シン・ゴジラ」みたいな正攻法ではない。
あと、疾病管理センターの空間が好きでしたね。有害生物を入れるための入れ物とか。

「図説マヤ・アステカ神話宗教事典」が到着したので受け取りに行った。普通に買ったら、最安で今、28,272円もする。買えるわけない。
パラパラ読んだが、こういう世界観まじで涎が出るほど、大好きすぎる。
「もうひとりの自我である」動物であるナワル(妖術師、魔女)は、ゴーストピル(錠剤の幽霊)にも繋がるのかな。そこまで整理できてないけど。
そもそも自我の話で言うなら、マハルシのバクティ・ヨーガでの自我の破壊、真我とか、それこそ自分自身の持病であるASDの「自我の目覚めにおいて自分がない」とか、アストラル体とか、アイデンティティなんてなくて、ただ、ガタリの言う自我の概念「不安定で変化しつつある総体で、多数であることを本性とした総体」があるとか、もうめちゃくちゃ出てきて、頭パンクするよ。今ですらしかめっ面してる。嬉しいとかじゃない。これから考えたり、やらなくちゃならないこと多すぎて、どうすればいいんだという感じ。頭の中の喧騒が甚だしく起こっている。

結局、「自我という概念から自由」という思想は、作品では描きたい。イワン・カラマーゾフかな。「神がいなければすべてが許される」のなら、「◯◯がなければすべては許されるんだよ」行為者がいないんだから。

そして、思ったのが、Twilogとかツイセーブとかツイートを記録するサービスなくなったじゃないですか。ツイートする意味あるのかなって。だって、1ツイートしたら累加し、1ツイート累減するんですよ。
そこで、ツイッターってトイレみたいなものだと思って。
糞尿して、流して、下水道管通って、海や川に行く。電子の海とかそのことでしょ。それで、「動的編成」が構成するリゾーム(無意識)が出来上がっていく。集団的現象による機械状無意識。
個人的な意見でしかないけど、それってなんか辛くないですか。普通に精神病になりますよ。と思った。
でも「露出せよ、と現代文明は言う」という本もあるくらいですからね。昔に読んだから内容忘れたけど。
無意識は絶えず生成している。そこで、ナルシシズム、要は、同一であるというあり方。それを動物的に再認しながら生成していく。その繰り返し。もうニヒリズムでしかない。それってめちゃくちゃ辛くないか。

だけど、僕は脚本の素材として考えを日記に打ち出し、まとめている。それをTwitterに貼る。それでやっている。でもTwitterで考えを述べている人とか、表現というと語弊があるかもしれないがそうしている人とか、華麗な形式みたいな意図持ったようなツイートしている人は一体何を考えているのか。
否定している訳ではないし、あくまでただの個人的な意見に過ぎないが。

 

2023.05.07 映画「トロール・ハンター」「ミミック」のネタバレあります。

参考に映画を二本見た。
トロール・ハンター」、ハンスというトロール・ハンターと撮影隊が主軸であり、ハンスは元々は特殊部隊にいたらしいが、「政府が必要としていた」ということで、トロールを駆除している。それをTST(トロール保安機関)という役人が、トロールの存在を民間に知らせないよう隠蔽している。
トロールは、「太陽光に含まれるビタミンDをカルシウムに変えられない」から、紫外線ビームで過剰反応して内臓が膨らみ、死ぬ。
こういう設定は良いと思った。そういう裏付けがないと、つまらない。動物病院で、採血した血を顕微鏡で調べる。
日本に登場する猟師も、ワイヤーなどの罠で獲物を仕留めた後、確か最初、血抜きをする。
要は、設定に付随した説得力みたいなものが欲しいから、映画などを見ているまである。

ミミック」、ダークソウルのミミックのイメージしかないから、宝箱みたいなのが出てくると思ったら、昆虫だった。
昆虫博士が登場。アリとカマキリの遺伝子を合成し、「ユダの血統」という天敵の虫の放出により、伝染病を撲滅。だが、「ユダの血統」はまだ死滅してなかった。
兵隊アリは「相手を殺すのは領域を侵された」時のみに限られるらしい。
これは、もう素材として、めちゃくちゃありがたい。人間にも使える。「侵襲感」レヴィナスの「同の中の他」としての恐怖心。
領域を侵された人間が、もう一つの自我である「ナワル」になる。
高度に進化した兵隊アリの解剖なども参考になった。

ミミックにはニューヨーク市警など登場するが、軍隊はトロールの方にもミミックにも登場しない。米国の警察なら、化け物でも撃てるんだなと思った。
トロール・ハンターは、トロール臭。ミミックは、臭腺という昆虫の匂いをつける。どっちも同じだと思った。

「昆虫は進化し、捕食者に擬態する」
ミミックって擬態って意味なんだ、と思った。擬態は、フランス語でmimétisme(ミメティスム)。

今日、そんな分厚くないから、思考のフロンティアの「脱構築」を読んでたら、まさに「擬態」という語に出会った。ミミック見終えた直後のことで、符号を感じた。
フェミニズムの章で「ファルス先制支配の歴史的持続の中で、女性が最初することは、演技、擬態すること」とあった。
ミメーシス(模倣)の意識的実践。「隷属を肯定へと転じさせる」
「他所に留まっていることを示す」すなわち、擬態という演じることによる役割である。
つまり、女性的なるものは、〝複数〟であること。男/女という、二元的区別として、「女である」ということは複数性を孕む。

「決して単純に一人ではない」
という言葉が良かった。
固有、所有は女性にとって、あんま関係ないよねえーと。

ディドロ読まなければなあ。

 

2023.05.08

「月と六ペンス」のストリックランドのように爆走している。それが楽しいとかならまだしも、頭痛、息苦しさ…諸々、本当に極限に辛い。
朝、7時台に起きてしまう。冷蔵庫から350mlの缶ビールを取る。家族が指呼の間なので、もちろんなんか言われる。便宜的に「ガソリンだから」と言う。怒号を浴びせられるわけではないが、もちろん、否定的な態度を取られる。
当たり前に、僕自身は障害年金以外の収入もない。仕事もしてない。クリエイターと名乗れないが、ZUNさんみたいに夕方に起きて、ビールを流し込んでから、仕事に着手する人もいるし、僕は基本、家でしか過ごさないが、ひろゆきさんとかの場合、会社にお酒置いてあったりする。
家族のこと、話したくないが、家族は俺が何やってるか知らないわけですよ。オープンな家族だったらまだいいよ。家族に関してはやり場がない。家族に関してはというか、全ての人間に対してやり場がない。
まあ、毎日その繰り返しです。生きづらいです。だから拙速主義というか、脚本早く書かないと。

なんもないですよ。本当。酒と煙草、月並みでしょ。
悪夢見て、二時間毎くらい、何度も目が覚めるし、なかなか寝れないし、眠剤はないし、今日は、悪夢見たから、悪い夢を食べて良い夢に変える天ヶ瀬むゆが精神科医薬物療法などを越えた治療を施す病院があるみたいな設定浮かんだけど、なんだそれ、と。

考えた。僕は脚本を書きたいと言っておきながら、脚本がどういうものなのかをまるで知らない。
まず、
1.脚本の書き方。
2.舞台の設定。もう舞台にすると決めた東京の王子に行ったり、王子の土地とか歴史。それこそ失われた歴史とか、地霊とかあったらいいですよね。
図書館行って文献読んでみる。
そして、架空の舞台の設定との連結。
3.キャラクターの設定。名前。
で、肝心なプロットはなんとなく頭の中にはもう既にある。どういう場面をやりたい、とか。ビジョンはめちゃめちゃある。だからその情報内容を、早く活動内容にして完成させたいというのがある。でも、なんか完成すんのも怖い。どういうメカニズムなのかわからない。

まず脚本がどういうものなのか学べよと思うわけですよ。でもなんかめちゃくちゃ怖いんです。筆舌に尽くし難い。昔、受験勉強の時も、受験勉強せずに、勉強法の本ばっか読んで、頓挫してボーダーフリーの大学入ったぐらい、なんか直面するのが怖い。想像するのも怖い。

1.本を読む。

湯田ねるは、文献などで精査し、気づく。
古代の球技場ではないかと見られる遺構。
オアハカ州ゲオ=シー遺跡にある。
その遺構に、ラボルド病院(アサイラム)は、建てられた。という設定はどうか。日本に18ヘクタールもある城館の病院があることを僕は知らないが。
「ソローニュの森」も参照。
木々に囲まれたシャトー(城館)。その木々は、メソアメリカに見られる信仰や伝承の木々の重要性から…とか。

湯田ねる(cv:斎賀みつき)「儀式化された競技、つまり、現在我々が仕事をしている集団的制度実践の場としてのこの病院の、治療法の一つである制度論における動的編成、つまりクラブ-アトリエ活動は、古代オアハカ人の、その集団的交流に起源を持っていた…ということなんですよ、羽里(うり)院長。建てられる前、床状区画の上は綺麗であったとのことです。つまり、この場所は初期の球技場のような場所。現代人の作業療法となんら変わりがありません」

ヘルマン・ジモンの「精神科作業療法講義」も参照できる。

バフチンは「小説の言葉」という本で、「自己の意味の諸志向を管弦楽化しなければならない。矛盾しあう多くの言語のただ一つの内部のみでは、この意識には狭すぎる。127p」と書いている。
勿論、そう思う。つまり、音色。ポリフォニー(個性と存在感)。
つまり、勝手にだが、バフチンの小説論は脚本に近いと思っている。小説は脚本と違い、セリーヌの「小説は文体が仕事」だと思っているから、僕がやりたいことは小説ではない。

小説家を目指しているのではないと最近気づいた。というか、作品を持続的に書いている人に僕はなれない、ただ、一つの作品を完成させたいだけ。

本の返却期限が、20日だから、その前に王子行ければなあと今日思った。交差が大事。

 

2023.05.09 「ストライクウィッチーズ」のネタバレあります。

9時台に起きた。あまりやる気起きないので、YouTube庵野秀明さんの生い立ちなどについての動画を視聴。
同人制作集団の自主制作の話から、大学時代のアニメ制作会社からアルバイトの話、アニメ会社の話とかも頻出するので、必然のように「serial experiments lain」がどこのアニメ会社で制作されたのか調べた。すると、今は無い「トライアングルスタッフ」現在は、2000年に設立された「エー・シー・ジーティー」になっていると知った。資本金とか見ると、頭痛くなってくる。アニメには資金問題がめちゃくちゃある。

そこで、13話の脚本集であるという「シナリオエクスペリメンツ レイン」をAmazonで注文した。中古でも、9,257円という高価なものではあったが、ハンチング帽返金金額のギフトがあったので幸い注文できた。
たとえ、脚本集なら、オークションでも、「lain」の脚本集なら、倍の値段でも購入しただろう。

サキエル」、エヴァのTVアニメで1話で登場した「使徒」。
初号機と戦わさせられた。
僕は、「使徒」のような人類の外敵である正体不明なものを登場させたくない。
使徒」になんらかの意思、心があり、それが表れてるのならいい。「蒼穹のファフナー」の、「フェストゥム」それにも確か心はなかったけど、学習していった。(記憶違いなら申し訳ない)
だが、「使徒」にも、「フェストゥム」にも、勿論、面白みのある単純ではない設定はある。
ストライクウィッチーズ」は、外敵である「ネウロイ」を、第501統合戦闘航空団が倒していく。
しかし、主人公である宮藤芳佳接触したがっている人型のネウロイが現れ、外敵であったネウロイに対し、笑いながら戯れてるシーンが描かれる。
そして、最後、ネウロイに芳佳がストライカーユニットを放ち、「ありがとう」を言う場面がある。そういう部分、その場面は一番好きだった。

要は「舞台装置」として機能してるものに嫌悪感がある。

正体不明の敵が受動的に到来し、それに立ち向かっていく。そこでの能動性は面白く感じない。その背景にある精神性なるものが発揮されてないとつまらない。
でも、勿論、最初は正体不明でいい。「謎」がないと面白くない。最初、正体不明はむしろ歓迎する。しかし、「正体不明」なままだと尚更。心があると言っても、庵野さんも自ら言っている「衒学的」なものでもつまらない。

だから、「ナワル」という正体不明の、まあ外敵だと思われるものに対しては、「舞台装置」ではなく、本命である「心」を持たせたい。だから、「ナワル」が死ぬと、魂の複数性としてのその本体(人間)も死ぬ。
問題意識は、「外敵を殺せ」ではなく、「難敵を殺せ」。
要は「お話」を作るための「舞台装置」としての道具は好きにはなれない。だから僕は一作作れればいいと思ってる。
もちろん、キャラクターがいる以上、キャラには心がある。
しかし、結局、キャラの「心」に焦点が当てられていたとしても、無機物のような兵器と戦い、倒して、そのキャラの精神性やキャラ同士などの絡みにより、編成されて、産まれるキャラの「心」には、まるで興味がないということ。

スケープゴート、人身供犠なども、結局は、自己正当化の論理に過ぎないし、インディアン・コンプレックスもそうです。あえて、外敵作り出している。だから、映画の「インデペンデンス・デイ」なんか見ても全く面白くない。
たしかに弁証法として批判的に見るという点ではなくてはならない存在なのですが。

介護なんかもそう。介護職の世界は「需要」があるだけ、と。今日、酒を買いに行って、少しコンビニで立ち読みした漫画に書いてあって、まさにそうだと思った。まさに「需要」を生み出すだけ、という資本主義社会の本質。
介護職、精神疾患を持っているかどうか、面接で聞かれていた。
要は、健康体で、識字能力ぐらいあれば、なれてしまう。
しかし、根底では、介護職で人の面倒を見るというのは、そうすることで、無意識下で自分が救われたいという、自己肯定感がない人がやっている人が多い仕事だと。だから変動したり、三ヶ月もすれば施設長に任されてしまう人もいる。
勿論、当たり前に全員が全員そうではないけど、介護職は、汚染されている。

そして、言ってしまえば、僕もその一人。

 

2023.05.10 進撃の巨人のネタバレあります。

05:57

切迫して、メモと整理目的で書いている。

ドストエフスキーの作品に多く見られる「地下室的人間」が抱く、「調子悪い。多分肝臓が悪い。もし肝臓が悪いのなら、もっと拗らせてほしいものだ」
勝手にだが、地下室的人間は自意識の量は多く、体への酸素の量が少ない。

短時間で目覚め、体が気になって眠れない。
整体院や、カイロ・プラクティックが、自由診療なのはどうかと思う。

姿勢矯正とかしないと、脚本も自由に書けない。lainの脚本集読んでも、僕は、巻き肩で、カタカタ文字打っていて、(調子悪い。巻き肩であるのなら、もっと拗らせてほしいものだ)とか冗談でも言ってる場合ではない。
何度も言うが、処方箋の自動販売機である精神科、そこで、筋弛緩剤などをもらった経験はあるが良くならなかった。睡眠薬も根本的な解決にはならない。
整体院行って、体の毒素を排出したい。お酒で毒素を溜め込むばかりの毎日で、確か五歳の時、川崎病を患い入院した。寛解したが、心臓後遺症の懸念のためか、定期的に心電図を撮っていた。だから、遺伝性疾患もあるだろうが、最近「大動脈解離」の可能性があり、医師に説得不能とみなされた側の人間だから、本当に死と隣接しながら生きているような気がする。

渦中、その後、統合失調症の症状が悪化した。ロナセンの薬のおかげか、メディアでの思考の露出か、自我漏洩感は以前に比べて落ち着いたが、幻聴や幻覚が悪化し、頻発する毎日が続いている。

そして、極めて深刻で、顕著なのは「恐怖心」の増大。

健康体で、寝食を忘れて、脚本に着手するのならいい。
しかし、このような毎日を繰り返していたら、なんも無いまま「終末の微笑」が流れる。

進撃の巨人」という作品は、以前の記事にも書いたポリフォニー(個性と存在感)がある。
特に好きな人物は、ジーク・イェーガーで、最終巻だけ読み返した。
「…いい天気じゃないか …もっと早くそう思ってたら… まぁ… いっぱい殺しといて そんなの虫が良すぎるよな」という台詞。と、「道」の世界で、父親であるグリシャ・イェーガーに些細な感謝をする場面。
クサヴァーさんとのキャッチボール中、そもそも産まれてこなければ苦しむこともなかったと言い、人類を救うという名目で殺しまくり、過度の偏執病のようなものは見られないものの、「エルディアの安楽死」を切望していたあのジークが、映画シリーズ「男はつらいよ次郎物語」に出てくる有名な台詞、寅さんの「産まれてきてよかったなって思うことが何遍かあるじゃない。そのために人間生きてんじゃないのか」という言葉に考えが全部、集約されていくのが面白い。

 

2023.05.10(2)

「チョコレートプラネット」が、お笑い芸人では一番好きです。言ってしまえば、分析するつもりはないが、チョコプラは「投げやり」で、対照的存在であるように思えるあの19世紀の世界的文豪で、お笑いとは無関係で、気難しく、陰鬱なイメージが持たれる、僕の愛するドストエフスキー座右の銘も確か「後は野となれ山となれ」だったとどこかで読んだ気がするが、チョコプラも「後は野となれ山となれ」な気がする。もう捨て鉢で、どうとでもなれという感じで予定調和が全くない。ドストエフスキーの作品、実は、笑いがめちゃくちゃあるんです。要は多忙で、借金に追われ、タイプライターを雇い、口述筆記をさせるくらいだったが、荒削りで、工業高校のような場所を出たが、刑務所に入れられた経緯もあり、人間の機微にはめちゃくちゃ通じていた。
「チョコレートプラネット」と、「ドストエフスキー」は通じる部分がある。
僕が特に好きなチョコプラのネタは「財津チャンネル」で、そこでは完全なアドリブが展開され、確か、音楽というジャンルだと、電気グルーヴも確か同じようなことしてた。入り時間には行くが、何も準備せず、即興でやってしまおうっていう。
究極には、なんか、もう死ぬから何でもいいやって感じが伝わる。
だが、チョコプラの長田さんはめちゃくちゃ死にたくない人間。松尾さんの方は、まあ肥満というか、酒を飲んでる人の体型してて酒好きのよう。酒を飲まず、風呂好きな長田さんにもまた太ってると指摘されて、肝硬変とか高血圧とか心配されてる。そんな長田に松尾が入り込み、松尾が長田に入り込み、素人の自論でしかないが、楽観主義と悲観主義のハイブリッドによって、笑いが生じると思っており、カオスになっている。

「財津チャンネル」の動画を視聴していただければ分かるが、白紙、カオスモーズから出発しており、記号学でいう、シニフィアン(音の連なり)から想起されるシニフィエ(内容)がない。で、僕はそれこそが快楽だと思っている。

お互いが完全にアドリブだから、なに言うかわからないから想定してない言葉が飛び出し、相互的に笑い合って顔伏せてる時がある。そこがチョコプラの特異性、肝だと思う。
機械としての主体は無意識的な発現をするもので、それが潜在的な分岐と差異化を何回も繰り返し、「お笑い」を生み出す。
そういうものだと思うんです。
僕がVtuberで言ったら、文野環が一番好きなのもそういう理由。
意味内容であるシニフィエを考えないシニフィアン(音の連なり)だけの方が一番快楽的である。
表象(シニフィアン)に伴うさまざまな意味作用を無視して、それを真面目にやっていく。お笑いの中の真面目。真面目の中のお笑い。

勿論、人間である以上は、シニフィエが全くない訳ではない。シニフィアンの連鎖で、意味作用が生まれてしまう。
だが、表現と内容が結び付けられていることを機能素と言い、「イェルムスレウ―ソシュールの最大の後継者」という著書では、
「記号とは、まさに何かの記号なのではあるが、記号を表現に還元することは決してできないし、記号によって表される「何か」の内容なのだとみなすこともできない。116p」と書かれている。

要は、イェルムスレウのいう意味作用は、還元主義的ではなく、「内容」と「表現」が交叉しており、厳密に言えば、シニフィアンシニフィエもどちらが優位ということではないが、シニフィアン連鎖によって生じる意味作用(s1 s2 s3…)などに重きを置かず、
まあ結局僕が言いたいのは、「原理的には無理(ここに非常に苦しみを感じる)」かもしれないが、シニフィアン(音の連なり)だけのが楽しいよね。それによって想起される内容とかいうシニフィエなんてものどうでもよくね、というのが個人の感想です。

で、それが僕の肌感覚として、感じられるのが「財津チャンネル」「ドストエフスキー」「文野環」。僕はそれらが大好きです。

 

2023.05.11

昨日の記事を覆すようだが、結局人間、シニフィアン連鎖(s1 s2 s3…)によって生じるシニフィエによる意味作用「対比」でしか生きられないんですね。

で、僕が主張したいのは、カミュのいう〝少なくとも全ての人が必要〟である反抗的人間のような、まあ、単純にネットの辞書で、【反動】を引くと、社会関係の言葉として、「他に力や作用を及ぼしたときに、その反作用で押し返されること。」とある。

要は、原理的に「対比」という構造を持っている人間が正常なんです。つまり、シニフィエ(意味内容)を持つのが正常なんです。人間である限りは。
しかし、反動的であるということは、その意味作用(領土化された同一の機械状)の反作用を繰り返しまくり、(脱領土化の同一の機械状)に価値を感じる。だから僕は、空虚な音の連なり(シニフィアン)だけのが良いと書いた。
そして、(領土化された同一の機械状)の反作用を繰り返しまくるということを肯定してくれる本が、「分裂分析的地図作成法」という本。

要は、だから反構造主義的なわけで、そういう考え方が僕は好きなわけです。
「領土化された同一性」なんていう生き方はできないよ。
脱領土化、厳密には脱領土化の過程の上での再領土化しかないわけですから、そういう生き方しかできない。

ゆえに、ナルシシズム(同一であるという在り方)を持てない人が多いわけです。で、再領土化をどこに位置付けるか、もうそれは社会であり、時代な訳です。
つまり、現在は、平くまとめれば、「資本主義社会」以前の記事にも書いたように、それは絶えず「需要」を民衆に放つだけだから、向精神薬などの産業が勃興し、「精神疾患」が蔓延し得るわけです。

で、本来は、分裂する生き方が正しいにも関わらず、再領土化を資本主義にしか位置づけることしかできないので、「精神病」などの形で、表出する。
で、そこで、「法律」などがそれを表面的に形式的に捌く。
それの繰り返しです。多様化の時代は嘘です。嘘というか、「欺瞞」です。

多様化は元々人間に構造的にあるものなんです。だから、元々多様化の流れがあるのに、それを資本主義が多様化せよ、と集団的超自我のように一方化して、精神疾患を蔓延させてしまっている。

つまり、先の話に戻すと、カミュの言うように、「人生には意義がなければないだけそれだけよりよく生きられる」のですが。シニフィエ(意味)を要求されるので、その「欺瞞」に気がついたものは、こんな言葉はないのですが、「キリーロフ的自殺」をするものだと思うんです。

だから僕は昨日の記事で、シニフィアン(音の連なり)があるだけのがいい。と書いた。

10時台起きた。父親には仕事が今はないので、「ひぐらしのなく頃に」のアニメを薦め、「鬼隠し編」の4話分だけ一緒に、視聴した。仕事がない父親に、仕事を与える。愛着に障害がある人間は人の世話をすることで、治療されると言います。要は、多少強引に、ひぐらしのアニメを一緒に見ることで、父親に僕の世話をさせた。
僕は愛着障害ではない。むしろ、愛をたくさんもらった方だ。だから、欺瞞に肌感覚で、気づく。
12時台に見終わり、僕の覚えた感想は「無味」だった。視聴している時の言葉は特にない。父親の感想はなんか「重い」と言っていた。執拗性をもつ質問を僕はする。それが父親にとってはセラピーだから。感想を聞く。引き出しを開く。感想を聞かないと、感情を覚えない。僕はどちらかというと、家族間では放任的場面が多く、質問をされず、感情を聞かれなかった方の人間だ。だからこそ、それに気づいた。「視線触発」などの問題の詳細は省くが。
相手に「質問」をし、「感情」を覚えさせ、引き出してあげることが僕の仕事だと。
それは、現在、自営業の大工で仕事がない父親に対してしてあげられる僕の仕事であると。そして、それは父親の仕事だと。
僕は父親に僕の世話をさせ、父親の愛着障害を解消しているような気がしてならない。
お互いひぐらしを視聴している時、お互いの顔を見ないが、僕は涙がずっと反射的に出てきた。
間違いなく、今の行動原理みたいな場面多い。なんか叫ぶとか。

ひぐらしのなく頃に」が僕を作った。
ひぐらしによる「合成人格」が僕。そしてその合成人格が、また「作品」を作る。そしてその作品がまた合成人格を作る。「圭一くんを助けてあげれるのはレナだけ」みたいな場面とか、何より圭一の疑心暗鬼で感情むき出しの場面とか、特に〝相談〟という単語が飛び出したとき、顔面が涙と鼻水でいっぱいになった。
「犯人誰だと思う?」と聞こうと思った。

13時半頃、父親との会話が終了。
僕は父親に楽しみを与えた。竜騎士07のインタビューも見た。竜騎士さんの言ってることは正しかった。
「コミュニケーションの話題を提供するゲームなのかもしれない」と、竜騎士07はインタビューで言っている。見てよかった。視聴したのは鬼隠し編だけだったが、父親のことだから、調べるだろう。父親は普段寡黙で、自己完結するタイプで、アルコールで会話が促進し、激烈モノローグが飛び出すタイプ。「コードギアス」も僕の誘いで劇場版三部作を一緒に見たのだが、最後の「皇道」を一緒に見る前、もう最終回のラストを見ていたが、「水を差す」と言う理由で、僕に見たことを言わなかった。

父親とアニメを見れるだけ幸せでしょうか。幸せなことだと思います。

自閉症スペクトラム障害」の〝染まりやすさ〟。合成人格。による、破壊行動、警察署。

要は、自閉症スペクトラム障害
は、持論だが、〝酔うことに酔っている〟酔っているわけではない。
〝取り憑かれた人物に取り憑かれる〟取り憑かれてるわけではない。

僕は、警察署の保護室に閉じ込められ、最近では、4月30日に入れられた。泥酔して、駅のホームで寝て、駅員が来たら、わざと線路に飛び込もうとした。

警察の保護室で、僕は絶えられなかった。ただただ、僕は〝言葉がほしかった〟。

警察は、「法律」で動いてるだけだと自らも言っていた。
警察は「自閉症スペクトラム障害」を見てくれなかった。〝染まりやすさ〟からこうなってると分かってくれなかった。知ってるとしても、知らないフリをする。だから「天気の子」は面白かった。天気の子、当時視聴後覚えた感情は、死の欲動みたいなものだった。

そう、「欺瞞」なのだ。だから、それに気づいたものは、キリーロフのように自殺する。

「合成人格」により、心臓麻痺で死ぬ。

そこをあなたは見れますか?

だから僕の問題意識は〝星を継ぐもの〟。

キャラクター達がただ残忍な行動に及ぶ「理由」を、教えてくれよ。
理解してくれよ。法律じゃなく、「心」を、見てくれよ。

だが、俺はそれを拒む。「反抗的人間」には、全ての人間が必要。

そして、それが唯一可能なのは、〝表現〟だ。

 

2023.05.12

人間、根底には音の連なりによる「対比」がある。それが「意味」である。シニフィアン連鎖(対比)による「意味」が、同一であるというあり方、ナルシシズムに繋がり、それを再認し、充実した生を送ることができる。
僕は、その対比を言葉遊び的な感覚で、堆肥(有機肥料)みたいなものだと言いたい。
つまり、堆肥、つまり、止揚(発展的な統一)は、再認というあり方で、回収される。

「主体」は、シニフィアンの効果として出現される。
しかし、この「主体」が、有機的な統一性という支持を失うという状態が、「器官なき身体」と呼ばれるもの。器官なき身体とは、簡単に言えば、再認というあり方(ナルシシズム)の、寸断化による絶え間ない責め苦です。
不明瞭かつ不気味な「対比」が、毎日というか、毎秒拡散される。
それが、精神分裂病統合失調症)を用意する。

そして、患者となった人間に病識を持たせないように仕向ける。
なぜなら、研究材料のためです。

今日、「シナリオエクスペリメンツ レイン」が届いた。流し読みした。そして、ゲーム版lainの音声を聞いた。
座談会で、lainの絵は「ソリッド」だと書いてあった。ソリッドの意味がわからなかったので、調べると、固体とか硬質的など、ある。え?そうか?と思った。むしろ、なんかその反対のような、流動的で、朧げ…というか、虚な感じがするのだが。

だからか?絵のことは詳しくわからないが、lainの絵がソリッドなのだとしたら、内容はむしろその反対で、だからこそ、lainという作品は魅力的なのか?そんな感じのことを思った。

作品内容(流動状態)、絵(ソリッド=一元的に捉えようとする身体像)という器官なき身体的なあり方=「serial experiments lain」。だと思った。

ゲーム版lainでは、玲音の口から、「精神分裂病」と口にされる場面がある。吃驚したカウンセラーが聞くと、本で読んだと。
座談会で、玲音という名前の由来は、「「横たえる」の「lay」と、「嘘」の「lie」と、「雨」の「rain」からの当て字」とされている。
いや、嘘でしょ。R.D.レインでしょ、と思った。

橘総合研究所、精神病理研究室のドクターを名乗る、カウンセラーというか精神科医が「嘘ついたらハリセンボン」と言っている場面がある。いや、お前が嘘ついてるやんけ。と一番思ったので、「嘘」はわかる。
本当は、「研究材料」として玲音に接し、そのために、病識を持たせず、玲音に読書を推奨せず、玲音に「友達」であるとか「姉」とか言っている。あと雨もわかる。電線が覆う街で、空から幻聴がするという電波の雨。でもR.D.レイン意識しているよなと思った。出てこない方がおかしいと。

玲音って名前、R.D.レインから来てるのかな…って柊子先生が言う場面、なかったっけという動機で、ゲーム版見ていたが、勘違いだったのか、見当たらなかった。

今日一日本当に辛かった。昨日の、文章で書いたことに、「反動」の反作用で押し返されるので、「表現」だと書いておきながら、文章で書いたことが反作用で押し返されるので、「表現」ではないとなり、今日一日何も書かないでおこうと思った。毎日毎日、反作用で押し返される。だから、ナルシシズムなどない。日々が敵で、昨日が敵で、この今書いている文章も明日には、敵になっている。自分が難敵である。

その責め苦による地獄。器官なき身体による責め苦。

serial experiments lain」とは、僕にとって、岩倉玲音というビジュアル、絵を通して描かれる器官なき身体である。

そして、これを投稿した瞬間、この記事はもう難敵である。僕という反動的な人間は、この文章の、反作用で押し返されて、この記事を、難敵を、どうやったら滅ぼせるかを考える。

 

2023.05.13

僕は、ベタベタと手垢のついた箔押しされたものに頼っている訳ではない。
僕には目的があり、それを遂行したい。
そして、そこに弊害があるから、それを理解したいと思う。
で、それは社会的関係だから、結局は他人の見方になるのだが。
僕は今まで、たくさん文章だけは書いてきたが、それを脚本にフォーマット化できてないだけだと気づいた。
そして、デジタルメディアに、自己を露出しなければならない時代もあってか、感情を吐露してきた。それが作品を妨げてきたとは言わない。僕には必要なことだった。
しかし、気づいた時には、心身が病み切ってしまっていた。それが現在で、いつ死ぬかわからない恐怖に苛まれている。
「承認欲求」はもちろんあり、というか僕はかなり強い。そして、それが強いから感情を吐露せずにはいられない。
結局、この今つけている日記(自己相似的な日付の記入)、エッセイみたいなのが、拠点になるのかな、と思ったりもする。

人間関係は怖い。仕事も怖い。社会的関係が怖い。
しかし、僕は俗に言う「メンヘラ」などという部類ではない。その言葉を避けているし、自分自身をメンヘラだと思ったことはない。決してメンヘラという用語を否定している訳ではない。使う人は使ったらいいし、なりたい人はなったらいい。僕がもしメンヘラという用語を使う人がいたら、その人の文脈に合わせてその用語を使うと思う。

僕は結局、「我執」である。自分を愛したいけど、愛せない様である。僕は寵愛されてきた。周囲から愛をたくさんもらって育っているがゆえ、社会が、他人のまなざしが怖い。世界が怖い。
安全な揺籠の中で、過ごしている。が、デジタルメディアなどの発達で、脅かされている。

lainという作品は、〝個〟をどう見つめていくかという上田耕行さんのストイックな問題意識を、脚本家の小中千昭さんが広げた。という経緯があったらしい。
執行草舟さんの「根源へ」という本を解釈すると、「我執」は老いることを妨げる。(この老いるとは身体的にではない)
千昭さんは現在、映画美学校の講師をやられているらしいから、老いれたのかな、と思う。老いることはどういうことか、それは、極めて、〝精神的〟なものである。
「先生」といえば、老いることの指標の様な感じもする。
しかし、中には夏目漱石の「こころ」のような極度の我執を持っている先生が登場する。その最後の我執を持った先生がどうなるかはネタバレがある。

僕は、とにかくこの「我執」から解放されたい。冗談だが、先生をやりたい。無理だが。
しかし、それも社会的関係で、根深いところには〝私怨〟がある。
その私怨からも解放されたい。
だから脚本を書くのかな。私怨を昇華させたいために。と思う。
「死はこわくない」という立花隆さんの本があり、僕は読んでないが、死はこわくない、というのはちゃんと老いれたからだろうか。

〝個性〟を大事にという学校教育のテーゼは、今や「自己固執」を生産させる装置と化し、老いることができないようにさせている。自分に目を向ける様にさせている。
先の言う〝個〟をどう見つめていくか。これは老いること…なのかなと、個人的に僕は思う。我執から解放されること。他に目を向けること。それは何度も言うように極めて〝精神的〟に。

個人的解釈に過ぎないが、アムロ(29歳)がハサウェイ(25歳)に言った「身構えている時には、死神は来ないものだ」の台詞とは、そういうことだと思う。
要は、ハサウェイは老いることができていない。「我執」を持っていた。
アムロには老いるための機会が与えられていたが、ハサウェイにはその機会がない。
他に目を向けることができなくなっていた。ギム・ギンガナムも結局、私怨の権化だった。ギンガナムの場合、幼少期とか何があったのかは不明だが。

心的外傷体験は、どう克服すればいいか、今の僕にはわからない。この時代に産まれ、他人がいる以上、結局、僕にはわからない。何もわからない。
僕は、世間知らずだから、「脚本を冊子にして、アニメ会社に持ち込む」ことを考えている。

大阪文学学校に入学し、去年、大阪のマンションに移り住んだが、結局、数週間足らずで戻ってきてしまい、その後も実家で仕事もせず、作品を「小説」にフォーマット化することをずっと考えていたが、僕のやりたいことは脚本だった。自分の作品が小説になることはイメージできないが、脚本はなんか想像をこねくり回し、くっきりするような感覚がある。

 

2023.05.13(2)映画、「怒り」「楽園」のネタバレあります。

当たり前のように、前回の「僕は、世間知らずだから、「脚本を冊子にして、アニメ会社に持ち込む」ことを考えている。」という文章の反作用で押し返されて、不和が生じた。

アニメ会社に持ち込む?と懐疑的になり、なんとなくlainの脚本集を読み始めると、アニメのlainの第一話「Weird」というは24分程度で、それに割かれた脚本のページ数は23ページとなっている。言葉が少ないな、と思った。そして、脚本の下にある約物の注マークでは、用語解説がなされる。
最後の玲音から画面がどんどん引く場面を、「レアトリックがレンダリングを吐き出す」と書かれており、そのシーンはアニメを視聴してみると、10秒程度でこれだけで1日半かかったのこと。
勿論、用語解説の用語に使用されるレンダリングなどの用語も知らないわけだから自力で調べる。だから、用語解説に使用されている用語解説も欲しいくらいで、疑義の説明に疑義を感じるという次第である。

そこで、まず先に出てきた感情が、これ独学して脚本書いてもまず無理じゃないか、と、自分の世間の知らなさだった。アニメ脚本家になるにはと調べても、業界コラムなどでは、自分を貫通する様な感覚を覚える。
専門学校などに入学し、指導されたとしても脚本家になれるわけではない。至極、当たり前のことだ。制作会社に入っても、「未経験で任されることはない」と書かれていた。

中学学校出席停止処分→高校中退→高認資格を得るが、大学中退(表現学部)→専門学校中退(空間デザイン)→通信制大学中退(福祉)→大阪文学学校中退(文学創作学校)をしている身にとって、要は、完全に負け癖、逃げ癖がついてしまっている。

だからまるで迎合するというか、未来へのビジョンが見えない。専門学校行こうにももう金はない。
「じゃあ、頑張って働いて専門学校入りなよ。その位の根性がないと。それで血眼になって頑張ってるとこ社会に見せつけてやればいいじゃん。太陽におなりなさい」と誰かが俺に言ったとする。

無理である。

映画、「怒り」「楽園」などに通底というか内在するテーマが痛いほどわかる。そして、頭によぎった。あの映画の心情がよく理解できないという人がいる。
要は「救われてこなかった」から「救われる」ということが許せない。
一杯のお茶でも許せない。報われてこなかったとは言わない。色々、経験させてもらった。
他人から一杯のお茶を与えられるくらいなら、もう完全に一人でいい………というこの文章を書いているところで、思い出した。ドストエフスキー地下室の手記のこんな台詞がある。「はっきり言っておくが、自分がいつでも好きな時に茶が飲めるためなら、俺は世界が破滅したって一向にかまわないのさ。(光文社古典新訳文庫。)」

要は、「一人の自分」と「なんかぐるになっている世界」をいつも無意識下で天秤にかけて、いつまでもいつまでも捻くれている性格しかできない地下室的人間が僕なのだから、そういう開き直りも本当は止した方がいいことは分かりながら書いているのだが、そういうことしかできない。「地下室の手記」は、赤坂見附の劇場でカタルシツがやっている演劇を二回見たり、本を人にあげるなどして、現在kindleにしかないが、それくらい好きな作品ではあるが、その影響は、諸刃の剣であるので、好きな本とは言えない。

ゆえに、脚本家なんて無理じゃん、となって、夕食も拒否した。
だから遡れば、中学生の頃の学校出席停止処分がコアで、最大の足枷になっている。その前は、本当の話で、中学の一学期(71回)は皆勤賞で、小学生の頃の夏休みのラジオ体操も皆勤賞をとったくらいである。

だから、「学校出席停止処分」が難敵で、成人してから、担任の先生と、学年主任に会いに行ったくらいだが、もちろん、解消はされなく、悶々としたままだった。
「単なる言い訳じゃん。それを糧にして頑張れよ」と、誰かが言うかもしれない。「ぐるになっている世界」が言うかもしれない。しかし、その天秤が傾いた時、その言葉が「一杯のお茶」だとしても僕はそれを絶対に拒否するだろう。いくら喉が乾いていても、喉が渇いているからこそ、施されたらその分腹が立つ。もし、「救ってあげる」と、「NHKにようこそ!」の美少女がいきなり現れたとしても、その瞬間「内面的悲劇」が露呈し、また露呈することを恐れ、無理ですとなる。だから、僕は今、普通に7万円くらい払えば、誰でも取れる心理カウンセラーと、心理インストラクターの資格を持っているが、カウンセリングされることはもう解せない。
だから、自分を、「磊落のい」をカウンセリングする「湯田ねる」という人格を生み出した。

だから、最近のキャバクラ体験なんて最悪だった。
「現れてから言え」と誰かが言うかもしれない。いや、機先を制すのです。

もう「救い」はないんです。「救いがない」となっているから、もし救われたら逆に腹が立つ。
そういう性格で、それを内在しているのが、「怒り」とか「楽園」とかいう作品だと思います。

要は、僕にはもうエゴイストというか、能動性しかない。能動性しか許せない。自ら茶を飲む。だから、先に書いたように、「冊子を持ち込む。直談判する」みたいな考えしかないと頭に浮かんだんだと思います。
それは「方向感覚を失った盲信」だと先ほど気づき、僕は非常に落胆した。

「もしすべてが予め書き込まれているなら、すぐにでも死んだ方がましでしょう!」とガタリは言う。要は、自己建設の過程があるだけだと。
だから、13話分の脚本は描きたいし、それを目指すが、目指すだけである。

問題意識と重なったので、数年前に買ったビフォの「フューチャビリティ」という本を読み返すが、「現在の世界構成の中に書き込まれた中身=可能性=内在的」というようなことを言って、「潜在力=可能なことを展開し、それを現働化する主体的エネルギー」みたいな楽観的な見方をしているように見えるが、僕はもう楽観的な見方になれません。

〝救いはない〟んです。もし〝救い〟があったら、〝救われた〟ら、僕はそれが、どうしても許せない。