2023.12.25
メモ程度に。
昨日、ミヨシさんが開催してくれたディスコードでべんざカバーさんと話す。
慧眼すぎる人。見識を備えた人。母親らしさのある人。父親らしさのある人。非指示的療法。心理への配慮。精神的苦闘の最大の理解者。安心感の創設者。「空気清浄機」と評された男。神経系を刺激する光の束。人間的な穏和。暗礁から脱出する活路。モーターオイル。調和に満ちた天国。地雷の埋まった野ばら。思慕の対象。
生き延びるためには、研究、刷新、創造といったものを累進的に発展させなくてはならぬのであり、べんざカバーさんは、僕が独学で、感覚一次元の世界で溺れているところに多元性を確保してくれる。安全に愛し、創造することのできるようなどこかへと。創造のモーターオイル。悪なるものの排泄作用……。
そこでの若干のメモ、控え。
抽象機械についての思想を話すと、クリステヴァの「ジェノテクスト」などと関連付けて話される。「それ自体はテクストとして捉えられない。主体を超えた無限のシニフィアン(記号の無限の連鎖)によるテクストの生産活動」のこと。
無限のシニフィアンが宙吊りになっている。そのような開口部としての抽象機械。
それに対し、同系色の思想を持ち出してくる。
なるほど、確かにそうかもしれない。納得する。《お前に殺されるのなら、本望だ》。叩きのめされる。
「抽象機械に賛成はする」とは言った。
「抽象機械が抽象機械」になっている。「コーラ。なんでも代入できる記号。コーラでいいじゃないですか?」と言う。
抽象機械、芸術系の学校に行ったその人は「下地」と訳す。「まとめたら先に行かないじゃないですか?」
確かに。抽象機械という流動をまとめる、自分のものにするような所業は、それは……どうなのか。
新しい、そしてはてるともない織物としての抽象機械を志向しておきながら。もっと、もっと、もっとずっと!を志向しておきながら。
抽象機械という言及をして、抽象機械というシニフィエ(意味内容)を作るというのは、そもそもナンセンスなことなのかもしれない。
無の痕跡を下地(抽象機械)にして。その「不在」から構築された現前、語。生み出すもの。創り出すもの。言語の意味宇宙が誕生し、整列する数(ノンブル)。数におけるイメージ。イメージによる生産活動。
無の痕跡。
「もし人間の営みが抽象機械の繰り返しだとするならば、分断されたとき、何も導入されない事態はありうるのか?営みが断絶することはあり得るか?抽象機械が意味をなさなくなる事態がある得るのか?」
とべんざカバーさんは言う。
みんなが抽象機械を自認すること。
「自認しなければ抽象機械ではないのに、他人に与えることできるのか?」
与えることはどういうことなのか?
抽象機械は自認しなければ現れないものなのか?
みんなが抽象機械を自認できるように、それを与えること。
「何かが生み出されてるのはどういうことなんだよ!」
「抽象機械が無敵ワードすぎるから自己言及的になる」
確かに。
僕は動物の死、観測されずに、人知れず死んだ動物について話す。
その観測されなかった動物は抽象機械として働くのか?
無の痕跡。
「のいさんがやるべきことは自分で抽象機械をお乗り越えになることです」
「………」
「そのヒントは誰にも、どこにも観測されない動物の死ですよ」
「そこら辺の思想家の筆頭に今あまり興味が薄いのは、スピノザすぎるから、陽キャすぎるから。コナトゥスを増大させることしか頭にないの。デリダ、レヴィナスが好きなのは、常に自分が無化されることを考えてるからなのね」
「その哲学の行先って自分をわかってほしいということでしかないのかなって」
「………」
なるほど、なるほど。
そうかもしれない。
僕は、ただ、自分をわかって欲しいだけ。だ。概念を味方につけた、自分をわかって欲しいだけ。概念で粉飾した、本当の自分をわかって欲しいだけ。
え? それが実在? 人格の裏側の?
自分の「実在」を見つけてほしい。
「実在とは何か。何が実在しているんだ?」
「何が実在しているんだ?」
「実在というものがハリボテな気がする」
「見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの。張り子の虎」
立派なもの。立派なもの……。
僕はそれで自分を大きく見せて、権威めかせて、建造物にして。
だが、実際は「実在」って厳密には何?
「何が実在しているんだ?」
俺は気づく。
自分の死が、自分の死が、「実在」という概念に分与されてるだけだと。
それも観測されない人知れず死んだ動物の死=自分の死が。
「実在」に分与された。
僕は内実を失った。失っている。
他者に注がれる眼差しが自分に注がれる眼差しなのだ。
それは心理だ。
「心理は一義的ではないのでは?一義的なのは実在でしょ?」
しかし、僕はベンヤミンの靴下の話を思い出す。二足の靴下は、一足ずつ丸めて包まれている。それは小さな袋のようである。
僕は実在のことを心理学的現象だと見る。
それは実在が自分の心理に由来するものだから。
観測されない動物の死に対する眼差しは、自分の死に対する眼差しであり、その心理が、「実在」という概念に束ねれた。
だが、実在が一義的だとしたら、「心理」と「実在」は二足の靴下であり、同じ一個の「小さな袋」である。
………
「実在」について今日色々調べる。そこで出会ったのは、ホワイトヘッドの哲学だった。「過程と実在」。
そこで僕は「抱握」という術語に出会う。
抱握とは。
「意識を伴う以前の非認識的把握を一般に表現する術語」
こ、これ、観測されない動物の死ではないか?人知れず死んだ動物の死ではないか?と思った。
意識以前の非認識的な働き。
我々は観測されない動物の死を認識できない。意識することはできない。一つの個体を漏れなく全部、抽象機械にすることはできない。
非認識的だ。観測されない動物の死=非認識的だ。
無の痕跡。
この「抱握」という術語に鍵があるとみた。
自分の死が、非認識的ではならないという意識が根強くある。
僕の死、磊落のいの死は、観測されない野生の動物の死であってはならない!
その意識が「抽象機械」というところに向かわせた。
「のいさんがやるべきことは自分で抽象機械をお乗り越えになることです」
「………」
「そのヒントは誰にも、どこにも観測されない動物の死ですよ」
この「抱握」と共に、僕の「抽象機械」を乗り越える。