闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.11.21 ディスコード

祭りの夢を見た。僕の河川区域である家の外にある堤防は、人々でごった返していた。雑音のざわめきが、集中していた。僕はその祭りに一人で行った。父親から一番搾りを買い占めたほうがいいと言われ、法面から、それに従うように、下に降りていった。

日常の有意味的に行われている生活から離れて、祭りに陶酔していく。威厳の本質である命令する機能、意志の力、つまり、意志により、思う時に運動を止めたり、開始したりという随意運動から、不随意運動へ。精神をそれに専念させはしない、ただ反射的に酔いしれる。この自己忘却によって重荷から意識を軽減しようとする。

夢から醒める。まただ。また僕をある種の布置へ、文脈に入れたな。また、ディスコードの弾雨だ。また僕は仮死状態であるという砲煙で対処しようとする。そしてまた僕は夢を求める。

動かないものと動くもの。不動者と可動者。僕はとりわけ可動者に撹乱される。神経が切断や圧迫において結紮されて筋肉が感受性と運動能力を損なうのでない限り、不動者も可動者も等しく感受性を持っている。感受性を持っているということは動き回るということ、生きるということは動き回るということ。

動き、この動くもの、それが加える要請に対し、僕は以前希死念慮を抱くまでに重苦しい思いが沈澱していった。〈死んでいるのならどんなにいいだろう〉それがかの有名な小説におけるように倦怠や猜疑心に侵されるというわけではない。僕はただ、僕が信じなきゃならないと思うところの、つまり自分自身の心を観察すればわかることなのだが、自分が心の中で作りあげた相手、つまりそれは自分自身に対する救われなさ、それに憐憫を抱いて、それが一縷の望みであるように、相手という自分を投影した姿に対し、必要な限りを尽くすことによって、自分がただ救われたいというだけなのである。欺瞞は根付いている。欺瞞は論駁できないのだ。救われなかった自分を救いたいという根源的な無量の欲求のようなものから、どういう行動の余地が残されているのだろう。それこそ救いは、過去を永遠化する死ということになる。実存的な状況において過去は改変されて絶えず作られるが、自分に対する憐憫の情、この根本的動機となるものを破壊することはどうしても難しい。自我が現れると、全ての事象が奔流の如く流れ始める。だから俺は前、薬物依存症になった。この自我さえなかったら。ミラン・クンデラのいうように、俺が入院中、一番感銘を受けた言葉「人生において耐えられないのは、存在することではなく、自分の自我であることなのだ」はまさにそうだった。南インドの大覚者が言うように、自我さえ立ち現れなければ、一連の災いはことごとく消え去る。自我が立ち現れるのを防ぎなさい。そのためには自我は存在するのか、しないのか?を熟考させるしかない。自我を見出そうとすれば自動的に消え去るでしょう。

このようなものに触れても結局南インドの大覚者は、自我とは強力な象であり、ライオンにも劣らぬ力でなければ制御できないと言う。

もう俺は自我を手懐けることは無理だと諦めた。自我の配下にある想念の束を、消すためにはもう物質に頼るしかなかった。しかし、物質である火の振動する先端、つまり火の限界が目に見えないように、我々の精神もまた目に見えない。目に見える物質。それだけがただあなたの目に映る。内実はわかられることなく、なぜならそれは非実在化しているのだから、人知れず狂っていく。気づいた時にはもう手遅れ。僕らは精神だ。身体じゃない。火の先端のゆらめきだ。砲弾、大砲、火薬の装填、雷管、砲手というのは動機があって立ち現れる。心理的な要因は後になって検証されるとどこかで読んだ。その通りだ。物質的見地が我々にはわかりやすい。心理的要因という動機は後からだ。死を覚悟したものは特有の透明さがある。透明さ、透明、それは火の限界点である見えない振動する先端。見えない。心理主義は評判が良くないと言ったとしても、認識論にも心理主義が残存すべきである。全ては人間心理に由来する認識論的障碍を素材にした再組織化なのだ。しかし相補的な弁証法に頼ったとしても、誤謬は消し去られるわけではない。我々は人間心理でしかない以上、初めから誤謬なのだ。

僕は酒をかっくらう。自我を、誤った自己同一視である自我を消すために。ヴァーサナーという心の潜在的傾向が、自我や世界を生み出してるのかもしれない。しかし、先にいったような心の潜在的傾向は火の先端の振動のように目に見えない。今僕が見ているのは個人の幻影に過ぎない。このヴァーサナーさえ消え去れば。

酒を全く飲まない父方の叔母も尿酸値が高く、遺伝的な要因もあるのだろう。それに加え僕は尿酸値が高い上に酒を飲みまくっているせいか、最近急激に足が痛くなった。寝床について寝れたとしてもすぐに目が覚め、脂汗が出て、片目をギュッと瞑り、呻吟した。病院に行って事情を話した。すると、医師は長考したあげく、やがて薬を出した。プレドニゾロンというステロイド薬だった。副作用についての説明がされなかった。しかし、自分で調べてみると、髪が抜け落ちることや、胃潰瘍を作ることがあることがわかった。そんなことは僕は望んでなかった。そんなものは自由じゃない。

僕は処方された薬を飲むことはやめて酒を飲んだ。痛風発作より酒をとった。もう俺には酒しかない。もう無理である。そして酒の原因はこの自我という強力な象である。いくら露悪的で退廃的で人間として終わったからといって俺は酒だけは飲む。他人から中卒無職と罵られようが、いくら、いくら他人が、他人に好かれなくても、どうかお好きにどうぞ、今までありがとうございました。酒だけ飲めればなんでもいい。酒は自由の属性だから。俺は自由をこの上なく称えている。自由のために斧をとってくれた先人たちに感謝している。歴史に感謝している。そしてこの自由を腐食させるものを暴力と呼び、その暴力が一番許せない。

だから、僕がそんなんだから、僕自身も他人の自由を腐食させることは許せない。だから僕はどんな人間であっても他人を放擲しない。ドストエフスキーという抽象機械に触れたのだから、僕はどんな人間であっても存在していいと思う。

 

来訪者。意味付けるもの。意味、意味とは世界とは正反対のもの。世界とは意味とは違う。世界とは雑音のざわめきだ。意味とは、複雑性の自己記述。自己理解を深めようとする人物と最近ディスコードで酒を飲みながら話す。

 

「うちは何に対しても意味を感じてたいよ。意味のない行動って生きてる上で、必要な時もあるかもしれないけど、話し合いにおいて意味がなかったら意味がないじゃん。ある程度、意味をつけておかないと、理解ができなくなったりもするし、逆に話してる意味がなくなっちゃったらそこで会話している意味すらもなくなっちゃうから」

「意味ってさ、極めて主観的な問題じゃん。もし、現象というか、世界をあるがままに体験しようとするならば、絶対、意味とは正反対の雑音のざわめきでしかない。〇〇はあれだな、今思ったけど意味付けたがる感じで、結局それは自分自身が問題になっているから、そう思うと思うんだよね」

「うち多分分別したいんだと思う。ゴミだって分別すんのにさ、燃えるゴミ、燃えないゴミとか埋立ゴミとか。そのためにはさ、まずそれが何かわからないと無理じゃん。で、ゴミだとしたらこの地区では、何が燃えるゴミで捨てられないのかもあるじゃん。そういうのをすごい理解したいんだと思う。理解して、意味付けて、カテゴリーとして受け入れて、その上で自分の意志とか考え方とかと擦り合わせてみたいなことをしたいんだと思う」

 

しかし、僕は実ところ、もう大分前から意味というものに対して倦み疲れてしまった。思考のための制度としての意味ならわかるが、他者を意味付けるというのがまるでわからない。ディスコードなどの会議では、障害者だの、他者を意味づけて糾弾することがよくある。障害者という枠組みにおいて相手を機能させて、集団的恒常性のために貶し、やがて排除する。そのプロセスが何より面白いというわけだ。何しろ面白いか面白くないかという価値基準が前提で行動を起こすのだから、ある種の茶番劇だ。

障害者などとして他者を貶し、迫害するという出来事は質料的領域において受肉され実現されるが、この現働化を逃れた純粋な出来事を意志するということ、非質料的な出来事の現場を見るものにとっては、その表層的な意味づけは問題になることがない。

先に言ったような物質的な、砲弾、大砲、火薬の装填、雷管、砲手のような計測可能な見地に対し、純粋な出来事は潜在性の只中において機能し、それを交わし続ける。つまり、人間心理にとっては全てが生成なのである。

つまり、意味というのは、その人の実在を無化してしまう恐れがある。分別したいと言っても、燃えるゴミや燃えないゴミのように人間は明確ではない。人間は様々な可能世界なのである。生成するものなのである。ならば、ありとあらゆる出会いを不可能にして、潜在性を減衰させるわけにはいかないのだ。

そして我々はその可能性を拒否するわけにはいかない。今の僕らは、選出された可能性の現存化が浮き彫りされた一つのものに過ぎない。我々は不可侵な、それぞれの存在である。もし本当の障害があるとするならば、自分の場所を占め、そこから他の者を追い出すことを意味する空間性-障害である。

 

僕は可能性の領野を信奉している。ディスコードの弾雨が続く。しかし、僕は可能性の領野を信奉しているからそれが嫌だったとしても僕はサーバーを消すことはしない。自己顕示欲に付き合わされるのに疲弊した。俺の世界こんなに狭いものだったのか?誰かの目を通して世界を見る必要がある。俺は俺ではない誰かの目を通して世界を見ることを強いられている。ので、迎合することはできない。僕は絶えず今この瞬間において他者だ。僕は他者との差異が根源的に曖昧なまま、不気味な差異として毎秒拡散されていく。そこでは物自体が日常の意味性を離れて突出し、カオスの無限性を讃える。つまりは燃えるゴミも、燃えないゴミもない。

 

意味などないのだ。