闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.08.31

僕の一日の根本的動機である不可避性は、8月21日より、ベケット的言語人間、恐ろしい勢いで奔流のように彼の登場人物は喋り続ける(それは聞かれることにより存在する)ことにより始まる。マロウンの遊戯、気晴らし、その道化版がゴドーを待ちながらという作品。そのゴドーを待ちながらという題目でのニコニコ生放送を300回以上繰り返す。朝起きると、父親が寝覚め、除かれた畳敷きの部屋に行き、冷房の効いたつるすべ石のように眠ることができる僕以外の人間が羨ましく思う。パソコンを置き、冷感のブランケットに顔を埋めるか、バック・ストレッチャーに顎を乗せて、そこで、おぼろげな意識でまずは微睡み、汗が引くのを待つ。そして、少しばかり経つと、パソコンを起動する、ニコニコ生放送を始め、ネットワークを作動させる媒介者となる。
しかし僕は一言も口にしない、全く一言も口にしない。しかし、完全に声を身振りから分離する生放送、沈黙と不動の抽象性かつ機械性のダンスにおいて、音声として流れているのは、僕の声ではなく、ほとんど文野環のアーカイブによる音である。そのかつて直接的に与えられたであろう感覚経験が音声記号に移し替えられたその声、そして、ゴドーを待ちながらという外向性かつ多様性を授けられた世界全体がいかなる瞬間にも喚起され、回収される。そのスキゾな同質発生による横断性は自己を他なるものに変えていく諸様態である。ベケットの人物は、最後の言葉を喋ってついには黙ることができるということを求めている。しかし、語るのではなく、語られるという「意識にとっての他者なるもの」という言葉の在り方によって、主導権は非人称的言語に渡され、人格の主体性の観念は滅びる。その地帯でもがくのだったら、死語と格闘するしかない。しかし、もはやそれは原始的にそうだったのであり、すでに悲劇は起こってしまった。だが、それを近代合理主義的ヒューマニズムの敗退とみなすのではなく、揺れ動く多様な言表の焦点の間であり、存在論的創造主義的である。
僕は文野環のアーカイブの底に行く。いたるところから幼猫が溢れ出す。声が。その底に達した時、僕も黙ることができることを求めている。