闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.12.23

ソレルスの「数」を最近読了する。言葉の力を知った。雑種言語的な語彙の快楽。後書きにもあるように「物があって言葉が作られるのではなく、言葉が物を存在させるのである」。とはまさにその通りだと思った。読んでいて言葉が物に対し先住している様な気がした。会話は一切なく、執拗な粘着型性格のように文章が書き綴られるが、ほとんどその表現は馴染みのある文章とは程遠く、すんなり入ってくるものではない。文様、抽象図形というような触感的なものであり、読めない書である。

会話はないと言っても、クリステヴァの「テクストとしての小説」の「テクストとして見た場合、小説とは、その中に多様な言表の痕跡が総合されているのを読み取ることができるような、一つの記号的実践なのである。20p」にあるように、他の諸テクストから採られた多様な言表が交差している。

「(I)(異)(イ、異なる、《自己防衛のために、あるいは敬意を表すために両腕をあげている男の姿を、線を用いて正面から描いたもの》)」という文章が差し込まれる。

断片は、他の複数の断片と何らかの関係に置かれて呈示され、私たちはその言葉のエネルギーを圧縮し爆発させる倍力装置に身を委ねていればいいのである。シニフィエ(意味内容)という固定され、観念化されたものではない、宙吊りにされた無限のシニフィアンという抽象機械が、伝達としての言葉を退潮させる。ここに表されているのは、「伝達や表現の道具ないし手段」としての言葉ではない。言葉が創り出す、言葉が惹起する、言葉が生産する。絶えず、そういう言葉であり、まさに僕が最近問題意識として捉えている「抽象機械」としての言葉群である。その他なるものに開かれ、生成し合う織物(テクスト)=抽象機械に触れて、もっと、もっと、もっとずっと!を体現する。言葉の倍力装置。

 

そんな感じ。

 

相変わらず日記の提出者から日記をもらっている。僕はその人と通話した際、父親は単身赴任で、父親との接点があまりないことを知った。芸術科高等学校を卒業して洋画と現代アートを学んで、美術学科賞を受賞していた。その人はおそらく無を抱え込んでいる様な気がした。無の場は父の名の機能によって被われている。しかし父の名の機能がしっかりしていないと無に直面することになる。その人は、今まで無の場にヴェールを被せるという効力のある芸術家の行動をしていたのではないだろうか。創作においては、父の名の喪失にヴェールを被せ、父の名に相応しいものを作り出すことができる。無に直面しなくてもよくなる。しかし、それが今は潰えている。だから、僕はその父の名に相当するものを「創作」において創り出してほしいと思った。それは諦めの形式である「日記」でも構わない。無という脅かしを創造的に生きることで、精神的自己肯定が生起する方向に向かってほしい。日記という精神的生活の内容を呈示させる。その精神的生活の内容を僕は愛する。それを愛する者として、あなたも自己自身をも愛するようになってほしい。人間とは自らが創り出すところのものだ。「言葉が創り出す、言葉が惹起する、言葉が生産する」あなたという言葉の倍力装置。創造によってあなたは空間を生み出す。僕はあなたの空間に由来する人物になりたい。皮膚や内臓の同化。分裂、融合、分裂、融合。

 

しかし、あなたは水だ。バシュラールの「水と夢」にあるように、水とは若くて美しい死、花咲ける死の要素だ。水は女性の深い有機的な象徴である。オーフィリアという女性の自殺の象徴。死という内在するエネルギー。

 

僕はあなたに日記を提出させるが、「滑らかで、飛躍のない、正確な目標のない持続」はどうにもならない。あなたに日記という「形式」を与えることは可能でも、日記の「内容」まで与えることは不可能だ。水力学理論では、圧力が上がれば上がるほど、水なり蒸気なりが爆発する確率が大きくなる。圧縮し爆発させる倍力装置。あなたという倍力装置。あなたという「数」。億、兆、京、垓…。そのための圧力。あなたという面積にかかる力の総体。それはどこにあるのか。あなたは理由のない寂しさに蝕まれていると言った。説明できない寂寞感。寂寞感ではないのかもしれない。雨、うなじからこめかみの突出まで逃げていく川。

 

マランビジー。ウィラドゥリ語で「大きい水」。あなたという「数」の列によってもたらされる。マランビジー。川。「数」の倍力装置。億、兆、京、垓、の川。

 

マランビジーとは「閃光のハサウェイ」の最終話のタイトルだ。マランビジーという枯れることのない水。

組織であるマフティーの首謀者は、マランビジーという大きい水に。その、秭、穣、溝、澗、正、載…。「正当なる預言者の王」を掲げて。大きい、数の列に人々を巻き込む。大きい川。大きい川というイメージ。マランビジーというイメージ。億、兆、京、垓、秭、穣、溝、澗、正、載…。

 

人々はいずれ命数法という大きな川に加わればいい。言葉の倍力装置はどこまでも続く。新しい、そしてはてるともない織物。もっと、もっと、もっとずっと!

 

水辺では夜が涼気を引き起こす。夜は薄布をまとう女神である。

 

「寒い」

 

「そっか。寒いよなあ」

 

僕は正当なる預言者の王だから、太陽の燦々たる光を、地上最初の生命の自由。

 

創造。ソ=太陽

 

上から下の力の内向の流れの分岐

 

「個々の人間のありかたは、自分がいまいるところの音階(密度あるいは振動数ともいう)によって決まるほか、上昇性の流れのなかに身を置いているか、それとも下降性の流れのなかに身を置いているかによっても異なる。「父」のもとへと戻るには、下から上に向かう第二の流れへと移らなければならない。人はふつうそれを独力では成し遂げられない。イエスでさえもそうだった。しかるべき人物のまわりに生じる状況を必要とする。これが「洗礼」ということ、それによる「悔い改め」すなわち「方向転換」ということの本来の意味である。グルジェフグノーシス

 

マランビジーという川の流れ。今こそ、あなた、上昇性の流れのなかに身を置くのだ。

 

あなたは大きい川。だけど、載、正、潤、溝、穣、秭、垓、京、兆、億、万、千、百、十、一…。絶えず上昇するのだ。

 

僕はあなたに父としての名を回復させてやりたい。あなたにとっての父親。あなたの父。あなたの父の名。あなたから無を、引き払ってくれる、父。洗礼による悔い改め。それによる方向転換。あなたは今の流れに押しつぶされるな。僕があなたの周りに生じる状況になってやる。下から上に向かう第二の流れにおいて、一緒に父の元へ帰ろう。

 

父親。