闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.08.29

原点である本を再読して読み終わった。ナワルのデザインを考えようと思った。しかし、それはいつでも難渋した。ナワルとは変身後の姿であり、もう一つの自我である。Wikipediaを見ると、鳥獣のような姿である。しかし、例えそう描かれていたとしても、その外面的な作用、人間の姿から鳥獣へと全身一様に変身することは起こったことがないし、起こることがない。

ブラッドボーンにおける赤い月の接近による獣の病の外面的な作用は、言ってしまえばゲームという媒体だから起こることであり、脳液がどうとか、寄生虫がどうとか言っても獣への変身は現実には決して起こり得ない。じゃあ、完全ファンタジーに割り切るなら別だが、変にリアリズムを重視するなら、ナワルは描けないのだろうか。

じゃあ、文字である本という媒体はどうなのか。そこで思いついた。ナワルという獣を、実体験としての次元として機能させるならば、文字という媒体自体を利用するほかはない。媒体自体を。実際に変身などあり得ないのだから。もし変身があるとしたら、幻覚に過ぎないのだから、ならば文字を介した悪魔による感覚機能の奪取はあり得る。文字という体液で想像を掻き乱し、器官に働きかける。

ナワルへの変身とは、脳の変身。それなら文字で書ける。だったら、ナワルが鳥獣でもなんでも構わない。文字上で変身しているだけだから、今書いている俺は悪魔である。ナワルとはつまり、文字を介した文脈の中でしか捕捉するできない概念である。文字という力と速さ。それを操っているのは悪魔。悪魔とは作者。悪魔とは獣的な衝動の責任者。しかし、白痴だとかいって、獣という臨床像を系統的に分類していく試みはつまらない。獣はなぜ獣なのか。ナワルはなぜナワルなのか。それを考えなければならない。悪魔が操っている小説を読む中、識別する言葉によって快楽を覚えるということはあり得るか。読者は何を持っているか。変身という言葉に含意されること、変身とは、他者との関係性の変身である。受容の集積である人間の人格にはどのような変身も禁止されているがゆえ、変身が起こる原因として、自身のアイデンティティを脅かす破壊的な力に身を委ねなければならない。

スサノヲの本を読み、スサとは荒むということから来ていると知った。母を求め、母のいる根の国を求め、泣き叫ぶ荒々しい気性である。荒地。荒地とは、不安の発生母胎である。荒地、木々、木の根っこ、木の根っこは根の国に繋がっている。

木々に囲まれたアサイラム病院。そこがナワルが産み出される場所である。誰によってか。悪魔(文字)によって。悪魔(文脈)によって。それがもたらす力と速度によって。それでなら、ナワルの外面的な作用はあり得る。

全ては文字であり、文脈である。文脈とは、悪魔による幻覚である。ナワルの変身、その発生母胎はアサイラム病院である。