2020.08.27
この世界では愛は虚像から生まれ、愛は私たちを苦しめてきたものによって私たちの苦悩を和らげてほしいという欲求の中にしか存在しない。プルースト
愛の関係とは他者の文脈、体系においてそれを受け入れることである。
R.Dレインの内と外を総体として弁証法的に捉える視点。
「我々の総体」が問題であると言ったのはパスカルだったか。
「愛の精神医学」の著者、「反精神医学」の翻訳者が開設した病院に今日行ってきた。当時の保安処分に対するアンチテーゼの集団に彼は属していたらしい。だが、そういった思想運動は今はもうない。その診察において反精神医学について熟知していた野口さんでも薬と表層的なカウンセリングで終わる。
診察は10時からで、渋谷で降りて東急田園都市線に乗り、鷺沼で降りる。ベケットの「また終わるために」を読んだ。その題目が気になった。僕は一回終わったはずだった。ツイッターで心不全だとして自分を殺し、屋上から飛び降り、またスカイプでの会議も破棄し、間-人間的なものから逃走した。しかし、また終わるために?終わらなければならないことはわかる。倒れろ倒れろ。しかし、望んでいたものは得られなかった。ポストメディア概念において重要なのは、主にガタリであり、その後続であるラッツァラート、ビフォ、レヴィなどであると思う。その殆どの書物を翻訳した龍谷大学名誉教授の杉村昌昭さんも、野口昌也さんと同じく高齢だろう。意味作用の放棄、一つの状況の変数の総体の組み合わせ。
待合室では、TEG(東大式エゴグラム)を記入した。
「反精神医学のどういった所が酒井さんの心を捉えました?」と院長が言う。
「各人の中ではなく、間-人間的であり、権威的なラベル貼りではなく人間同士の間に起こっているものとして捉えているところですかね」
………
「何が一番自分の中でストレスになりますか?」
「人が、人間関係」
「今関わっている人間関係でどんなものがありますか?」
「全て」
「酒井さん自身ではこうやっていきたいというのありますか?」
………(反精神医学)「従来了解不能として切り捨てられ「病者の世界」の中でのみ了解される個人の表現を、新たな了解の地平に、そこにおける媒介者、壁に描こうとしたメアリー・バーンズの描画に対してのレインの言葉「それは気違いの沙汰ではない」
(わからない。わからない。全くわからない。こうやっていきたいとか全くわからない。わからない。わからない)
「愛の精神医学は40代くらいに書かれた本なんで、もう時代は全然違うんですね、あの時のものがそのまま今通じる訳ではないのと、私は野口とは違うので私の治療スタンスとかがあるので、もしかしたら酒井さんがご希望されているようなその、反精神医学をベースにしたようなね、治療にはならない可能性がありますね」
「潮流も流れていない感じですか」
「潮流はドクターが今変わって、私が院長で組織というのはトップが変わると、色が変わることがありますので、野口先生のものをそのまま受け継いでいる訳ではない。治療をしてきた変遷があるので、それを皆さんに提供して行こうとは思っています。まあ時代がやはり違って、昔の反精神医学というのはイタリアは精神病院全部潰した訳ですよね、その代わりにサポートできる施設を作っていく訳ですよ。ただ、それはそういう風に社会が動いたんですね。日本はまるっきりそういう動きはない訳ですからその中でやろうとしたらどうしても弊害が出てきます」
………
「今回来てみてその印象を考えてもらって、向こうの先生と話し合ってもらうのもいいと思いますので」
「どういう先どういった治療を」
「こちらでできる治療は、住んでいる地域を連携できる訳ではないので、やれることとしてはお困りごとを聞いてそれに対してお薬を少し調整していく、ここでできることと言うのはそういうことになります」
「カウンセリングとかは希望すればできるものなんですかね」
「カウンセリングは上の階でやってはいるんですけど、カウンセラーと相談した上で、カウンセリングが役に立つんだったら、導入することはできます。ただカウンセリングって言うのはすぐよくなるものじゃないからね、カウンセリングをして逆に刺激になっちゃったり、帰れなかったりする場合があるんで、そのなった場合、この距離から帰れるか、その心配があります、落ち着かなくなってしまう場合がある、そしてこの距離はすごく問題だと思います、この距離でカウンセリングするのは適切ではない、住んでいる地域の近くでやるということ、また向こうの先生と少し相談をして限界がある中でも、そんな長い時間取れないんですけど、その中でお薬を調整していくっていうやり方でよければ…云々」
どこも同じだ。薬剤の処方箋を際限もなく増殖させていくだけの外来病院、反精神医学の著書の翻訳をされた野口さんが開設した病院でもやってることはほぼ変わらない。器質的な身体に対してはただ薬を。社会的な身体に関しては、就労移行支援、デイケアなど。しかし、僕は向いていないと思う。市内のメンタルクリニックにもデイケアは向いていないと言われたことがある。
僕はもう川崎にある野口クリニックには行かないだろう。
なんらかの実現に備えて言語は言表を準備するが、僕は石のように絶望的手段を取り、一言も家族と話さなかった。もはや何も実現しない。元いた病院にまたどんな意味作用があるのかわからぬまま、薬を飲まされ続けるだけだ。
クーパーは言う。「スケープゴートになったものは家族機構の患者と化す」継続する猛暑の中、父親と歩く。何か言いたいことがあったら、口を開いたらどうだ。社会機構の形態を措定し、イタリアのバザリアみたいに一日一日、施設のメカニズムを破壊していったら僕は患者ではなくなるのか。