闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.01.24 死にたい

死にたい気持ちが治らない。この記事はある種の人間にとっては恵まれているのかと思うかもしれないが、もうどうでもいい、もう通り越えて、生きている方が間違いだという観念と、素面の冴えた死の恐怖、身体的な息苦しさがある。見栄えもどうでも構わない。死ぬとしたら、バーターで死ぬことになるだろう。

死ぬことを考えていることとして理由を挙げることとするならば、わかりやすい言い方をすれば〝人の誘いを断ることができない〟からである。「なんでそんなことで?」と思うかもしれないが、本当にそう思っている。思想はない。思想的に人は死ぬことはできないと思っている。ただ、そう見えるのは〝思想的に見えているだけ〟である。誰がどんなことを言おうが、人はいかなる思想も持っていない。思想家などこの世に一人足りとも存在しない。他者によって補完されなければ自分はないし、それは、自己愛などによる基盤なしで他者と関わってしまえば、罪悪感が植え付けられるだけである。絶えず自己は他者との関係性において、輪郭が変動する。そのことに倦み疲れてしまった。機械状従属の集団の中での個によって、特異化ができないと、同じことを繰り返してしまう。文化記号論の範疇で言えば、人間は言葉によって侵食されている。意図した言葉を話せることはない。ただ、言葉は人間という場所を借りて、永遠に勝手に動いている。これは身体に対する意識の優位という観念論の立場でもあるかもしれないが、観念は人を殺すし、実際に重要な哲学的な問いは〝自殺〟である。無機物と化すこと、存在の無償性は人を生かせ、逆に殺しもする。そこにあるのは、もうただの詩みたいなものだ。詩的実践は生としての存在の無償性、死の贈与は死としての存在の無償性、僕は一つの小説を書きたかったが、今は後者を選ぼうとしているだけだ。

さて、なのだが僕は最近毎週と言っていいほど、キャバクラに行くことになった。全くお恥ずかしい話、僕は断れない、キャバクラを断れないから自殺すると言っては誰しもが馬鹿なことだと思うかもしれないが、それは全ての環境を巻き込む。俺は無職で、金を稼いでいない。収入があるとすれば、障害年金だけで、それが尽きると毎回母親に強請っては、その金を掴んでキャバクラに行く。親は毎回金をくれる。恵まれている。好きな女がいるわけではない。ただ、先ほど言った観念が連れて行く。

 

はっきり言う。僕は人にある〝善〟や〝無垢〟を激しく称え、それを肯定したいし、信じたい。が故に、観念が生じ、キャバクラの誘いを断れない。そこにいる人物を人物として見れない。気持ち悪いと思うかもしれない。他者の実在性は倦み疲れたものを打ち破る、ただその善も善に惹かれ、無垢も無垢に惹かれ合う、轢断され、いつもそれが、眩しくて眩しくて仕方ない。寂しさはない。俺が俺であるために、引き裂かれそうになる自己を接合しようとするが如く、そうせざるを得ない。これはR.D.レインのいう「にせ自己」を生み出す。それは本当の自己と対比され、自己を自己でなくする。全く矛盾している。キャバクラは現代文明が象徴する矛盾の一つである。キャバクラでは自分の本名を名乗らず、匿名で自分を表すことができる。なんでも構わない。ただ〝演じる〟のみ。それは最初、友達から誘われ行った。それがもう、今では日課であるが、もう母親は金をくれない。金がない。人の誘いという〝善〟や〝無垢〟をもう金がなくては信じることができない。適合しようとする焦燥感は発狂しそうなくらい膨らむ。人に〝合わせられない〟という人がいるが、俺はそれが羨ましい。俺はそのくらい自分の人生を生きていない。〝生きられない〟。その店は飲み放題で、毎回記憶をなくしては帰ってくる。なにかやらかした感じがする。恐怖を感じる。なぜ、毎回こんな思いをするために、キャバクラに行って、何も〝無い〟ものに金を投じて、親の金を使ってしまったという莫大な後ろめたさと虚無を買わなくてはならないのか。ただ、俺は相手にとっては単なる客の一人に過ぎない。〝善〟も〝無垢〟も何でもない。ただ、俺は〝善〟や〝無垢〟を信じたい。ドストエフスキーは自殺しなかった。観念の中で作中で人を殺しまくった。俺には才能がない。体力がない。いつの間にかこうなっていた。〝良心〟〝善〟〝無垢〟はテーゼであり、悪はアンチテーゼ。

誰がなんて言おうと、俺は生かされている、生かしてもらっている〝善〟の人。しかし、俺は〝悪〟になりたい。ねえ、どうやって生きたらいいんですか。俺はこれから誰かに何をすればいいですか?どうやったら許されますか?どうやったら、俺は俺で居られなく、〝善〟〝無垢〟〝良心〟を信じなくて済みますか?