2023.12.13
最近、ロラン・バルトの「テクストの楽しみ」を読了する。衝撃を受けた。僕たちの母校であり、出自。絶望のどん底に到達し、歓喜が躍動するように。ジャン・クリストフにあるように、「この力の陶酔を、この生きることのできる喜悦を、自分のうちにーーたとい不幸のどん底にあろうとも、ーーまったく感じない者は芸術家ではない。それは試金石である(二)41p」
そうはいってもバルトのテクストの楽しみは芸術家に向けて書かれたものではない。有名な作者の死という文句は出てきて、それは一応「作者の人格はもはや自分の作品に法外な父権を行使しない」とされる。ゆえにフラットな状態でのテクスト。バルトは、テクストのテクストたる由縁である無碍の広量さを讃えている。つまり、バルトはさらに言う。「イデオロギーの嫌疑と戦わなくてはならない」どんな柵にも繋縛されないテクスト。確かに、若干のイデオロギー、若干の表象、若干の主題を必要とすると言っているように若干は必要かもしれないが、そのたとえ階層があったとしても、イデオロギーを他のイデオロギーより選り好みするわけではないのである。テクストは命名を解体するのだ。もし権利があるとするならば、テクストの分離に向けられた権利である。テクストの触媒作用による権利からの分離。それ以外の権利はない。テクストを書く人。それは自由である。気分や、習慣や、機会に応じて剥離してしまう、テクストそのものの完全性のようなものがある。テクストそのものをハイジャックすることはできない。有名な言葉、テクストが意味するのは織物である。そのテクストの楽しみとはニュートラルである。「シニフィアンの豪勢な位相にまで昇り詰めた価値」僕も以前ブログの記事に書いた。最初のシニフィアン、音の連なりだけのがいい。と、シニフィエ(意味内容)はいらない。そんなことを書いた気がする。それをこの本は説明してくれた。楽しみは人格的なものではない。個人的なものである。人格以前のもの。人格とは「あるべし」という命令系統の成れの果て。誰でも個人であり、実在である。しかし我々は人格同士のコミュニケーションをする。誰もが他者に受容された側面を用いて便宜的にコミュニケーショを図る。しかし、本来は人格以前の実在である。テクストの楽しみとは実在的なものである。コミュニケーションではなく、コミュニオン(親交)である。
「個人言語にライバルはいない」
これが最も影響を受けた言葉である。テクストという個人言語。言語そのもの。近傍である「ここ」でも、理想的な「向こう」でもない。二つの世界があるわけではない。天国、浄土、エデンの園、ユートピア、アルカディア、エルドラド、シャンバラのような理想郷があるわけではない。そして「ここ」もない。テクストは、一所不在である。いつでもあなたの偏在性に委ねられている。いかなる論述も受け付けない。「私が私自身の中で語る言語は私の時代のものではない」
という話でした。僕は自分自身がテクストしかないと思っている。ジャンケレヴィッチは、「音楽とは、呈示すること自体がその唯一の真実、真剣な真実である」と言っている。そして「音楽は、そのあるがままのもの以外には意味しない」のだ。観念論じみた教化の説教のような音楽はもはやない。そしてバルトがテクストを音楽と捉えているかどうかは厳密には知らないが、僕はテクストを音楽だと思っている。「概念とは、ひとつのリトルネロ、番号をもったひとつの音楽作品」と言われるように、哲学も文学も、何もかもが音楽のようであればいいと思う。全ては心理学的現象であり、美的-感性的である。だから音楽がなければ人生は誤謬であると言ったニーチェは発狂した。だからではないかもしれないが、心理主義は評判が良くないとかいう科学哲学者がいくら言おうとも、全ては心理主義のような誤謬であり、音楽だ。
だが、ガタリのような技術体系としてのエコロジーは、テクノロジーを介して自然を見つめ、生き直すような実践の論理であるが、そこにおいては自然もまた複雑な機械であり、機械状のエコロジーである。
しかしバルトの本を読んでいると、ガタリが扱うような、機械という感じがしない。他なるものに対して開かれて生成し合う抽象機械というような感じがしない。けれど言いたいことは、異質なふたつなものが機械状にダイナミックに組み替えあえながら、主体感の生産をする。異質性を孕んだ系統発生の繰り返し。そのようなテクストなんだと思う。けど、バルトにとってのテクストは物自体のように、強固である印象を受けた。ガタリがウリとやっていた制度論的精神療法、あれはグリッドやグリーユと呼称される格子をあえて作ることで関係性を流動的なものにして外部との新たな領土ができるというものだ。そこには文化や文脈を移動すると、あらゆるモノは一旦壊れる。というような文句に信を置くというような。
しかしバルトの言うテクストは、ラディカルに、不可能なもの、象徴界から排出された現実界レベルのことを言っているような気がしてならない。ラカン入門(ちくま学芸文庫)によれば、精神病者においては患者は享楽の場、つまり不可能な場にいると言われており、だから苦しむと言われている。そう、標識がないのである。精神病は防柵が欠如しており、耐え難い苦しみを生む。そしてバルトのテクストの楽しみは標識も防柵も何もない。もはや、享楽(Jouissance)の場としてのテクスト。立ち入り禁止の標識はテクストにおいては取り払われている。テクストというか、バルトのいうテクストにおいては。だから苦しみを伴うかもしれない。しかし、我々は苦しくてもテクストが好きだし、テクストにしか望みはない。僕はそうだ。全てはテクストだ。衝動的な偶発時においてテクストというメロディーの死物に出会うのだ。嫌疑と戦おう。発狂してもいい。あらゆる解釈格子を吹き飛ばそう。権力構成体から逃れよう。顔貌性から、支配的イデオロギーから。非社会的性質であるテクストを信奉しよう。そう、個人言語においてライバルはいない!テクストにおいては我々は完全に自由だ!
今日僕は起きたら、辞書編纂法による人為構造のような文句と共に挙げられていた、ロブ=グリエの本、手元にあった「迷路のなかで」を読み始める。その前に風呂に入り、風呂場で尿を放出する。僕は衝撃を受けた。血尿が、放出してわかるように出てきた。それも痛みを伴って。正常の尿ではない。鮮明な赤。深紅の血が混じっている。自由が効かない尿だ。自由が効かない。うめき声を漏らしそうになった。僕は酒を手に掴み持ってくる。いつもと同じ、ルーティーン。生身の身体である側面を失いはしない、そういつだって。カオスへと風化していく生身の身体。怖かったし、今も怖い。文章が打ててるのが不思議なくらいだ。「肉感的に生み出される限りにおいての意味である」とバルトは言うが、肉感など触感覚的な痛みに足元を攫われれば用をなさない。そうだ、僕はこの触感覚的な痛みだけを恐れている。前のブログにも書いたように、僕が恐れているのは、不安なのは、精神的な痛みではない。
僕はこれが放心の場なのか、いや、確実にそうではない。肉体的な不具合における放心の場はテクストの楽しみではない。悍ましさを抱えながら、「迷路のなかで」をめくる。「ほどなく兵士は、まっこうからぶつかってくるこまかい結晶体のために目がくらみ」という文句の結晶体が結石に変換される。「どの街路とも変わらない街路上だ」の文句の街路が尿路に変換される。「街路の左右を見、ドアを見る」の文句の街路がの尿路に。「街路は細長くて」→「尿路は細長くて」「赤い液体の輪」→「血尿」
「本は意味を生み出し、意味は人生を生み出す。テクストの楽しみ 74p」
「きみは負傷しているのかね?」と、ようやくその男がたずねる。
兵士は、首をふって、そうではないということを示す。
「病気かね?」
「はい、尿路結石です」