2020.09.01
9月1日という子供の最多の自殺という統計、9月に地獄の辺土に落とされた一番脆弱で過敏な時期に当たる危機的状況である子供たち、(僕の場合は12歳であったはずである)ボルノーは「生の非連続的形式」という受苦的な経験は、新しく再生し、湧出する可能性であり、局地的移動の内面的形相による殺人主犯はトレンドである令和ちゃんは、悪魔的な霊的本質を授かることにより、四大元素を超越するフィクショナルキャラクターであるモノローグという権力的思考を持ってしてやがては踏み越え、狂気的にサトゥルヌスのようにまだ産まれてもいない子供を喰らい、トビアスへの手紙は燃え尽きて灰になり、灰に階級制度はないから、それは不可解さと不気味さは、サイコアクティブのような形而下的で、魔術的な陶酔による脱魂は、サミュエル・ベケットのように役者と観客「間に起こるもの」が演劇であるとするならば、教師を存在論的に問う、つまりは、それがなければ教師とは呼べないものの生体解剖、偶然性(アドリブ)に委ねられてはならないと、規則を細分化する。子供たちの動物の生命の存続を形作り、その感覚と運動は首を吊る陰画は、教育技術という教師という役割に犯された子供たちははちきれんばかりに、自己破壊的螺旋形において、危殆の再現、新奇さへの統合の絶え間ない更新の怒鳴る道化。必要かつ十分な情報の横溢における空ろなパロール。それを逆回転させるかのようなワット。時間厳守と勤勉のエートスが、内面化された生徒は多数の死体のままそれにふさわしい髪形服装で通学し多数の死体のまま。ししし死体。幼児語で「うんち」。子供たちの想像次元の「現実」は痛切な世界は劇場だ!「うんち」を皿に乗せて登校する生徒は教師という「関係」の織物により、社会的権力構成体により、差別される。このやろう。俺は今からやってやる。エントロピーの無限による熱死するやがては。義務を遂行するためだけになった粗野な体気により殺された想像力、そうだ、「想像力は死んだ、想像せよ!」踊れ!抑揚!リズム!表情!仕草!専制を払い除けろ!「踊れ!くそったれ!」…「これっきりですか?」……
ポッツォ「もっとだ!」