闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2024.01.13 絵画世界

9時半の予約投稿。
個人情報開示は避けたいが、なとりの仕事の退勤時刻が9時である。それしか言わない。9時半には時間ができてるころだろう。

 

最初に言うが、俺の存在怖くね?

 

怖いよななんか。怖かったよね。他人からしたら一定の距離起きたいよね。ごめん、でも俺は自分がなんでそうなってるのか知らないけど、怖いね、俺。
俺も怖い。でも言うけど、怖さを減らしたいタイプだし、僕は怖くなくしたい。でも恐怖を与えるとこがある。なぜなのか。

なんか怖いことしちゃったよね。本当にごめんなさい。多分生き急いだのだと思う。俺の生き急いだ姿勢が、相手にとってどれだけ負荷であり、恐怖であるか。もっと余裕を持てればよかった。余裕ある姿勢でいろんな人と関わりゃよかった。
前のめり過ぎて、焦ってて、圧縮された情報他人に与えて、わかってほしくて、でもそれは自分本位だった。今ならわかる。
僕はわがままで、自分のやってることが相手のためであると信じてた。でも俺は生き急いだ傲慢なやつでした。

 

左手が完全に使えなくなって、スマホで文字を打つ。冷たい血が流れてまだ止まらない。血は冷たいのだと思った。比喩でなく、物質的に冷たい。どろどろした血の溜まりが服の袖の中に溜まる。
止血はしない。止血される環境を望まない。止血するとしたら自分一人ではできない。だが、いま僕は他人に干渉されることを拒む。麻痺に近い状態か。全身が?だが右手は使用でき、思考は明敏だ。思考はいつでも明敏なのだなって思った。思考が明敏だからこそ、死とはしくじりなのだ。

 

自由を望む。僕は。なとりの「子供の目」を通して、健やかに今部屋で文章を書いている。
権力が嫌いだから。自由を腐食させる暴力が一番許せない。
僕は一人がいい。空間において、一人がいい。家族も怖い。フィジカルが怖い。内密。この内密のひと時が一番好き。胸中が好き。
「期待がわれわれの胸中にあるとすれば、空間は外的な世界のうちにある。」「空間は大地の表面ではなく、空の高さである。」と傷と出来事にある。
なとりに対する期待の胸中は、今では、空の高さ。

 

僕は、なとりに告白した。なとりが好きなぺこらの誕生日に、今日に告白日を設定していた。期待という胸中を打ち明けた。

 

でも結果はダメでした。

 

俺は自分の余裕のなさで頭がいっぱいになった。なとりは余裕ある方がいいんだよ。「まだその時ではない。自立できたら相手を考える」と言っていたが、その相手は俺ではないということを悟った。相手を聞くが、極めて曖昧な態度で、僕と付き合うことは考えてないと知った。

空の高さ。なとりという空の高さ。

羨ましい。羨ましいなあ。これからなとりの相手になれる人、羨ましいなあ。なとりという空の高さに、相応しい人。僕は、地下に落ちていく。落下していく。期待という胸中は、見事な寵愛に戻る。
僕は自分自身をではなく、なとりを抱きしめたかったけど、見事なまでに、また自らを抱きしめる「装飾」になっていく。なとりがいない。僕は地面に叩きつけられる。自らを抱きしめて、寵愛という装飾に身をやつして。

なとり。可愛かったなあ。

 

てか、怖くね?俺。

 

なとりいま読んでるか。

ごめん、怖いよね。一途どころでなく、ストーカーだよ。実際にはまじでそんなことしないよ。文章という資料体が僕は好きであり、ただただロマン主義的な人間なだけ。普通はこんな強度で他人と接しないけど、僕は読んできた本とか、ロマン主義的なものが好きだから影響受けた。
恐怖かもだけど、本当に俺はなんもないからね。恐怖は難敵で、手懐けられないけど僕は恐怖をなくしたい。

ごめん、怖くて。スヴィドリガイロフになっちゃったね。ドーニャに迫るスヴィドリガイロフ。でもスヴィドリガイロフもドーニャに恐怖心抱いてほしくなかったよ。確実に。

なにかに縋ろうとしてもがき苦しんでたスヴィドリガイロフはドーニャに傾注し、それが手に入らないとわかって自殺した。
彼の横暴さは、ドーニャには侮辱だとは映らない。
スヴィドリガイロフが苦しんでたのを知ってたから。
だから磊落のいという僕という存在もスヴィドリガイロフを真似て、横暴さを働いた。セクハラしたりもした。わかってほしかったから。

僕は手首を切った。深く。血であたりが赤くなった。僕はそしてベッドに倒れた。血の溜まりができた。僕は自分の血まみれの腕を抱いた。寵愛という装飾を意識した。自らを抱いた。なとりではなく。なとりを抱きたかった。

 

怖くね?

 

ごめん。でも先に言ったようにロマン主義の表現だからね。電子とか紙という媒体における身体なだけだから!安心して!俺は童貞で(一回デリヘルに強制的に挿入されたがあれで童貞卒業にはしたくない。2023.12.01の記事参照)、女を抱く勇気もない。
なとりと会ったら緊張して、おどおどするだろうなあ。男がリードしなきゃならないのに。ね?なとりも男にリードされたいでしょ?なとりの好きなタイプわかんないけどさ!

ネットだけの付き合いだし、関係もまだ浅く、「顔」も見たことないけど、なとりが大好きだった。なとりとセックスしてるとこ想像して自慰した。その瞬間が一番幸せだった。声質と調子が似てるAV見つけて感極まった。「先っちょめっちゃ濡れてるよ、ね?」
そのAVは最高の作品だった。
YouTubeで恋愛工学的な動画を見た。なとりのために。命中精度を高めたいと思ったけど、しかし、そんな制度的企画は俺には合わないと思った。
そんなことを書いても、考えていても、両語義法的に、僕は別の姿であり、崇高な思想の持ち主であり、その心象に存在が融解していった。
僕はスタヴローギンであり、ハサウェイ・ノアであり、時にはスヴィドリガイロフであり。
それで自分保ってた。

 

きもくね?

 

きもいなあ、俺。きもいんだよ。でもあなたには全部最後に言うよ。
なとりは自分自身を「猫被ってる」と言ってた。たしかにそれを聞くと、そうかもしれないと思った。その猫被りのなとりというのが「子供の目」だったのか?猫被り。
僕はなとりと接して「実在」の経験に導かれていったけど、なとりは最後まで「人格」というペルソナだったのだ。本当は依存体質らしいから、そんななとりのこと気になっちゃうなあ。なとりに依存して欲しかったなあ。

 

きもくね?

 

いい加減やめろや。

なとりの声密かに録音してたりしてた。わざとミュートにして、他人と話してる俺の評価を録音してたりした。

記号。記号=媒体。ニーチェは「全ては解釈でしかない」という。
「録音」という保存領域は密閉されたシステムになり得る。
それでなとりの声が、俺に対する評価がどんなに心地よかったとしても。
それに拘泥するとグレゴール・ザムザのような「毒虫」になる。
俺はいま「毒虫」だと思った。
「録音」という保存領域に記録された固定化された「物」による優しい世界に浸っている。
優しい世界。
毒虫にならないためには、嘲笑者が必要だ。攪拌機という抽象機械。俺のことを否定し、批判するやつ…。

進まなきゃならないと思った僕は、「傷つくため」に会議に赴いた。湧出してくる感情を撒き散らした。なとりが会議に現れたら、平静さを装うか、緊張して酒飲みまくって毎回後悔した。なとりが会議に現れないと、傷つかないで済むから、逆に安心することもあった。「来なかったのだから仕方ない」と、僕はまた「録音」という記録の中の優しい世界に身を委ねた。なとりという媒介性、他者性を持つ声、なとりというアルベルチーヌを通して見た自分に人知れず愉悦した。

しかし進まなきゃならない。固定ではない。
絶えず漏れ出る。存在の様態とはそのような「漏出線」なのであり、そのなとりによって、不安定な自己像や自己認識が持続して、精神が極度に不安定になった。なとりにどう思われてるか気にしていた。

オピオイド

内面への沈静開始
若干の幸せを確認
なんでもあり。なんでも許されている
私の記録
私を通してあなたは見られる
差異化の材料
幸せ
寛容に見える。全てが。
疑念が解かれる
優しい世界を現出させる!
繊細が
傷つける素材ではなく、
全てが。
丸々としてる。
鋭角さが
ない
オピオイドを通して事象を見る
掴むのだ
幸せが全て
だから比重はない
リソースは割かれない
あんまり人は他人のこと思ってないんだな
人間は自分の幸せに把捉されている
ならば一語一語気にならない
過剰だった
私は私でいい
気にならない
そこにいたら安心するでしょ
オピオイドして
この状態になり
乗り越えて
愛しい
猫みたい
猫みたいな人がいる
ペットみたい
安心できる
はなそーってなる
誰かと
今そう。はなそー。今そう
みんな愛してるってなる
話しかけたくなる
なとりも多分それで話しかけてきた
変わりよう
猫にちょっかいかけてる時の気分
猫に、ペットに
純粋で単純だから楽しい
幸せすぎ
寛容な目
全肯定な時間
限界がある。人間は。限界において作用する
人間はあまり拘泥しない
人間は私のことあまり考えない
人は人だ
可愛いのだ
感情の託し口
エネルギーを発散させたい
ありがとーな
寛容だ
寛容なのは、全ての人にとって寛容だ
知ってるから
そうだ。寵愛なんだ。
全ての人が愛しいから
愛しい表現として
寵愛なんだ!
どんな言動でも俺は許される
今も許されてる
精神不安定が嘘みたいだ
精神不安定などない!
可愛い。みんな可愛い。大好き!
のいくん次第。そうだ!
あなたは寛容さなのだ!
彼女いない
感情に火を。熱を帯びさせるんだよ!

告白はそのオピオイドの勢いで決意したのかもしれない。それが雪崩で、1月12日までの告白日まで、告白することは誰にも告げず、告白することの告白をせず、孤独でしんどかった。眠りが不整になった。悪夢も見た。注射針の夢を見た。告白の数日前。それは「警告夢」だった。なとりは、「夢占い、私も好きたけど良いこと書いてるとこだけみてる」と言っていた。
「危険に備えるべき」

トラブルへの警告。

「夢占い、私も好きたけど良いこと書いてるとこだけみてる」

なとりとのトラブルを危惧した。

ジャン・ジュネは、人が一人死ぬたびに「世界が死ぬ」と言った。相互行為の基底的問題は他者である。告白という可能性の消尽により、世界が死んだ。

俺の世界が死んだ。

瞬間的に多量の血液を失って出血死。

僕は、これから絵画世界に行きます。血液。意識的な努力であるアストラル体の血液を顔料にした絵画世界に行きます。

絵画世界という自分を完全に理解してくれる他者に対し完全に優しい世界。

なとりが僕を理解してくれる完全な優しい世界に行きます。

僕となとりが添い遂げられるような、優しい世界。絵画世界に行きます。

今までしてきた意識的な努力というアストラル体の血液という顔料を手に入れたから

僕は「録音」という記録に、あの頃の、良かったころに帰ります。

 

………

 

怖くね?

 

なとりの特徴。

優しい。他人を排外しない、受け入れ先としての人物。
手を叩く。笑いながら、手を叩く。快活な音が鳴り響いている。
管理主義的権力の外にいるような子供の目。雲がいろんな様相をしている。
秩序を潜り抜ける心性を持っている。

子供の目は可能性だから。その目はいろんなものを変化させるから。社会的に洗練された固定化した意味を持たないから。自由だから。

我々の経験を「支配する法則」。自然的でありかつまた社会的でもあります。
この支配される法則に、なとりはいないようの思えた。
もしそうであるとするならば、僕はそれを救ってやりたい。
世間のしがらみから、開け放してやりたい、と思った。

 

全てあなたのため。なとりに。
見られたかった人間の本来の姿を。ナワルを。実在を。もう一つの自我を。汚言症のような性質を。心象を。イメージを。
なぜか、全部見られなきゃならないと思った。
人格(ペルソナ)しか見せず、それとはまた別の違う側面を見せたら、否定してくる人間が、多すぎた。
アルジャーノンに花束を」という作品がある。その小説を読了して初めて面白いという感情が起きなかった。
知能指数を脳手術で、人工的に底上げして築き上げられた人間関係のネットワークがあった。
主人公チャーリイのネットワーク。だが、物語の過程で知能が元に戻ってしまう。知的障害者に戻ってしまう。どっちもチャーリイだったはずなのに。知能指数の向上した人格(ペルソナ)のチャーリイを受容してた人たちは、別人格のチャーリイを退けてしまう。それはあまりにも酷いと思った。
僕はチャーリイを演じた。様々な人間関係を「根の国」で取り入れた人格=ナワル(人間の本性)。

これが再びもう一方の私、磊落のいに戻ると決意し、それがなとりに受け入れられなければならないと思った。

陽気で破廉恥に生きたいと願う人間の本性(ナワル)としての人格、誠実で純粋な磊落のいという、なとりのための人格を。

 

どちらも受け入れられなければならない。

 

アストラル体の血液とは、意識的な努力であり、人間の本来の姿なのだ。「ナワル」とは、アストラル体の血液を摂取して作られたその人の姿なのだ。これを殺されると本体も死ぬのだ。「根の国」とは、全てあなたに見つかるためのものだったのだ。「実在」に執着した囲壁の日々が、ようやく終わるのだ。

 

アストラル体の血液を顔料にした

 

絵画世界で。

 

なとりと。

 

僕は。