闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2021.04.14

ガタリの本を再読している日々、vtuberの2Dモデルを使用して、それを話す動画を撮ることが目的。たまたま月ノ美兎の配信を開いたら、「vtuberと言えど、一枚岩ではない。人類総vtuberの時代」と発言していた。再生回数などに拘泥はしない。むしろ、再生されない方がいい。その方が普通である。見るに値するものだと思わない。じゃあなんで動画を撮っているのかというと、それは後で、それはいつになるかはわからないが、「変わった人がいるものだなあ」という印象を抱かせたいからである。唯一無二になるための気勢を挫く奇襲のようなものである。ガタリも著書で「自己産出の過程を証言する」ことを語っており、メッセージを伝達することよりも、創造する過程を重視している。ガタリは自分の文章、著作を足場作り、ある種の芸術作品のようなもので在りたいと思っていたようだ。それは物語という言説的なもので引き受けるのではなく、音楽などに代表される非言説性で、造語であるエコゾフィーというものを介した非身体的-無形のもの、瞬間における何か。これは極めて神経を研ぎ澄ませて、感覚的な把握に傾くのだが、推移的なもの、もはや僕にとっては「死」という問題、ジャンケレヴィッチは、死は「無定形なものの幻」であり、存在は各瞬間ごとに死ぬと言っている。に、ぴったりくっついているものと思われる。ガタリの目の前での祖父の死の経験-心的外傷体験-タナトフォビア、メメント・モリ。だがなぜ、あれだけ基本楽観主義で、社会運動家で在りえたか。僕は死の恐怖という総体の大絶滅を思ったら、気が狂いそうになり、寝込むくらいしかないのだが。

ガタリが言うように、芸術家にとっての動的編成(アレンジメントまたはアジャンスマン)は、「芸術家個人、作品の観衆、批評家、ギャラリー、美術館」などを巻き込む。分裂分析の実践の中で関心を引きつけるのは、「その実践過程を通して現れる世界の異質混交的様相」だと言う。そこに晩年のカオスモーズという概念が見て取れる。分裂分析からカオスモーズという概念が生まれたと解釈できる。それは今で言うインタラクションのような概念、生配信のような時間芸術というようなものに限った話ではない。集合的装備は一方通行のような場合でもいつでも常に作動しているようなものだと僕は考える。それは「機械」として、構造以上のものとして。「機械の中には、ダイヤグラム、地図、方程式、等々が住み着いている」とガタリは言い、全く根源的機械、根源的方程式のようなものを重視しない。発見はむしろ発明であるという。機械状=保証なき未来の動的編成。最良の部分は文学的次元であり、機械として文章を捉えることである。ガタリの著作も機械として捉えることができる。

本の再読をしていて思ったのだが、僕は間違いが多い。それはレトリックとしての言い回しが多すぎるということ。それはある著者の言葉の引用であったり、組み合わせであったり、それは最終的に神の属性は我意であるとして自殺したキリーロフに通ずるものであると思われる。彼は、人間は自分の神を「発見」ではなく、「発明」してきたと言っている。そして、「文法にそぐわない言葉遣いをしていた」とされるし、実際そういう場面が出てくる。彼が自殺したのは、言表行為というのが根源的に言論の様式で行われるものではないことを感じており、内奥に秘めていたからであると思われる。だから彼は怒りを感じていたし、それは自分自身に対しての怒り、だから世界を罵倒し、「民主的 社会的 世界的 共和国万歳」という支離滅裂な言葉を檄文に付け加えたのである。そして、全てが文学的次元であるならば、間違いも許されよう。だが、僕は自分の間違いを恐れている。