闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.08.28

05:41

ニルヤの島を読了。若干のネタバレ含む。

「いとも簡単に訪れた肉体としての死は、彼の人生という物語が担保される限り、もはや顧みられることはないのだろうか」

人生という物語の担保。何によって担保されているか。生体受象に溜まったログと模倣子行動学による担保。

そしてそれが死後の世界を捨てる根拠である。

たった数コンマ秒さえあれば、人は脳の中で一生分の経験を処理できる可能性がある。実時間上では既に経験した事実を、僅かな時間で並べ替えて、再び脳に夢のように見せる=叙述補記人による主観時刻という技術。

 

つまり、生体受像という叙述の技術により、死後の世界は捨てられた。それは、模倣子を使った技術であり、模倣子(ミーム)の転写、個人の知覚を大幅に上昇させる。
他者の経験を生体受像に記録し、ミームパターンを析出。そして知覚実験を得て転写。
個人の感情を推し量り、他人の行動を高い精度でシュミレート。

この生体受像の技術は直接には描かれないが、こういうことである。

現世で人々に忘れられない記憶と自己が担保されれば、死後の世界は克服できる、と。死後の世界という観念は、人間が作り出した模倣子の発現型の一つである、と。主観時刻という叙述の技術は、臨死体験で見る走馬灯に近いという。必要なのは、数コンマ秒。だが、走馬灯を見る時間が数コンマ秒でも、数コンマ秒の内容を形成するのは莫大な時間がかかると思う。

想起されるイメージ。今も連綿と続いている内にある数々の記号の連鎖。それが想起されるというということは、そのイメージとともに散るのだ。

明らかになるのは、死後の世界を否定する主観時刻という技術が通用するニルヤの島という作品でも、人々は無意識的には死後の世界を求めているということ。

いくら人の心を技術で埋めようとも、坐臥している本質的な恐怖は消すことはできない。という。無意識的にも死後の世界を求めているということは、死後の世界を求めるミームがあるということである。それを人々に継承できれば、ニルヤの島という概念は生きられたものになる。

 

普段日常生活で使用することのない死後の世界という単語が頻出するのが良かった。そしてこの作品を素材に思想を高められるような場面多数である。友達とのバーベキューの描写なんて入る余地のないような。融通の効かない厳格な空間。だが、それが艶っぽくて魅力的でもある。

 

最近、死後の世界を志向するようになり、色々自分で調べると、根の国から神代巻についての本に出会い、そこから建速須佐之男命に行きつき、本を一冊読み、スサノヲを祀る神社の一つとして愛知県にある津島神社が挙げられ、近々名古屋に行くことになっていたので、津島神社にも行けると思い、「死後の世界に興味があって」と両親に話すと死後の世界についてやなぜそれに興味があるのかなど、全く触れられなかった。

気づけてありがたいことに、人を精神病にするのは、人の受け取り方である。それが受容されたという感覚があればまず病気になることはない。しかし、精神病は存在しない。あるのは関係性であり、受け取り方である。世俗的な言い方をすれば病気は個性である。
受け取り方の集積がその人の人格であり、表現としての病気である。

ニルヤの島での死後の世界は恐怖心から現れる。「他者への不理解と断絶。断片化は個人の記憶が欠落した時ではなく、他者の中で自身が存在しなくなった瞬間に訪れる。他者の中で自身が存在しなくなる」

受容してくれる基体である他者の喪失が、防衛策として死後の世界を志向させる。恐怖心。その恐怖を覚えさせないための環境。苦肉の策として、そのための制度。

死後の世界という単語の頻出は、失調しようとする意識を引き戻してくれた。

 

恐怖心を手懐けることができれば、人生というものはない。人生の原因は恐怖心である。