闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.12.24 抽象機械

急に熱を帯び始める。全細胞が決起する。これはクリスマスイブという格子なのか。いつもはメモを参照しながら文章を書くが、熱に任せて書く。これは音楽が原因か。朝に「ピアニスティック・ダンスフロア」という曲を発見したからか。

僕には様々な味方がいることを意識する。それこそドストエフスキーに始原を持ち、ソレルスセリーヌバタイユアルトー、バルトなどがいる。

精液、糞、芽、種子としての文章。それは「伝達」ではなく、「場」としての文章。僕のブログは読まれてると思わないが、もし読者がいるのなら僕がずっと主張してることはわかるとおもう。そう「抽象機械」として働いているのだ。

彼らは肯定するための概念である「抽象機械」を肯定するための構成員である。もし、抽象機械を肯定する作家がいるのなら教えてほしい。スキゾ分析における分析的過程という不確実性の次元の中に我々を誘う。

ただ言葉を吐く。言葉をとにかく。躊躇うことなく。ためらいはもはや問題ではない。僕は文章を書くことに躊躇いを感じていた人間だ。あまり見せられたものではないとか、まるで不完全であり、未熟であり、方向感覚も定まっていないとか、しかし、それはもう棄却した。なぜか。「抽象機械」という概念があるからである。そして抽象機械を支えるスキゾ分析という概念。こんなものを手元に置いたら、言葉を吐かないわけにはいかない。全ては「過程」なのであり、完成品などこの世に存在しない。全ては、新しい、そしてはてるともない織物という抽象機械なのだ。

 

僕は思った。この抽象機械をみんなが認識できるようになれば。自分を、他者を抽象機械として認識できるようになれば。

我々は「人格」を保有する。その保有する「人格」でコミュニケーションを図ろうとする。しかし、その人格は変化を禁じられている。どのような変化も。なぜなら人間の変化は、結果として他者との関係を変化させるからだ。

しかし「抽象機械」は変化を肯定する。抽象機械はもはや人格を見ていないのだ。抽象機械は、その裏にある「実在」を見ているのだ。

抽象機械は実在の領土を作る。それは先に言ったように、「伝達」ではなく、「場」のようなものによってもたらされる、それは主体感の生産であり、この世界や宇宙、環境や場、フィールドそのものの抱握によって生じる実存である。

 

少し考えればわかることなのだ。少し「抽象機械」について考えてみればみんなわかることなのだ。固定化された、観念化されたものほど息苦しいものはないと。我々は「変化」したいのだ。それもあなたによって。何かに縋ろうとしてもがき苦しむのは、「人格」しか受け入れられてないからだ。精神病院に二度入院したり、いろいろ患ったりして通院の経験から言って、その人格すらも非人格化する精神病院は論外だ。そんなものはバザリアのように潰すがいい。

「人格」の裏にある「実在」を見なければならない。僕が過度に落ち込むのは、「人格」しか見られていない時だ。重要なのは我々を包み込んでいる「実在」であり、連帯の絆を結ぼうとする愛の精神である。

皆が「抽象機械」として自己と他者を認識し、「真の全体」として他者を見るようになれば。コミュニケーションではなく、コミュニオンとしての関係性を見出すようになれば。

そこでの手引きはやはりドストエフスキーでしかない。「どんな人間であれ、社会的に放擲されてはならない」。

しかし、ドストエフスキーの登場人物は固定化された観念化された思想を持っているようだ。その結果、多くの死体が残されるのであるが、それはドストエフスキーが観念を殺すからだ。

観念を殺すこと。固定化されたものを取り払うこと。それはまさに「死」なのだ。つまり、それは人格の死にも通ずる。

 

変化は死である。つまり、死とは変化である。

 

死んだようになってる人は「変化」した人だと結論する。そして死んだ者は「他者」において再び生きることによって生きながらえようとするのではないか。「表現、ないしは描出するあらゆる変化は、一つの変更だ」とジャンケレヴィッチは言う。

その「変化」により、他者との関係が「変更」される。

 

なぜ変化による変更が起きるのか?変化は変更に繋がるのか?

 

それは相手が「人格」でコミュニケーションをとっているからだと結論する。「実在」を見ていない。やはり、固定化された、観念化されたドストエフスキーの登場人物のように見ている。そして先にも言ったように、作品で死体が残るのは作者により「観念」が殺された時だ。つまり、「変化」した時である。死体=変化である。

 

我々は変化すれば死ぬのである。だから自分に変化を禁じ、「人格」を持つことを強いる。しかし、「抽象機械」はその変化を肯定するのだ。

 

死の瞬間の断面はいかにしても一つのものではない。つまり、変化という死は論述できず、手から滑り落ちる。変化とはその本質からして、人間の基底層であるカオスを体現している。つまり、人間の中にある「複数性」のようなものを暴き出す。つまり、変化とは人間が複数であることの表れである。

 

それは先の表現、描出ということは、変化してしまうということだ。自分が何かを表現すること、描出することは、それは他者との関係を変化させることであり、自分の死である。

 

だからみんな躊躇う。何かを表現すること。インターネットという開口部が開かれていて、自由なのにもかからわず、自分が何かものを言うことを恐れる。躊躇う。

 

何か自分が「実在」としてあることを恐れている。しかし、今や我々は気づこう。我々は実在であり、人格ではない。一でなく。複数である。「数(ノンブル)」である。数からなるイメージである。

 

そう「数」からなるイメージが自分なのに、我々は一つの「人格」に自分を落とし込む。なぜならそれを用いないと相手に受け入れられないからだ。人格を持たないと相手に受け入れられないからだ。人格を保有しないと自分が死ぬからだ。

 

死とは、絶えず更新されようと願う許諾であるとジッドは言った。つまり、それは人格の変更である。「実在」を叩き出すことが死である。だが、「我々は死にながらに生き、生きながらに死ぬ」のである。

 

その変幻流動を、生成を、我々は認めようではないか。なんどもいうが、人格の変化は他者との関係を変更させるから、死体が残る。しかし、人間の本質は固定化された観念化されたものではなく、絶え間なき流動なのである。実存心理なのであるから、だからその固定化、観念化された思考のドストエフスキーの登場人物が苦しんでいる。

 

そうはいっても僕も「人格」を保有している。その「人格」を取り払うのはどうして可能か。どうやったら可能か。それは「狂人」になることである。狂気とは、生きることが不可能な状況を生き得るた目に創出する脱出口なのである。R.D.レインによる狂気、それは「内的現実と外的現実の統一のための内的世界への投入であり、自己の再創造のための航海」

狂気になることは人格を「実在」に統一させるための航海なのである。狂気とは、旅である。「人格」ではなく、「実在」を掴もうとするものの。

それに気づいたものたちだ。

もう我々は狂人になるしかないのであるが。我々にはいい概念がある。それが「抽象機械」だ。

抽象機械という他なるものに開かれ、生成し合うための「場」。その開口部。

それを人が認識することができれば。

自己も他者も抽象機械だと。それを認識することができれば。

内在的冗長性である抽象機械。抽象機械という中継器、変換器。

それは人格の変化をむしろ肯定し、促進させてくれる。

我々はもはや変化を恐れることはないのである。

抽象機械というデフォルトに狂気。

狂人万歳。

狂人の思想が格納され、概念化された「抽象機械」という概念を少し考えてみてもらえればいいのである。

人間は全て抽象機械だ。

人間にとって他者は変換器、中継器としての機能を持つ。つまり、選択素材を構成する。

つまり、我々は他者にとって変化のための素材である。潤滑油であり、他者の人格を肯定し、実在を受け入れるための機械である。機械とは、相互に接続されたネットワークである。「抽象機械を構成する強度の諸特徴は、提示位置的ではなく、横断位置的になる」。つまり、「場」として人間が機能するようになれば。もっとより良く生きられるようになるのではないか。

機械状の脱領土化は、互いにプロセス化し合う生成変化なのだ。

 

我々は「抽象機械」により、変化を肯定しよう。

 

だから我々は躊躇うことなく、伝達としてではなく、表現をしよう。一個の完遂、一個の宿命。それにより、死体を残すのだ。

 

………

 

僕は朝起きると、熱を帯びたように、下ネタをXに書いた。それは「実在」だった。そのような気がした。

心象がまずある。そしてその心象に適用された言葉がある。言葉があって初めて可能になるのが概念だ。そしてその心象の直観から生じる情緒がある。概念はその始原に情緒を持つのだ。

「抽象機械」というのは、情緒(心象)→言葉→概念。の概念の位置に高められたようなものである。が元々は情緒である。

我々には心象が生じることを避けられない。精神に心象が生じることは避けられない。やましいことも、良心も。崇高なことも。

心象を理性により識別して行動しようとする。しかし、我々は元々は情緒からくる心象なのだ。

祭りなど、そのような象徴的な造形物に見られるのは、祭祀の基礎をなすのは情緒だ。性器みたいな形をしているのは情緒の発現だ。

幼児は言葉でおしっことかうんこなどと言い表すことに興味関心を持つ。その言葉により、言葉(口唇性)を制御したことになるからだ。

そしてだんだんソフィスティケートに洗練されていく。言葉を持つこと。言葉を使うことによって。

でも、元々人間にある「心象」が棄却されるわけではない。そんなことはありえない。ただ、識別した理性で統制しているだけである。

だが、我々は結局、その幼児と一緒だ。始原にあるのは汚言症のような心性だ。

そして僕が思うにその、糞みたいな心象が「実在」の鍵ではないかと思うのだ。

祭祀の基礎をなすのは情緒であり、そのようなものによってもたらされるのは一体感だろう。

我々は自分を「糞」みたいな心象を持つ人間だと認めようではないか。

そして、思う存分「場」としての言葉を吐き散らそうではないか!そして、「人格」ではなく、「実在」への意志を持とうではないか。

 

それは「糞」が概念化した抽象機械というものが、背中を押してくれるのだ。