闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.12.11 年の終わり 正直に思っていること

今の俺の気分は最悪だ。珈琲と抗不安薬を混ぜ合わせて、もう3錠目だ。医者からは一日頓服で4錠出されている抗不安薬は減薬推奨なのだが、気分が最悪なので、飲むし、一日に4錠飲んでるというと減薬にはならない。来年の目標は動画を五十を上げること、その点で僕は拙速主義にならなければならないが、物質的収益性のない骨の折れる仕事…再読の最中、僕は孤独になる。神は内在的規定者で、インターネットは異端の神か。

起床する。すぐ側にあるコネクティビティの情報の坩堝で人々は踊っている。たったの143gだ。この143gの箱で、許諾されたいと願って、誰かが死に、生き、万事の不断の更新が続く。その画面で「おはよう」これは、ランジスティークだ。「おはよう」ってあいつが言ってるぞ。これは媒介。媒介。媒介。媒介でしかない。媒介以上のものは存在しない。僕は鎖の輪。

親類のRくんが自殺した。享年31歳であった。鎖の輪、これもランジスティークだ。斎場に親族が集まった。野辺の送りには実の父親は来なかった。ところで、ランジスティークとは、隠語だ。固定的な分析的座標を横断する隠語だ。それによって、流動的になる関係性。滞留が寛解することへの希望。コネクティビティの軽さにおいて立場の変化というのは難しいのではないか。インターネットでの交替制など。骨になって骨壷に納められた。Rくんと僕は会っていたわけでも、話したりしていたわけでもないが、シンパシーを感じていた。彼は本を読み、一人の母と暮らした。カウンセラーだった姉は自殺し、実の父親に髪の毛を取っていかれる。その有形的な髪の毛。これはランジスティークか?それは結び合せるものになり得るか?僕は鎖の輪でお前は誰だ。Rくんは自殺した。顔は鬱血から赤らんでいる程度だったが、こんな形で出会いたくはなかった。火葬の最中、待合室で待たされて、まだ「生焼け」だの「ミディアムレア」だの低劣な言葉が散見された。そういう風に扱われるRくんは何だったんだろう。でも一つわかったこと、言説の代弁者としてのRくんは他人の中に生きていて、生き続けるということ、肉体的な彼はいなくなったが、位置を占め、文脈や状況が変われば、出現してくる一種の潜勢力を保有している。骨壷は、ランジスティークか、そうでないか。でないとしたら骨壷にはなんという名前をつけなくてはならないか。とにかく潜在的なRくんという他者性を出現させるには、関係性という間を設ける必要がある。それが彼の死の遺贈。彼は生きる、僕の口を注いで生きる。全て解明できるわけでないメッセージとして保有される。

・ユリカとの復縁、会話をする度にこれはもはや遠のく行為になりかねないと思い、サバイバーズギルト的物語構築における重要人物として機能させる。僕は癒やし手を向けるが、彼女は毅然としているかのように見えた。

・いけだ、最近のこと、家族的理由をつけ、通話の不可能性を押し出す。それは多分、建前的なもので、単純に別の理由があると感じさせる。別の理由における別離。ツイッターにおける一挙手一投足の動作を封じ込めた人物で、もはや彼女にとってのマブダチという印象も軽薄になりつつあるのを感じる。だが、いけだの奥底を汲み干したというわけではない。まだまだ表層的な部分が残る。

・yuくん。優しいがゆえに、何が本当のことなのかわからない。関係性において陰りを見せる、そして無量の欲求を感じる。そして愉快だ。彼は健全である。自己保存と自己防衛を併せ持つ健全な病者である。

・みら。悟って、整理された明快な頭脳を好む。だが、悟り切るのも恐れ、自分が何をしたいのかわからず、だが、人好きのする人物のため、彼はそれだけで完璧なのであり、だから寂寞感を抱え込んでいる。彼の考える義務を寛解し、引き受ける人物が必要である。家族間における布置、退出を促される縮小家族という環境としての場で自殺したRくんとの対比的に考える。
・べんざカバー、いなくなっては困る人物。「のいさんは、治療を受けたい訳じゃない。個人的な関係において解釈されたい、臨床よりも価値のある関係があると思っていて、それが友達だよ」と彼の言葉には凄まじい憐憫がある。少年のようにぴょんぴょん跳ね、現在の内実は灰色の屋上へ向かう階段室。

もう今年が終わる。来年は五十動画投稿することが目的だ。なぜ五十なのかは知らない。でもそれらが、ランジスティーク(隠語)として機能し、要するに媒介として、「言説の代弁者」として、各人の中に、または各人の間に、僕が時折、出現して、生き残っていることを望む。言説の代弁者は内在的可能性で、僕が他人をカウンセリングし、詩を書き、小説を書くということも含まれている。