闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.04.01 映画「キャラクター」について。また、〝さようなら。〟の意味:ネタバレ注意

アイデンティティとは、攻撃による自己肯定 連帯意識を失った社会体の擬集力を確保すること。大量殺人のダークヒーロー 21p」

「スペクタクルとは、イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本である。スペクタクル社会 34p」

今日はエイプリルフールだ。だから嘘でもつこうと思って。両角修一と言う人物がいる。あいつずっと嘘ついてんだよね。名前も詐称だし。でも名前に固着していると思う。名前ってそもそも嘘だよね。多分最初っから。それは両角が証明してくれてる。四人家族を幸せの一単位と捉えるコミュニティ出身なことは確かだ。エイプリルフールとは、嘘をついていいのは四月一日の午前中だけであると決まっているから楽だね。両角は最後だけ嘘をつかなかった。「僕は、誰なんだ」これが唯一彼から放たれた嘘じゃない言葉だ。それまでは嘘をついてきたよね、両角修一だの、ダガーだの、模倣して四人家族を殺害してきたよね。なぜ、嘘をつくのか。

それはつまり、身体を感じていたからだ。痛いのが怖いからだ。〝防刃チョッキ〟が両角修一と対比されるアイテムだ。あ、このキャラクターと言う映画、一瞬、部屋の中のスクラップに出てきた地下鉄サリン事件なども踏まえて、小さな物語を生きざるを得ないポストモダンとかを絡めて論じることもできるけど、そんなことどうでもいい。ポストモダン的文脈で、両角修一は「僕は、誰なんだ」と言う言葉を発したわけでは決してない。そういうのは愚にもつかぬ専門家に任せて、いくらでも語ってくれるよね。
両角修一は〝怖い〟と言う言葉を一言も口にしていないが、〝怖い〟と言う感情を誰よりも憶えていた人物だ。ただただ、怖い。じゃあ何が怖いのか。それは紛れもなく〝痛み〟だ。もっと言うと、〝身体的な痛み〟だ。決して精神ではない。人間は精神であるとか、パウルティリッヒとか、キルケゴールとかが言うのをずっと心に留めていたから、今までそう言う思いが強くあったけど、決して、精神ではない。精神など糞食らえ。強調記号など、使う価値もない。お前は黙っておけ。両角の行動は終始、〝身体的な痛み〟を体現している。じゃあ、なぜ人を殺すのか。それは彼が自他未分ではあるけど、自閉症ではなかったからだろうね。しかし、彼は自閉症的である。暗々裏にやってのける天才である。ちなみに俺は自閉症だから、自分に他人が入ってくるわけではなくて、他人に自分が入っていくと言うことを強く思うし、現象学的な、他人の痛みは自分の痛みであるということを肌でもって感じることができるから、勿論、何かを殺めたりなんて行動は絶対に起こさないし、想像もしたくない。さて、しかしそれは薄い膜で隔てたれているだけなんだよね。俺は分かるんだ。
僕は身体的な痛みが怖いから穏やかになれたし、また両角のように攻撃的にもなれることを知っている。両角は攻撃的な場面が映画では目立っていたけど、ただ穏やかな部分を全く省いていたんだろうね。俺は、〝防刃チョッキ〟そのものだ。だから殺人ではなく、機先を制して、自殺の焦燥に駆られているんだろうね。ちなみに、みんなは、最後、山城圭吾と両角が重なって倒れているシーンで、作中の原作とは重っている二人が逆であることに気づいていたかな。あれは、山城が両角になっていたんだよね。さっき言ったように、防刃チョッキは自殺観念を持つから、人を殺すということは同じで、その性質は本当に薄い膜で隔てられているだけ。ただ、それは普通に暮らしていたら、絶対的なものなんだけど、あれはタイミングとか、なんでそんな痛みを俺に味あわせるんだろうと思えた時の衝動性とか、脳内麻薬とか、だろうね。山城は本当に両角を殺そうとしていた。
さて、言語化したくはないんだけど、俺は身体的な痛みが怖い。バタイユ眼球譚という作品を自分が想像してしまうから書いた。自分が本当に現実でそうしてしまうのではないかと。ベケットとかも強迫的だよね。あれも、終わりにしたいから終わりにしたいと書き続けた。それはもう俺から言わせると、精神ではない。身体的な痛みの、感覚器官の、痛覚による、発作だ。それを想像してしまう、絶えず想像してしまうことからくる〝防刃チョッキ〟による自殺観念であり、文章に起こすことにより、身体的痛みを感じていながら、それを、村上春樹的な比喩を使えば、ヨーグルトの中のムカデのような鋭利な刃物による殺人だ。文章によって、身体的な痛みを殺し、生成し、殺すということを何回も繰り返しているという異常行動だ。要は、〝防刃チョッキ〟と、〝鋭利な刃物〟を自分で取っ替えとっかえしながら文章書いているから、止まることを知らない。ちなみに、俺もそのタイプだ。俺は〝終わらせたい〟。〝終わらせたいという観念を〝終わらせたい〟〝終わらせたいという観念を終わらせたいという観念を終わらせたい…〟。途方もない、イタチごっこ

さて、身体を感じることでいよいよそれは顕著になってくる。身体的な痛み、それは殺すことができないよね。でも忘れたいよね。だから、忘却装置的に同じこと何回も繰り返すようにして、俺が今こうやって文字打っているみたいに、するよね。それはもう、ただ、そうすることしかできないという、ただ、その一点のみに尽きるよね。ちなみに、俺は今膵臓が馬鹿みたいに痛くて、泣きそうだ。
痛い、痛い、痛い。痛いのがもう来ないでいいからと叫びながら、穏やかになって、叫んでの繰り返し。俺は穏やかになれた。ただ、身体的な痛みがただただ怖い。それを想像することによる、防刃チョッキ的かつ包丁的文章。穏やか、叫び、穏やか。見せないでくれと手を払いのけながら。なぜ、人はこうも惨憺な、グロテスクでいられるのか。なぜ、それが自分にさも降り掛からないかのように振る舞えるのか俺は不思議で仕方がない。それこそ、キャラクターとか、ミスミソウとか、Sawシリーズとか、最近見た、死刑にいたる病の榛村大和とか。
自分に言い聞かせるように、安心したいがためにそうするんだ。多分、人一倍恐怖心を抱いているから、あんなことができる。特に、俺はキャラクターという映画を16回観たから言えるけど、両角はそうだ。身体的痛みというものを忘却したいがために、それを投影し、消滅させ、生成している。他有化。いつ、木っ端微塵に自分がなるのがわからないから、もう完全に〝わからない〟からそういう行動をしている。

痛い、痛い、痛そう。俺は内科で仰向けになりながら、身体的に痛いと言えた時、安心した。膵炎のカモスタットという薬をもらえた時、安心した。俺はその時、あ、精神じゃなくて、無意識的な身体的な痛みを抱えていて、それが未来に投企され、それを回収しただけなんだと気づいた。
精神科でのロールシャッハ・テストで出てきた小柄で、二つの羽みたいなものを見た時、俺は母親を連想した。包み込んでくれそうで安心した。俺は身体的な痛みを覚えることのできる部位を所有している。それを打ち消してくれた。あの、大きな羽で。それは、扁平足であったり、俺の汚い肌であったり、色々をだ。勿論今は、この膵臓の激痛と、なぜそれが繋がるのかわからない流血的反応歪曲に。匂い、匂いもそうだ。もう全てを打ち消してくれた。痛みの原因全てを。身体的な痛みに接触して初めて気づけた。まあ、両角は天才なんだろうね。胎内回帰的文章。苦しむのは嫌だが、偉大な名言にもあるように、自分がその苦しみに値しない人間になるのも嫌だ。俺は、全部投げました。昨日のブログの画像で、他人に恐怖を与えました。銃口を向けました。しかし、その銃口は他人に向けていながら、自分に向けられていた。自縄自縛。俺は身体的な痛みを恐れている。じゃあ、なぜ他人に銃口を向けなければいけなかったのかわからない。山城の防刃チョッキに突き立てられた刃物のように。なぜ。何がしたいのかわからない。ただ、平穏がほしくて、平穏が怖いのでしょう。そんなものさっきも言ったように、わからない。絶対にないものだった。俺は今まで精神的な痛みを文章化してきたように思うが、今はもう身体的な痛みのが優位になって、書いている。血を恐れながら、血で書いている。なぜなのか。区別がついていなかったからだ。俺の場合、精神的な痛みを経由しなければならなかった。俺はディスコードなどのさまざまなコミュニティを抜けた。それは身体的な痛みが怖かったからだ。怖いからだ。だが、抜けたら一人だ。組織を作るか。五人組、結束力でも高めるか。いや、嫌だ。俺は絶対に一人がいい。しかし、社会で生きていたら、そうはなれない、両角のいた四人家族、幸せ、しかし、そんなものはない。あまりにも幻想すぎる。だからこそ、キャラクターという映画は美的であり、両角も美的だ。その痛みにあとどれくらい絶えなければならないかを考えた時の絶望は凄まじい。凄まじい吐血だ。人は精神的な痛みばっか語って、身体的な痛みについて、あまり語らないからわからなかった。重要なのは、精神的な痛みではなく、身体的痛みであり、そして、それを想像するという、してしまう、されてしまうという防刃チョッキ的かつ包丁的観念だ。
あんな、両角みたいな人間がいることを現実にいることを想像したくなかった。両角を真似て、髪をピンクにして、ドンキで緑色のジャージを買ってもう25回くらい着たが、あんなスプラッター、酷いこと想像もしたくない。だからこそ、俺は両角になった。ダガーを模倣する両角修一を模倣した。そうなることにより、他有化による安心感。いっそ、見えてしまわない方がいい。それになることによって、あえて近づけることによって、それにならないようにした。眼球譚的な、そうなってしまわないように、恐れながら、想像しながら。

睡眠薬と安定剤が切れ、大分経ち我慢できなくて、今日、精神科に電話したが、今処方するとなると、自費になるということだったので、ウットを薬局に買いに行った。イライラやどきどきを抑える。要は緊張感を抑える。効果は現れたが、副交感神経は交感神経に勝ることはなく、便意はあるが、何回も便がちゃんと排出されず、一睡もできていない。朝日に照らされるのが怖かった。朝を迎えるのが怖い。ずっと、夜のままがいい。痛い痛い痛い。斟酌しない医師を憎む。風呂入っている時に気づいた。痛みが怖い。身体的な痛みが怖い。ボイスメモに声を吹き込むことしかできなかった。裸が怖い。身体的な痛みが怖いから、むしろ堂々と生きなければならないでしょ。暴露療法。そんなものがこの世に存在していることが怖い。両角が怖い。なぜ、俺は存在しなくちゃいけないのか。三島由紀夫金閣寺に「なぜ歯は痛いのか」という描写があったような気がするが、なぜ痛いのか、痛みというのは人間にとって不必要なものではないのか。俺は精神的な痛みだけが欲しかった。身体的な痛みなんて絶対にいらない。しかし、もうこうなった以上、それを抱えながら生きていかなければならない。それが昨日のブログの一桁「さようなら」の意味。「さようならの意味」とは、

 

「僕は………、誰なんだ」