闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.12.13

最近、ロラン・バルトの「テクストの楽しみ」を読了する。衝撃を受けた。僕たちの母校であり、出自。絶望のどん底に到達し、歓喜が躍動するように。ジャン・クリストフにあるように、「この力の陶酔を、この生きることのできる喜悦を、自分のうちにーーたとい不幸のどん底にあろうとも、ーーまったく感じない者は芸術家ではない。それは試金石である(二)41p」

そうはいってもバルトのテクストの楽しみは芸術家に向けて書かれたものではない。有名な作者の死という文句は出てきて、それは一応「作者の人格はもはや自分の作品に法外な父権を行使しない」とされる。ゆえにフラットな状態でのテクスト。バルトは、テクストのテクストたる由縁である無碍の広量さを讃えている。つまり、バルトはさらに言う。「イデオロギーの嫌疑と戦わなくてはならない」どんな柵にも繋縛されないテクスト。確かに、若干のイデオロギー、若干の表象、若干の主題を必要とすると言っているように若干は必要かもしれないが、そのたとえ階層があったとしても、イデオロギーを他のイデオロギーより選り好みするわけではないのである。テクストは命名を解体するのだ。もし権利があるとするならば、テクストの分離に向けられた権利である。テクストの触媒作用による権利からの分離。それ以外の権利はない。テクストを書く人。それは自由である。気分や、習慣や、機会に応じて剥離してしまう、テクストそのものの完全性のようなものがある。テクストそのものをハイジャックすることはできない。有名な言葉、テクストが意味するのは織物である。そのテクストの楽しみとはニュートラルである。「シニフィアンの豪勢な位相にまで昇り詰めた価値」僕も以前ブログの記事に書いた。最初のシニフィアン、音の連なりだけのがいい。と、シニフィエ(意味内容)はいらない。そんなことを書いた気がする。それをこの本は説明してくれた。楽しみは人格的なものではない。個人的なものである。人格以前のもの。人格とは「あるべし」という命令系統の成れの果て。誰でも個人であり、実在である。しかし我々は人格同士のコミュニケーションをする。誰もが他者に受容された側面を用いて便宜的にコミュニケーショを図る。しかし、本来は人格以前の実在である。テクストの楽しみとは実在的なものである。コミュニケーションではなく、コミュニオン(親交)である。

 

「個人言語にライバルはいない」

 

これが最も影響を受けた言葉である。テクストという個人言語。言語そのもの。近傍である「ここ」でも、理想的な「向こう」でもない。二つの世界があるわけではない。天国、浄土、エデンの園、ユートピア、アルカディア、エルドラド、シャンバラのような理想郷があるわけではない。そして「ここ」もない。テクストは、一所不在である。いつでもあなたの偏在性に委ねられている。いかなる論述も受け付けない。「私が私自身の中で語る言語は私の時代のものではない」

 

という話でした。僕は自分自身がテクストしかないと思っている。ジャンケレヴィッチは、「音楽とは、呈示すること自体がその唯一の真実、真剣な真実である」と言っている。そして「音楽は、そのあるがままのもの以外には意味しない」のだ。観念論じみた教化の説教のような音楽はもはやない。そしてバルトがテクストを音楽と捉えているかどうかは厳密には知らないが、僕はテクストを音楽だと思っている。「概念とは、ひとつのリトルネロ、番号をもったひとつの音楽作品」と言われるように、哲学も文学も、何もかもが音楽のようであればいいと思う。全ては心理学的現象であり、美的-感性的である。だから音楽がなければ人生は誤謬であると言ったニーチェは発狂した。だからではないかもしれないが、心理主義は評判が良くないとかいう科学哲学者がいくら言おうとも、全ては心理主義のような誤謬であり、音楽だ。

だが、ガタリのような技術体系としてのエコロジーは、テクノロジーを介して自然を見つめ、生き直すような実践の論理であるが、そこにおいては自然もまた複雑な機械であり、機械状のエコロジーである。

しかしバルトの本を読んでいると、ガタリが扱うような、機械という感じがしない。他なるものに対して開かれて生成し合う抽象機械というような感じがしない。けれど言いたいことは、異質なふたつなものが機械状にダイナミックに組み替えあえながら、主体感の生産をする。異質性を孕んだ系統発生の繰り返し。そのようなテクストなんだと思う。けど、バルトにとってのテクストは物自体のように、強固である印象を受けた。ガタリがウリとやっていた制度論的精神療法、あれはグリッドやグリーユと呼称される格子をあえて作ることで関係性を流動的なものにして外部との新たな領土ができるというものだ。そこには文化や文脈を移動すると、あらゆるモノは一旦壊れる。というような文句に信を置くというような。

しかしバルトの言うテクストは、ラディカルに、不可能なもの、象徴界から排出された現実界レベルのことを言っているような気がしてならない。ラカン入門(ちくま学芸文庫)によれば、精神病者においては患者は享楽の場、つまり不可能な場にいると言われており、だから苦しむと言われている。そう、標識がないのである。精神病は防柵が欠如しており、耐え難い苦しみを生む。そしてバルトのテクストの楽しみは標識も防柵も何もない。もはや、享楽(Jouissance)の場としてのテクスト。立ち入り禁止の標識はテクストにおいては取り払われている。テクストというか、バルトのいうテクストにおいては。だから苦しみを伴うかもしれない。しかし、我々は苦しくてもテクストが好きだし、テクストにしか望みはない。僕はそうだ。全てはテクストだ。衝動的な偶発時においてテクストというメロディーの死物に出会うのだ。嫌疑と戦おう。発狂してもいい。あらゆる解釈格子を吹き飛ばそう。権力構成体から逃れよう。顔貌性から、支配的イデオロギーから。非社会的性質であるテクストを信奉しよう。そう、個人言語においてライバルはいない!テクストにおいては我々は完全に自由だ!

 

今日僕は起きたら、辞書編纂法による人為構造のような文句と共に挙げられていた、ロブ=グリエの本、手元にあった「迷路のなかで」を読み始める。その前に風呂に入り、風呂場で尿を放出する。僕は衝撃を受けた。血尿が、放出してわかるように出てきた。それも痛みを伴って。正常の尿ではない。鮮明な赤。深紅の血が混じっている。自由が効かない尿だ。自由が効かない。うめき声を漏らしそうになった。僕は酒を手に掴み持ってくる。いつもと同じ、ルーティーン。生身の身体である側面を失いはしない、そういつだって。カオスへと風化していく生身の身体。怖かったし、今も怖い。文章が打ててるのが不思議なくらいだ。「肉感的に生み出される限りにおいての意味である」とバルトは言うが、肉感など触感覚的な痛みに足元を攫われれば用をなさない。そうだ、僕はこの触感覚的な痛みだけを恐れている。前のブログにも書いたように、僕が恐れているのは、不安なのは、精神的な痛みではない。

僕はこれが放心の場なのか、いや、確実にそうではない。肉体的な不具合における放心の場はテクストの楽しみではない。悍ましさを抱えながら、「迷路のなかで」をめくる。「ほどなく兵士は、まっこうからぶつかってくるこまかい結晶体のために目がくらみ」という文句の結晶体が結石に変換される。「どの街路とも変わらない街路上だ」の文句の街路が尿路に変換される。「街路の左右を見、ドアを見る」の文句の街路がの尿路に。「街路は細長くて」→「尿路は細長くて」「赤い液体の輪」→「血尿」

 

「本は意味を生み出し、意味は人生を生み出す。テクストの楽しみ 74p」

 

「きみは負傷しているのかね?」と、ようやくその男がたずねる。

兵士は、首をふって、そうではないということを示す。

「病気かね?」

「はい、尿路結石です」

 

2023.12.01

僕は人に会いたくなかった。嫌人症がでた。布団の中でとにかく呻吟した。他人というのはよく映る鏡であり、偶然それを拾ってしまってそこに映った顔こそが自分であり、それは透明とは真逆であり、僕の望みとしては物を透して向こうの物が見えることなのだが。透明の対義語は混濁でもない。透明の対義語は獣だ。メディアの発達とは、人間は天使ではないということである。メディアに自分を投入する。言葉というのは心の内で懐胎されたものの受肉された姿。その言葉という記号を用いるのは肉体という覆いを持っているからである。天使から断絶している自分の確認、Xでポストすること。バルトのテクストの楽しみはまだ読んだことないが、テクストの楽しみとはテクストとセックスすることなのだろうか。露出狂的な他者の目線に依存するセックスは大文字の他者に言及する行為。しかし、まだ僕はセックスを一度も経験したことはない。正真正銘の童貞である。

僕は哲学病で、私的自己意識にばかり目が入っているのか、公的自己意識は雑な気持ちであるが、人に会うということは、公的自己意識を考えなくてはならなくなる。毎秒、公的自己意識を考えなくてならないのが苦痛である。普段酒を飲んで、私的自己意識に陶酔していればよかったのに。

電車で新宿へ向かう。重い目で。酒を飲み。

 

この世で人類が志向している目的というものはすべて、この達成への絶えざるプロセスにのみある。言い換えれば生そのものの中にあるのであって、目的自体の中にはないかもしれない。」
(『地下室の手記』、光文社古典新訳文庫安岡治子訳、2007年、p.68)

 

この文言こそ僕が完全に信じ切るところのものである。そうだ、絶えざるプロセスが楽しいのであって、そのプロセスに遊泳している時が楽しいのだ。プロセスの遊泳!目的自体を達成してしまってはつまらない。その目的自体を達成、たとえば人に会うということ、それは数時間後になされる。そして制度的企画に従うように昼食を食べ映画館に行き、映画を見る。それを考えたらもう何も面白くない。目的自体が数時間後。何を発見するかわからないまま哲学的思考に耽って、酒を飲んで私的自己意識を充足している時が楽しいのだ。意識の麻酔状態だけしか僕は望まないのだ。他者、他者とは自分の顔が見えるということの地獄図なのだから。僕が自分の心的外傷体験を元にした小説、地獄の辺土を執筆しようとしていたとき、2007年に設定した12歳の少年を、僕の無実だと思いたい過去、無垢なころの本来の体癖に従って生きているだけの少年が、教育機関に断罪されるとき、それを執筆しようとしても苦しすぎてできなかったのは、少年という天使。その天使への憧憬。その憧憬に筆を走らせる。無垢な頃の証明。誇示。そんなことをしている自分、天使を模倣しようとすれば獣になってしまうという。そう、執筆することは自分が絶えず獣であることと認識することだった。だから難航した。トーマス・ベルンハルトの消去という小説を読んだことないが、どんな感じなのだろうか。身体を消去しようとすること、天使に憧れること。

 

人に会い、映画館に行く。3回目のゴジラ-1.0だ。ゴジラロードを通り、映画館に入る。IMAXで見る。どれくらいすごいのかわからないが、とにかく重低音がすごかった。胎内音に周波数が近いのか、眠くなってしまった。小笠原諸島で木造の船を襲うゴジラ。海の中を自由に遊泳するゴジラ。銀座で地面に大穴を空ける穿孔的なゴジラ。海中の遊泳と地中の穿孔。淫欲という再生願望、交接という母体回帰。ゴジラは海中から地中に上がってくる。大地、母体から芽が萌出るという再生の軌道?ああ、眠くなってきた。実際、僕は何回も寝かけた。羊水にプカプカ浮かんでいるようだ。

映画が終わり、「羊水にプカプカ浮かんでるようだった」と言うと、「気持ち悪い」と長いエスカレーターを降りている時に言われる。

それから一緒に映画をみた人は帰るらしかった。丁度昨日、ディスコードの会議で出会った女の人と17時に待ち合わせをしていたのだが、映画が終わって17時ぐらいに東口で待ち合わせの予定だった。しかし、その人から連絡がこない。その人もいるなら一緒に少し飲むか、ということだったのだが、会う約束をしていたその22歳の女の子は結局寝ていたとのことで、今日は来れないということだった。

僕は一人になる。疲れていたしここで帰るのもいいけれど、なんか物足りなさがあった。飲み屋で酒が飲めていないじゃないか。せっかくレモンサワー50円とかハイボール100円とかの店があるのに。僕は一緒に映画をみた人を駅まで送っていったら、特に何の目的もなく、新宿の街の方に向かう。トー横を見てみようと思い、そこへ向かう。場所を取った二組が集団で酒を飲んだりする。ストゼロの林檎ダブルがある。俺がいつも飲んでるやつだ。一瞥するだけで、僕は路地沿いを歩いた。その路地の人が話しかけてきた。「今デリヘルがおすすめなんですけど。1000円単位で…云々」しかし僕は気にせず路地沿いを歩いた。この歌舞伎町の。どこかの飲食店に入ろうとも思い至らなかった。ただ盲目に歩いた。会おうとしていた人が来なかったという暗い顔だった。会おうと思っていたのに。昨日通話で「朝まで酒飲んでくれますか?」と言っていたのは何だったのだろう。可能性が消尽されてどこにも定位できず歩いている。「楽しみだな」とか言っていたのは何だったんだろう。好きな店はメロンボールだと言うから、メロンボールを飲める店どこかあるかなと言ったら「大丈夫ですよ。別に違うの飲むので」と言っていた。誰かと酒飲めると期待していた分、消化不良だった。僕はなんかまた引き返してさっきのキャッチ、デリヘルを勧めてきたキャッチにもう一回自分から話を聞いてみようとした。歩いていった。代理的に解消されたかったのか。とにかく機械的に歩いていった。すると、さっきとは別の人が拳を突き出してきて、僕はその人に拳を突き出してなんかのコミュニケーションを取った。「これやってくれる人なかなか少ないんですよ〜」とその男性は言う。僕はかすかに笑う。相手はキャッチという形式における意識の内容をただ僕にぶつけてくる。「どこから来たんですか?」たまたま地元が一緒であり、その符合に喜んだのかその地元にちなんだトークをしてくる。それこそ風俗の。風俗がメインの会話。「せっかく歌舞伎町来たのなら遊んでいきましょうよ」とその人は言う。僕は物質的恍惚におけるル・クレジオの言葉を思い出す。「ぼくは変装している。ぼくはぼくのうちにある一本の神経の中にそれらを宿している。来た 来た。拡がりがやって来た」

変装しているのだから、いいか。僕は変装しているのだ、と思うに至った。予算の旨の話をされ、一万円くらいですかねと言うと、ピンサロは五千円、ヘルスなら八千円くらいでいけるといわれ、一万円なら予算で何とかやってあげるよと言われ、僕は、なんか、いつものようにこれから帰るよりも、もう最期を待つ人のような気分だし、変装しているのだし誰かに、ならばいいか、と思った。拡がりがやって来た。これも拡がりなんだ。そして僕はその男性について行った。ああ、なんてこれ地下室の手記なんだ、と思った。地下室の手記の主人公のネクラーソフも抑え難い激情、その消化不良の心を持って、風俗に行っていたな、と思った。地下室の手記だぞ…地下室の手記的な展開だ…と思った。路地沿いを少し歩いたところにレンタルルームがあった。そこに入った。

入るなりもうすぐに「一万円もらっていい?」とその男性は言う。それが冷酷な感じで、さっきの親しんでくれた人とは豹変するかのように感じられた。「前金で一万円ですね。六十分コース。ホテル代と払っちゃうからさ」僕はそこで一万円を払う。レンタルルームは狭く、入って正面には自動販売機がある。その男性は「これでジュースでも飲みな」となぜか500円玉を渡してくる。「優しいですね」「いやいや、その地元に人間優しいだろ」

僕はシャワールームがある一室に入る。「女の子すぐ来るから部屋で待ってて」扉が閉められ、僕は、落ち着かなかった。とにかく帰りたい、嫌な気持ちが喉元までせり上がってきた。「グノーシスが性的世界観である以上、性的欲望・性的快楽にはこだらわなければいけない事情がある」というような文言を思い出し、俺はグノーシス主義者だ、なんて考え安心しようとした。自分の存在を呪い、世界を呪っているんだ。天使になれないから、呪詛しているんだ。物を透して向こうの物が見える透明になりたい、消えてしまいたいと思った。僕は待たされた。空間の束縛を人々は逃れられない。

やがて女の子が部屋に入ってくる。「失礼します。お願いします。はじめまして」「初めまして」「先にお風呂で、シャワーで身体洗ってもらうんですけど。脱いでもらって大丈夫なんで」僕は、それに従い、服を脱ごうとするが初めて女の人の前に服を脱ぐので緊張したが、衣服を順次下ろしていく。「いいよ。脱いじゃって」「あ、はい」「お兄さん今日はお休み?」「あ、はい」僕が高円寺のエキゾチックな店で5000円で買ったサイケな服を見ながら、「なんか民族っぽい感じの服だね。こ、こういう感じが好き?」「あ、はい」「そっかそっか」服を全部脱ぎ終わる前にシャワー室に入る前にお手洗いにその人が行くというので、全裸になりシャワーを浴びる。不思議と緊張はしなかった。なぜか。タブー、見えるものと見えないものの往還。なんか楽しいぞ、と思った。シャワーで体を洗い、パンツだけは履いて待ってようと思ったが、見えないものが見えるものになっていた。女性は戻って来ており、小さい局部を見られないような姿勢を取った。そこでも女性は「何時位にきたの新宿?」と言葉を浴びせかける。緊張しないようにしているのか。言葉という人間の環境と経験の全体に高速度で及ぶものと、今の状況に混乱するというよりは、なんか初めてのことに人知れず愉悦した。なんか楽しかった。意志を持たない自動機械なのか。受動的って、なんかいい。委ねるだけ。テンポ、抑揚、メロディー、響き、リズム。意味作用とは離れて、なんか言葉も用いず、ただ受動的に委ねるだけ。認識としての行為の主体である自我がない。能動的かつ創造的に行為を遂行する主体としての自我がない。これが神への明け渡しであるバクティ・ヨーガなのか。自我がない。非人称的欲求が世界の中で実現する。幼児期の感性的快の世界に退行する。

「じゃあ仰向けで寝て」

僕は全裸でベッドに仰向けになった。小さな苞。

僕はローションをつけられて触られる。子午線を太陽が通過する。喜びを持って帰宅する皆々様のように僕は触れられる。喜びと快活さを持って、帰路につくあのときのように僕はうっとりする。そこでも話しかけてくる。話しかけられる。それに受け応えながら触られている。中心から抹消部、また抹消部から中心へという活動において有機体の緊張力を生み出す器具としての魂というもの。最近読んだ裸のランチの快楽が緊張状態からの解放、そして麻薬中毒者は羞恥心を感じない。僕も不思議と羞恥心がなかった。形而下的な手段で作られた魔術的な陶酔。悪魔における脱魂。魂という緊張を生み出す器具はもう消えかかってはいたが、僕は緊張していた。

「性感系のデリヘルになるのね」とその女の人は説明してくる。「イメージ性感っていうジャンルなんだけどよくわかんないか初めてだとね、うん、性感って言うのは体全身でどこらへん感じるかなって性感帯探してくプレイになるのね。で、前立腺マッサージなんかもあるんだけど、そんな感じかな性感っていうのは。でうちの場合二つコースがあって、性感コースとイメージコースがあって、イメージコースだと女の子がコスプレして、ちょっと女の子の身体触ったりとか、攻める要素が多くなるような、そんな感じ」「お兄さん的には今日攻めたいとか攻められたいとかもわからんない?」「わかんないです」「女の子にあまり触られたことないかなじゃあ、こういう感じもない?」「ないです」「じゃあめっちゃ貴重じゃん今日、ね、色々遊ばないとね」

コースをどちらにするかという指針が示される。そしてコースによってお値段が違う旨を告げられる。値段、さっきの一万円で平気だったのではないか。狼狽し、一万円で足りるんじゃと言うと、しごかれながら、コースのこと何も聞いてない?あれ?と言うような反応をされる。「だいたいデリヘルって、性感系のデリヘルって、さんごーぐらいはかかっちゃうのね。そのこと言われてないんじゃ、困っちゃうよねお兄さんもね。フリーのキャッチって同じ会社の人じゃないから、細かいシステムを説明してくれたりしなかったりするんだけど、一応性感だと25,000円。イメージだともうちょっと高いんだけど、うーん、ちょっと用意してないのかなそのお金は」

僕はさっき支払った一万円と、今財布に入っている五千円しかなかった。「終わってからATMとかって行けたりする?」と言われるも、残金はなかったし、僕はどうしても払えないですと告げた。しごかれながら。しごかれてるから、半分上の空だった。

「うーん。どうしようかな。ちょっと始めちゃってるから、でも言われてないんだもんね。とりあえず財布確認しようもう一回」と言われ、行為を中断し、起き上がり、財布を確認する。五千円しかない。執拗にATMがないかと聞いてくる。しかし僕はないと言った。だから時間を短縮して、五千円でサービスということだった。訳がわからなかったけど、僕は続きをして欲しかった。五千円だからフェザータッチとか簡単なことしかできないけど、と言われつつ、行為を継続した。くすぐったい場所をたくさん触られる。乳首だの。身体が完全に屈する。「お兄さんたまは感じる人?」「あ、はい」

「ちょっと初回のお客様でお試しのサービスっていうのがあるからちょっとやってみてもいい?」と聞かれたが、聴きながら無視できるアンビエントのように受け答えした。「お兄さん自分では週にどれくらいするの?」「週4回とかですかね」「今日は溜まってる方?」「はい」「そっか、そっか、じゃあいっぱい出るかな」

すると、相手はスカートを捲し上げて、急に騎乗位になり、「ちょっと手危ないかも、おてて危ないよお兄さん」僕は満員電車で痴漢にならないようにビジネスバッグを抱えている人のような手を退ける。なんのことか分からなかったが、挿入を伴う。今までに体感したことのない不思議な感触だった。「これはどう気持ちい?」と動きを加えられ言われる。「気持ちいです」「とりあえずお試しだから、初回のお試しでこれだけになっちゃうけど、本当はお金とかあれば裏オプションでこんなことができる」と言われた。それは瞬間で終わった。なんか二重の実存があることを意識する。強制された受難のような感じだった。無垢が大きければ大きほど悲哀は深い。無垢。無垢を讃えたい。僕は、物を透して向こうの物が見えるような透明さ、アンゲロー。無垢という2007年の12歳の僕という羈絆はその行為を嫌悪した。私は1995年に生まれた。1989年に昭和天皇のほう崩御により年号が平成に変わる。同年にベルリンの壁が崩壊し、1990年前後に冷戦が終わる。リベラル民主主義の資本主義国家、アメリカ一国を超大国としたグローバル化の大波が世界を席巻する。僕が生まれた約一ヶ月後に、地下鉄サリン事件があった。なぜ、オウム真理教のようなもの生まれたのか。1995年にポストモダンを提唱したフランスの哲学者のリオタールは、20世紀末期の世界は、これまで以上に、システムに支配されていると述べた。すなわち、システムから逃れようとしたり、システムを変えようとしたりする努力・意思そのものが、すでにシステムによって予測されているし、その中に組み込ませれている。高度経済成長の終焉とともに、理想の時代が終わり、その後は、バブル経済期(1986〜1991)であり、ポップ感覚、ポストモダンが叫ばれた。消費欲望が膨らみ続け、生活全体が、過剰なモードで彩られていく時代だった。1980年代の末から1990年代の前半にかけて、少年・若者たちをめぐる社会情況は変わり始めた。バブル経済の崩壊、天安門事件湾岸戦争ソ連崩壊などの世界の大事件を背景にしながら、ポップ感覚に馴染めなかった若者たちが、内向的な奇妙な生態を見せるようになった。陰湿ないじめが広がり、現世離脱志向のカルト教団がいくつも登場した。ポストモダン化した1980年代の社会の中で「本当の自分」あるいは「本当の社会」を追い求める若者がカルト系の新教宗教にはまり、1990年代半ばに犯罪事件となって表面化し社会的に認知されたとも考えられる。オウム真理教小乗仏教系の教養や修行を都合よく解釈しながら、現実的な身体改造や社会改造を目指し、再び独自の「大きな物語」を創造(妄想)して「真の自己」「真の社会」を実現しようとした。1990年代からの年長者・知識人・施政者の権威喪失、子供の変容の背後に見えるものは、機能的秩序が社会全体に蔓延していくという情況である。2001年9月11日に同時多発テロ事件。アメリカが自国の防衛のためにゼロ・トレランス方式の実力行使でテロ撲滅を目指すようになり、予防的な措置として先制攻撃による戦争も正当化するようになった。この事件を機に国内の監視体制を強化すると共に、テロとの戦争という疑いをかけて2003年3月20日に予防措置でイラク戦争を起こした。国際的テロを取り締まるために、アメリカが独自の判断で単独行動主義により「世界の警察」として振る舞うようになった。新保守主義の勢力が強硬路線を取るようになり、アメリカ国民や同盟国からの支持も取り付け、テロとの戦争が可能になった。戦争とは、国家レベル国家レベルでの対立から起こる戦争。冷戦後のポストモダン時代における国際協調体制の下では、世界規模の大戦はもう起こらないだろうと想定される。が、9.11以後、テロの疑いさえあればアメリカはいつでも予防措置として先制攻撃による戦争を起こせるようになった。1990年代以降、ベックのいう「危険社会」が現実化し、危機管理を絶対的に要望する気運が一気に高まっていく。特に、「了解不能な他者」との衝突については、個々人の自由や多様な価値観を寛容に認め合うだけでは対応しきれず、やはり事前に事件・事故の危険を予想した上で万全の予防策をゼロ・トレランス方式で採る必要があると認識され、何よりも安全・安心を優先する方策が喫緊の課題となっていった。日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である。産業構造の転換、農家を中心とした自営業社会から、企業等に勤めるサラリーマン社会へ。国民総生産も1979年には、二位。経済的余裕(ゆとり)を基盤にして、スキゾ・キッズは従来の「大きな物語」から離脱して、自分らしさや自己実現をじっくり追求し続けることができたのである。モラトリアムの誕生。80年代、大量生産から、個人の多様な好みに合わせた消費中心の社会への移行。パラノ・キッズとは、閉塞したエディプス環境に永住することを疑わなかったが、スキゾ・キッズはそうした環境に息苦しさや生きづらさを感じ、逸脱・逃走しようと考えるようになる。スキゾ・キッズが誕生する上で重要な役割を果たしたのは、親や教師の存在である。スキゾ・キッズの親や教師の世代は、戦前や戦中の封建的社会を知りつつも、それに対抗して戦後民主主義の社会を築くために懸命に働いてきた世代であり、スキゾ・キッズはこうした親や教師によって最初から自由で民主的な教育環境下で育てられた世代であるため、それ以前の世代と比べると「父親の審級」によって自己中心的な万能感を除去される経験を得てこなかったと言える。ナチュラル・キッズからパラノ・キッズへの生成変化するための統制的管理教育を十分に受けてこなかった。スキゾ・キッズの性向は、人文学的に見て、精神分裂病と関連している。精神分裂病の原因として考えられるのは、ダブルバインドである。

 

飯泉新が、この土地にやってきたのは、5歳の時だった。明日、幼稚園に願書を出さなくてはならぬという時だった。この土地は、母の実家がある場所で、父が、不整脈で体調を崩し、自営業で大工をやるようになってから、こちらで仕事がしたいということになって、この場所に来た。それまでは横浜市の瀬谷という場所に住んでいた。新の両親であるかなえと正和は、日本創造教育研究所というセミナーで出会い、かなえが30、正和が28の時に結婚した。
瀬谷というのは、正和の実家のある場所だった。かなえの父と母は83歳、78歳と、かなりの高齢であり、正和たちが横浜の方にいては、誰も見るものがいなくなり、心配だったのと、その時、正和の父の延之が、毎晩酒で呑んだくれていたので、ぶっ倒れるまでに暴食し、喧嘩をして殴り倒され、しかも翌日になると、いつもの調子になって陽気に騒ぎ立て、周囲のものもみんなと同じように快活になることを求めていた。身を持ち崩していた。少し距離を置きたかったということもあり、こちらに引っ越してきた。初めは、知らない場所に、わんわん泣きわめいた。外塚森一は、脊髄カリエスを患い、腰が曲がっていた。かなえは天然でおっとりとした性格で、とげとげしいとことがなかった。

栃木県の南部にあるこの町は、春になると、この街の特有の桜を咲かせた。ソメイヨシノと八重桜の中間の時期に咲いて、淡淡と美しかった。新の家の近くには、堤防があり、そこにはずらりと桜の木が等間隔で立っていて、見事なまでの自然を行き交う人々に堪能させた。河川区域になっていて、そのすぐそばには小学校があった。徒歩2分ほどで着く距離だった。新しいランドセルを背負った人々が、革の匂いをさせながら、その堤防を、歩くのだった。新もこの小学校に通った。桜は豪華絢爛に咲き乱れた。12歳。中学校入学の時であった。堤防には、桜が豪華絢爛に咲き乱れている。そこを歩いていく通う小学生だったはずの。脱皮したような、少しよく分からない、中学の通学路をこれから歩くことになると思うと、少しばかり緊張したし、あまり愉快ではなかった。新の家は、二階建てで、一階が八畳の和室の部屋が二つあり、それぞれ新の母のかなえの叔父と叔母にあたる、森一とミヨの部屋の寝室になっていた。ご飯は、いつも二階に運んできて食べる。二階の部屋も部屋と、寝室に分かれていた。部屋は六畳で、ソファーがあり、テーブルが真ん中にあり、ブラウン管のテレビと、今日もソファーに座ってテレビを見ながら、納豆ご飯と、野菜炒めと、豆腐とわかめの味噌汁と、キウイ、ブルーベリーハーバーを食べる。朝は大体せわしない。「食べ終わった?」下の洗面台にいる母のかなえが言った。「うん」かなえと一緒に仕立て屋であつらえた真っ黒の制服を着た新は、未知の空間に身を投じる時の緊張を感じた。そして、どことなく嫌な感じを覚えた。制服を毎日着るというのが、もはや今までにはないことであった。小学校の時は私服で登校が許されていたので、幾分軽かった。しかし、これから通う中学校では、なにもかも定められていた。 説明会の時も長々と、靴下は白でなくてはならないとか、髪の毛は長くてはならないとか、ヘルメットは絶対にかぶるとか。中学校は、新の家からは、自転車で15分ほどの距離で、県道を左に折れ、しばらく進んで、国道に出てそこをまた左に行くとあった。西には、新の家の近くにある川が流れていた。通学区域が決まっていたので、その通りにいかなければならなかった。坂を下りる。桜の木が植えてあり、菜の花があった。もう校舎には人がたくさん来ていた。微妙な緊張を感じた。
 「お、よお」小学の友である、原田が話しかけてきた。小学のほとんどの人は、この学校に入学した。クラスのリーダー的な存在で、よく、目立っていた、綾瀬という人は、私立に行った。綾瀬とは、綾瀬を取り巻きに、200回くらいは、遊んだ。広場で決闘をしたり、神社で水風船をしたり、エアガン、テレビゲーム。仕切ることが多く、綾瀬を喜ばせることが、一種の充実感をもたらす。この人間にだけは嫌われたくない。この人間に嫌われてしまえば、全てが悪くなるとえるような存在であった。かつての頃、綾瀬と喧嘩した人を、絵を破り捨てたことがあった。その時、そいつに気に入られることが安心感であった。安西卓と仲が良かった。
 「綾瀬がいないとおかしな気する?」と聞いてきた。
 「うん、なんか…」
 「マジでー。俺全然なんだけど」
 実際、綾瀬とはもう会う機会が全くなくて、遊ぶことももうなかった。内部のものとして、意識するだけの人物であった。しかしながらそれが形を変えて現れるということにまだ、気づいてはなかった。人生には、出会い、衝撃を受けた人間をまた無意識的にまた求めてしまうことがある。反復するということだ。ツインテールの清楚なかわいい女の子を目にして、どきりとした。目はぱっちり大きく、アヒル口をしながら母親と歩いていた。こんなアイドルみたいな可愛い人がいるのかと若干高揚が起こったのであった。ここ最近、寝室では寝ず、部屋のソファーで一人で寝るようになっていた。深夜起きている時は、つまり寝室に行ってないと、起きていると思われるし、だったら部屋で寝ることにすればそれがわからないだろうと思ったのと、もう、家族四人で寝たくなかったからだ。だから必ず朝になると、部屋に入ってくる。新が寝ているソファーの端に尻を乗せて、ご飯を食べている時もある。学年主任の挨拶。「学年主任の奥島です。本日はお子様のご入学、誠におめでとうございます。ただいま、多くの保護者の方々の参列を賜り、無事に入学式を終えることが出来ましたことを感謝しております。学年を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。」教室には、「個性を大切に」という大書されていた。教室で「飯泉、今日遊べる?成瀬の家行こうよ。犬が精子出すとこ見れるぜ」小学校からの友人である川北が言う。新は、新しい環境でもう友達と慣れ親しんでいる川北を少し羨ましいと思った。どこか硬くなりながらも、こういう外的な要因がないと、行動できない性質であったので、それと同時に断ることができない性質でもあった。「あそぼーぜー」成瀬が言う。「うん。じゃあ行こうかな。 成瀬は、髪の毛はオールバックで、顔つきはシャープ、冷酷で驕慢な光を目から射出し、烏のように鋭い目をしていた。彼の話し方は、時より不機嫌なのかそうでないのかがわからなくなることがよくあった。成瀬の家は、学校からさほど離れてはなく、新築みたいに綺麗だった。近くに大型ショッピングモールがあった。稲葉善也が、ヘルメットをかぶらず、自転車できていた。小学校からの友達で、背が高くほっそりとしていて、頭頂部を、ワックスであげていた。目つきは垂れていて、何かに敵愾心を持っているように見えた。入学式から専横な振る舞いが、すでに話題になっていて、あいつ面白いよとなっていた。一組でクラスが違がったのだが、カロリーメイトを食っていた。ハイツに住んでおり、いつも独特の匂いがしていた。「食べる?」と言われ、一つもらった。この時から、カロリーメイトが好きになった。「お邪魔します」 NARUTOやワンピースなどの漫画が全巻置いてあった。でっぷりと太った成瀬の父が何やらパソコン台にあるデスクトップパソコンに向かいながら、RPGのゲームをしていた。会釈した。強面で恐ろしく感じられた。 自転車を緑地公園でぶっ壊す遊びをする。掃除当番の時など、階段の踊り場で、ゴミを吹き飛ばしたり、ワックスをつけたテカテカの頭をトイレで、確認したりしていた。
 「どう?」というと、「パイナップルみてえだな」と友達にからかわれた。ギャツビーで、トサカみたいに立てていた。男の先輩から「それ、かっこ悪いよー」と言われるほど、作為的だった。駅のマクドナルドの鏡で、髪の毛をいじっているのを見て、氷解した。そういうことをしてもいいんだなと思った。新も鏡で、自分の顔を平気で人の前で確認することをよくやるようになった。昇降口の前に、栄冠の池という池があった。

落ちることを周囲から期待され、中に入ると、ぬめり苔ですべって、ジャージが苔色になって汚れてしまった。周囲は、思わず噴き出し笑いをもらした。 「おい、ふざけんなよー!」 みんなの笑みが思い出される。なんという笑みか!笑いとは敵も味方も関係ない。笑いとはすべて等しく同じ笑いなのだ。ひょっとすると、一番、崇高な感情かもしれない。わたしは第一世界大戦で、クリスマスのとき、敵も味方も関係なくサッカーをして笑いあうという戦場のメリークリスマスというのを、いつぞやのテレビでみた。あなたはあなたの憎悪する。笑いが得られなかったときが一番悲しい。感興のおもむくままというのが。憎らしい首相も、笑顔を見ると思わず気を許してしまうように、そういう崇高なものなのだ。いいだろう、笑いって。最高だな。そう思った。相手を敵だと思うから笑えぬ。異質だと思うから笑えぬ。黒人と白人が笑う。そんな光景がわたしにはとても輝かしく思われる。新の頭の中には、一つの心象が存在していた。新を取り囲んで、新は笑いながらその人らと話している。それに震えた。だんだんと増していき、その熱情を抑え込むことはできなかったために、さらに苦しんだ。冷静に自分を見ることができない。いい印象を与えていた。それが、それこそが自分なのだという意識がずっと新の自我の根拠であった。「サバンナのおきてだ! サバンナのおきてだ!」「てめえ! 許さないぞ! 何としてでもお前を倒す!」新は過剰に全身を震わせながら、智史に向かって、突進していった。「なあ! なあ! おい! 謝れ! 今すぐ謝れ!」と言いながら身体をくすぐった。智史は笑い声をあげ、周囲の人も笑い声をあげた。「こうなったら…あれしかない。」といきなり智史の身体を腕で抱えると、ぐるぐる回り出し、その勢いで智史の身体を離した。すると、おもいっきり地面に智史の頭部が叩きつけられた。うずくまっていた。「おい、智史大丈夫か…?」周囲の人間が聞いた。「これやばそうだ・・・誰か先生呼んだほうがいい。怪我してる」 新は、倒れている智史に寄り添うと、遊びがこのような形で途切れたのを悔やむ気持ちと、心配と不安から、どうしたらいいかわからずにいた。「智史、ごめん。智史、ごめん」とだけ言っていた。やがて担任の塩田が来た。「おい、何をしてるんだ。智史、どうした?頭打ったのか?」「お前、後で事情説明しろ。とりあえず、このまま保健室行って応急措置するから、少し待っとけ。 新は、目の前がいきなり暗くなったような感じを覚えた。新は、学校で初めて新が保護者を呼ばれることになってしまった。「意外と強いんだね」と言う周りの声が、耳に入ってきた。「ただ、喧嘩をしているわけではなくてじゃれているだけで、そこから」新はうまく説明することができず、どうやったら相手にわかってもらえるかということを考えながら話した。「勢いがつきすぎて、転倒させてしまったんです」完全に自分に不利があるとわかりながらする事情説明ほど苦痛な時間はない。さらに相手がケガしているのであっては、また事が重くなる。自由であるはずの遊びが、自由を縛る罰に変わってしまったことをとても渋る。「新くんが、まあ遊んでいたみたいで、そこからこう突き飛ばしたみたいで、それで大きいたんこぶが」雨の中、傘をさしながら、かなえと二人で謝りに行った。新はこっぴどく怒られるのではないかという恐怖心から、距離を置きながら歩いた。「あ、この度は息子が怪我させてしまったみたいで、本当に申し訳ありません」と、差し出した。 智史は出てこなかったが、新も頭を深々と下げて謝った。雨の描写。ローソンに入った。「何か食べるか?」と聞いて、新は涙を流しそうになった。「デザート買ってもいい?」「買いな」「ありがとう」デザートをカゴに入れた。家に帰ると、正和がいて、「謝ってきたか?」と聞いたから「うん」といった。パソコンでホラーサイトを見たりするのが面白かった。古町と一緖に、六畳の畳みの上にパソコンを置いて、 「おい、殺されるってまじかよ。これまずいんじゃないか」一人ではスリリングな体験を楽しんでいた。チェーンメールなども流行して、「大丈夫じゃないか。外でなければ」とすこし怖がったように言うのだった。こういう体験もひとつのフレーバーとして、わたしの頭の中におさまっていた。 エロサイトを開いて、家に電話がかかってきた。「え、なにおまえ見たの?俺みてないから。死ぬのおまえだけだぞ」一人は消沈していた。俺はセックスマンだ。はははは!!!というのを古町が送ってきて、母親がそのメールを開封していたときの当惑の感情すらなかった。わたしはそれを台所で知ったのだった。つながりができる様を楽しんだ。男友達の亮太にある日、お前のお姉ちゃんのメルアド教えてよというと、教えてくれた。カラオケに行こうということになって。だんだん母親はその様子を見て、訝しんだ。新。おっぱい出して。いやらしいだのと言われた。いや、これは友達が。と弁明したとしても。家に電話がかかってきた。エッチな声を聞いたとかいう話をのちに母親からされた。「おい、飯泉やれよ」 「うそだろ」 「大丈夫だから。俺だってやったけどなんもなかったんだから」 「感電したらどうすんだよ」 「大丈夫だって」わたしは恐る恐るシャーペンの芯を奥に押し入れた。すると、火花が散った。痛みはまったくなかったが、手の甲に鋭い針金で引っ掻いたみたいな傷ができた。「おい、最悪なんだけど、みてこれ」わたしは誇張しながら言った。痛みはまったくなかったし、手に傷がついただけだったので、むしろよかった。周囲は、抱腹絶倒した。傷を見せたら、さらにげらげら笑った。「やば、おまえ大丈夫かよ。はははは」わたしは若干気持ちよかった。「うわー痛った。」その傷ができたことで、さらなる笑いがとれたことにわたしは喜んだ。いや、むしろその傷のおかげで笑いがとれたことに、感激したのである。それほどに、周囲の笑いをとることに、傾注していた。機嫌をとることに、それにすべてをかけていたのである。自分は周囲に注目されている。それが、わたしという人間を満たした。わたしはわたしの思うところの自分になれている。それは、お笑い者の自分である。それをわたしはいましてるのである。実存的にわたしは幸せだった。教室に戻ったあと、またもやわたしは、プラグにシャー芯を入れて、上履きで蹴った。すると、火花が飛び散り、金属の部分が焦げた。みんな爆笑した。あっはっはっはと、わたしも笑った。出席停止処分のことを告げた教師は、優しく教え諭すように言った。「飯泉、申し訳ないが、明日から学校には来ないで、少し家で待っていてな」教師は子供に対して、無意識にも不安を持っていた。というのも、それを隠そうとしながら、言葉を伝えた。 教師からの拒絶、学校からの拒絶と、従属的行動を示唆され、矛盾の要求に苦悩した。新はぐっと泣くのをこらえた。 教師に愛情や依存の感情を持ちつつも、(持っていない)苦痛や怒りや不信感を持つことになり、心が引き裂かれていった。いや、激しい憎悪の感情が新を襲った。もう、戻れないのか。戻れなかったらどうしようという焦燥に近い感情も起こり、凄まじい、心臓が痛くなった。何もかもが、外部によって決められ、動かされていくのを感じると同時に、自身の無力さに対して、自己憐憫が目覚めつつあった。両親もそれを承諾したが、納得できないという様子をしていた。学年主任、担任の先生、教頭先生、校長先生、複数の教師に囲まれる中で、おぞましいことだと意識しながらも、どうにか抗議してみたところで、たちまち不能になってしまうことが明らかだったからである。というよりかは、新にとってみれば明日から学校に行けなくなるということ以外詳しいことは何一つわからなかった。学校教育法の第4章の第35条にある出席停止処分という規定を適応されたことも、全く知らなかった。その純粋さから、ただ、教師の裁量で、多数決で、夾雑物を取り除くみたいに、排斥されたのだと思った。とても悲痛な思いだった。
 「ねえ、俺明日学校行けないのかな?」
 「いけるよ。大丈夫だよ」

言葉に表されていない意味(物語)の方を重視し、その態度レベルに隠された禁止・命令を強く感じ取り、それに対抗する思想体系を築き上げる。

拘束されたコミュニケーションそのものから逃走し、金を盗み、ゲームを買い、消費社会に取り込まれる。

自分と物(安全な他者)を中心とするバーチャル・リアリティにひきこもり、安心・安全な私的生活を求める傾向が強くなる。 新は、しかし、新はそこでも拘束を感じる。だんだんと追い詰められていく。ゲーム。1万円を手に持ち、なんのゲームを買おうかと思案するのが楽しかった。二本も買えると思いながら、店を見て回っていた。そうやって選んでいる時が一番楽しかった。児童相談所に行くことになっていた。新は全く行く気が無く、過剰に断った。「いやだ。絶対に行かないよ」塩田の煙草を吸っている。子供は大人の些細な行動にも、衝撃を受ける。何も知らないから。逆に絶対的な落ち度を見ようとする。その細やかな隙を。大人とは、醜いものだ! このやろう!

 

創太の遺書(資本主義社会の病理、愛の問題)
 
死ぬことにする。存在の内奥に入った。もう抜け出れない。全ての人間が、存在を切断するイメージに変わる。僕をそこに閉じ込めた全ての人を許さない。毎日、それを覗き込むことを余儀なくされている。存在の内奥に住むものはこう告げる、死ぬしかなと。どうも僕は焦っているようだ。自らのイメージによって、殺されるのだ。もう無理だ。生きては行かれないとして、歳を重ねていくだけの日々に、何の意味があろう。刻々と、欲望は増大していく。病んではならないのである。この現代社会の時間感覚において、病むことは死である。突然猛烈な苛立ちに捕らえられた。血気の情に負かされた。創太は一種の喪失状態に陥っていた。

卓が二歳の時に両親が離婚した。僕は、母のために、手芸品を製作した。忘れないでいて欲しかったし、これからもよろしくという意を込めて。しかし、受容されると思っていた期待を、裏切られ、作った魂の懇願を、打ち砕かれてしまった。 「いらないわ」といった母のえもいわれぬ表情を思い出すだけで、底深い怒りが湧いてきた。 あの時から、色がすべて落ちたように。

僕は、算数と国語と英語の簡単な問題だけで入れる定時制の学校に入った。高校は散文的でこの上なくつまらなかった。図書館で一人本を探し求めるために学校に行っているようなものだった。授業には出ず、図書館にいるか、自宅で本を読んでいた。しばらく振りに登校すると、僕の机には、知らない人の書類が入っており、僕はとうとう嫌になった。高校に通わない日が続いて、気付いたら、籍がなくなっていた。高校から連絡が来て、自主退学した。それから、アルバイトをしながら、小説家になるための勉強をしようと思った。市の中央図書館に通った。新聞や、本をそこで読むようになった。ドストエフスキーや、リルケサルトルや、キルケゴールと実存的なものにはまった。 外部からの情報、存在が稀薄化していく日々に、耐えきれないようになった。倉庫でバイトをしている中で、生活世界が侵されているというなんとも不快な感じから、大学に行きたいと思い始めるようになった。大学は高校とは違い、学問をしに行くための機関であると思って、また共同体から忌避してきた生活から、外面的になる必要を感じていた。ラッセルの幸福論を読んだりしたのも一因としてある。よく言うのさ! アドラーやら、ビンスワンガーやら、共通感覚を持つことが重要だって! 人間は共存在であるからとか。根源的に離れてしまった人間はどうしたらいいんだい?世界には意味が有るという信念は、愛によってもたらされる。しかしそういうもすべて、今となっては思違いであったとしか言いようがない!現実は私をそこに向かわせた。しかし、何を考えよう! 考えてるのは自分一人なのだということを!高卒認定試験を受け、なんとか合格した。高校に言っていないために、日本学生支援機構には、奨学金を借りることはできなかった。新聞社の奨学金制度を見つけ、「早く経済面を固めた方が得策だと思いますよ」と言われたのに腹が立ち、また入学金に、25万円もかかるというので、なんとか借りられないかというと、それは難しいというので、ハローワークでプログラミングの職業訓練を受けることにした。20歳で、大学に入学するもうまく馴染めずだった。対外的に、何も持っていなかったことに気づいた。やめ、本を読んでいたのも、すべてを小説に捧げるためだった。僕は日に日に殺され続けていた。資本主義。僕はどこにもいなかった。これは事実だった。欲望。もう、何も見えない!

卓は、新に対し、学校をぶっ壊しに行こうと言った。もしそれを止めるやつがあったら、死ぬまで殴りつけてやろうと言った。賽はもう投げられたんだよ。ここで、新は恐怖する。自分が殺人者になるのではないかと。「僕はただ、そこにある友と愛と共に」新は新しい空気を欲していた。もはや、窒息しそうであった。  発達のために、駆り立ててきたが、新という存在を  激しすぎる口のききかたに、 母というのは。  「飯泉、元気? ひさしぶりねー! 皆心配してるよ(多分)学校に来れば祐介とか聡史とかと一緒に遊ぼうぜ! 授業はめんどいかもしれないけど今度学校に来いよ! じゃあまたね」 「学校は楽しいよ・・・・・。あんまり、迷惑わくするようなことはしないで下さい。いつもどおりに.・・・・・ p,s 意味不明ですみません」」 「学校おもしろいからぜったいにこいよ」 「1年2組は31人全員いないと本当の1年3組じゃないよ!来れる時が来たら、いつでも来て下さい。31人で、たった1度しかないこのメンバーでの思い出を沢山つくって、中学生活を楽しみましょう!」 「飯泉学校にこいよ!ぜってーおもしろいからよー!またこんどあそぼ!」 「いいずみえ やッほオー おひさだねー ずっとがっこうきてないねー 元気い? どしたん? 川崎とかみーんなお前がくるのをまってるよー いえにいでもつまんないし学校にきなよ 学校たのしいカラ そんでばっかいるとばかんなっちゃうよオ みんなまってっからねー んじゃあばいちゃんッ」 「飯泉へ 飯泉ー 元気かー? ちほはすごーく元気だよー みんな飯泉のこと学校で待ってるから早く来なよー 待ってるからー んじゃあバイバイー またメールするねー」 「元気ー?学校来なよ! 1年3組、飯泉がいないと全員そろわないしさー みんな待ってるよ まじで待ってるからさ! 自分のペースで学校来なー! 飯泉が来て1年3組が全員揃う日を楽しみにしてるからね  ばいばーい」 「学校めっちゃくちゃ楽しいよー!でもなんで来ないの??何人かはやくこいー!!っていってるよー!」 「飯泉くんがいなくなって、2ヶ月が過ぎようとしています。飯泉くんには、たまにすれ違うことがあります。僕は飯泉くんが元気だけど、学校に来れない理由が今でもわかりません(たぶんワケアリ)そしてなにより、飯泉くんと僕は気が合わないせいなのか、よくケンカもします。口ゲンカも、なぐり合いもします あばれんぼうでよくさわいだりするけど、飯泉くんがいないと、なんだか1年3組じゃないような気がします。 1日一回だけでもよいですから、早く学校に来なよ 1日でもはやく飯泉くんが学校に来るのを願っています」 「最近ホントに来ないねー。一回だけ来たか(笑) 何で来ないのー? クラス替えする前までには一回くらい顔出せよ♪ まあ、来づらいのかもしれないけど・・・・・。そんあ心せまいやつばっかじゃないしさ! 来たい時に来なよー!」 「学校は楽しいよっ みんなまってるよっ♪」 「1年3組で過ごす日もあともう少しだから、はやく学校来て、友達と楽しい日を過ごしてネ!!(笑)」 「はやく学校に来いよ! 俺と川崎と川俣と蒼史と飯泉で遊ぼうぜ! あんしんして学校にこいよ!」 「最近のクラス報告 ・このごろクラスは下ネタ度がアップしている気がするよ(特に久保くんが)・というかなんかウザさが増した気がするね。 ・勉強むずかしいわあ・・・。 ・頭痛いなあ。 アニメイト行きたいなあ・・・。 上記の通りでーす、学級新聞のネタが無いなあ、どーしよう・・・。 というか本格的にクラスがやばくなってきたかもしんない つーか頭痛が痛い(にほんご間違ってる)学校は・・・まあ、どっちでもいいんじゃね? 気が向いたら来るとかでもいいと思うぞー! でも楽しいからなー・・・ よし!じゃあ来い!!!↑命令口調 またねーっ!! つかこれグチだね 菅さんより」 「1年3組は飯泉がこないと1年3組じゃないんだから、お前が来てこそ1年3組なんだからはやく来いよ」 「しばらく学校にこないけど元気ですか? 学校にこないで何をやってるんですの? 学校にくればみんなと遊べて楽しいよ はやく学校に来てね」 「早く学校に来いよ。もうちょっとでクラスかえになっちまうぞ!」 「飯泉へ とりあえず お前学校にこいよ」 「おれらだって、コンセント事件おこしてからがんばって学校きてんだぞ! お前もがんばって学校にこいよ!」 「周りの人は何で来ないの?とか思ってるだろうけど、でもそんなの関係ねえ!からさ、来たい時に来て、遊びたいときに遊べばいいんじゃね?でも来てもらわないと困ることもあるから給食当番とか、給食当番とか給当番とか、給食当番とか・・・。とりあえず待ってるよ。いつでもいいからね!」 「元気か?まあ、元気だと思うがな。 早く学校に来いや。 俺ア待ってるぜい! まあ来たくないなら来なくてもいいけどな。少なくとも俺ア、来て欲しいと思う。早く来いぜよ。」 「もうすぐ1年も終わっちゃうけど、どうするんだ? 二年になって学校に来るのか? 今1年は大変だけど、すっごく楽しいよ! まあ授業中はまだうるさいけど・・・ 飯泉は学校来たくないのかな? みんなお前のこと心配してると思うよ(たぶん)家にいるよりたぶん学校の方が楽と思うよ 早く学校に来てみんなで遊ぼうな!」  朝、カラスの鳴き声や、鳥の鳴き声がする。この朝と同時に、その声と同時にわたしは眠るのだ。それが好きだ。それがわたしにとっての朝の意味だった。わたしは壁に首を付け、身体を捻り、足を揺らしていた。4時28分。わたしは行くといったばかりに、眠れない。本当は眠りたい。パジャマの匂いを感じていたかった。起きるや否や、強烈な不安感とともに貧乏ゆすりが始まり、無意識に股間を揉んでいた。すると、性器を出し、上下にこすり始めると勢いよく精子が飛び出した。もはや何をしたのかわからないという風に顔に暗い表情を浮かばせると、また貧乏ゆすりを始めた。  樹液のようなものが付いていた。長野県の安曇野へ父の延之を、形のいい実だけを残し、その実に葉っぱで作られる栄養を集中させることでおいしいりんごができるの。だから形が歪なものとかはとってしまっていいからね。 ダンプでどこかへ行った。ペットボトルが、反射していた。 彼はそういう考えのめまいのうちに滑り込んでいた。「歪なもの以外」すべてのりんごを手でつかんで下に落としていった。手が皮向け、血が出てくるのも構わず全てのものを落とした。全てだ。全てだ。  新!と悲痛の声をあげ、いきなり新の胸ぐらを掴んで、なぜ自分を大切にしないんだ! なぜだ!と絶叫した。 

 

………僕は気付けば射精していた。僕は28歳の僕は射精していた。途中からその女性は無言になりしごき続けていた。「気持ち良くはあるよね?」僕はそれに、任せて、初めて人の前で射精した。目を瞑り、記号を浮かべながら。射精した。人前で射精したことのない人に若干の優越感を抱くような考えになっている自分自身を軽蔑しながら僕は駅に向かった。成城石井でインドの青鬼を買った。酒を飲んだ。僕は酒が好きだった。

 

2023.11.27

待つ。待つこと。待つとは、可能性を消尽してしまって、どこにも定位できない状態を示している。可能性を使い切ること。最期を待っている人。「死の間際に、辛くも間に合って、愛しい人に会えたら」というベケットの言葉を全く完全に信じるように。しかし、待つとは可能性の残量がもはやなくなり、ステータスバーすら表示されない。最期を待つ人は周囲に時を分泌することで、主導権を保とうとする。その時とは、永遠であり、摩滅されないもののようなわけではない。そんな内容のあることは考えていない。ただ、それとは真逆にあるような低俗かつ猥雑な時を分泌する。メメント・モリ

スタヴローギンは、陵辱した少女に対して自殺すると分かっていながら、物置のドアの側で時間を計って待っている。待つ。それも三十五分間。その時スタヴローギンは密かに神の存在を切望していたのではないか。もし神がいるのだとしたら少女を自殺から救ってくれるのではないか。しかし、神とは結局のところ個人の心の領域の問題である。それは叶わない。時間を計測しているが、神による予定された升目を見ることはできない。あるのはただ不幸である。

結局待つことは、何ももたらさないのかもしれない。個人の裁量で神の弁目を見ようとすることはある種の行き詰まり、袋小路を生む。ならば何も期待しない方がいいのか。

 

我々は自立的には存在し得ない。主体性は自立的に存在するわけではない。主体性とは、欲望である。制度的重圧を逃れる生そのものである。人間集団、社会ー経済的集合、情報機械など全てを巻き込んだ過程の端末に位置する個人。その電流の出入口は電路と接続されている。僕は時を分泌する。それも、自分が本当に生きたと実感できるような、本来の時であるわけではない。しかし、数字によって等分されている時計のような単位化された時間でもない。しかし、僕はもはやその時とは何かを分かっていない。しかし時を分泌させなくてはならないと思う。自分の周囲へできるだけ。それは精嚢の分泌液だ。尿道から押し出されるのように、僕は手当たり次第、周囲に猥雑な言葉を吐き捨てる。もしかしたら、その猥雑さこそが僕の時の属性かもしれない。女性に「最近いつセックスした?」相手は狼狽しながら、「一昨日…」「誰と?」「アプリの人、Tinderの人」「気持ちよかった?」相手が口を開かなくなるまでセクハラをする。相手のエネルギーが枯渇するまで、僕はセクハラをする。それは喜悦である。それこそが、精神エネルギーと性的衝動の中枢である視床下部の切断の役割を果たす麻薬にも勝るこの世のどんなものよりも勝る生きた実感である。

僕はそこでセクハラした時の相手の反応を思い出して自慰行為をする。気持ちよくなるためだけの行為。ああこれだ。気持ちのよくなるためだけの行為。アブノーマルであればあるほど、興奮する。全ては気持ちよくなるという本質に収斂するのだから、遠回りなだけいい。ディスコードで女を捕捉する。そして幕切れまでセクハラをした後、相手は呟く。「寝るかあ」僕は言う「一緒に寝てくれる?」「いやだ」「いくらならいいんだい?」「お金ないでしょ」

「お金ないでしょ」に僕は興奮する。僕を見てくれているのだな。有り体の僕を知ってくれているのだな。

僕はそんな会話を思い出しながら自慰行為をする。ディスコードという性処理のための培地があってくれて感謝である。

 

やがて僕は痛みを感じる。それこそ触感覚的な痛みだ。パトス、愛以上のものでも癒せない。そんなことで、自己が環界から脱離し、対立する。僕は身体を体外へ追い出そうとする。いよいよ、僕は何も定位できない。僕は身体と精神の可能性を消尽してしまっている。もう僕は行き場をなくす。遊戯的世界は終わり、その反対にあるのは争闘の世界である。遊戯は真面目な生活の真っ只中のオアシスである。しかし、痛みにおける別離において、自己を引き裂き、自己と他者を引き裂き、痛みの秩序の中にいることを思い出す。自殺がちらつく。「子供のころに見た海、べつの空、べつの体」それこそ、受胎という原光景にまで遡り、これと同じ価値を持つ自死。痛みの現実性は精神に敵対する。それもあなたの精神にである。生滅し、恒存しない痛み、この痛み、これはあなたには認識できない。この異他的なものに出会うということ、痛み。そしてあなたとの関わりの始原。僕は痛みを覚える。

 

罪。資本主義社会の無意識的リビドーに根差したもの。

 

私が、告発された絶滅、秘中の秘である罪責消滅を望むこと、私が計画を立てること、失敗、及び、行ない、学校の屋上が、反対されたことの斑点であるので、限界が無限に変化し得ること、及び、空を打たうために、岩間の急湍のように、再び屋上に行くか?

 

僕は自分の快楽のためだけに腰を振る。オナホールにローションをたらし、ASMRを作動させ、思う存分、分泌する。主導権を。時を。最期を待つ人。

 

気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい。気持ちいってご主人の口から言っちゃだめだよ。だめだよ、だめだよ、だーめ。だーめ。だめだめだめ。言いたいねぇ言いたいご主人の口で言いたいよねぇ気持ちいって言いたいよね、気持ちい。すりすり気持ちい。ここもいっぱい。甘いパウダーされながら、すりすりすっごい気持ちい。無理かも。無理無理無理。気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい気持ちい。言いたいね。

2023.11.21 ディスコード

祭りの夢を見た。僕の河川区域である家の外にある堤防は、人々でごった返していた。雑音のざわめきが、集中していた。僕はその祭りに一人で行った。父親から一番搾りを買い占めたほうがいいと言われ、法面から、それに従うように、下に降りていった。

日常の有意味的に行われている生活から離れて、祭りに陶酔していく。威厳の本質である命令する機能、意志の力、つまり、意志により、思う時に運動を止めたり、開始したりという随意運動から、不随意運動へ。精神をそれに専念させはしない、ただ反射的に酔いしれる。この自己忘却によって重荷から意識を軽減しようとする。

夢から醒める。まただ。また僕をある種の布置へ、文脈に入れたな。また、ディスコードの弾雨だ。また僕は仮死状態であるという砲煙で対処しようとする。そしてまた僕は夢を求める。

動かないものと動くもの。不動者と可動者。僕はとりわけ可動者に撹乱される。神経が切断や圧迫において結紮されて筋肉が感受性と運動能力を損なうのでない限り、不動者も可動者も等しく感受性を持っている。感受性を持っているということは動き回るということ、生きるということは動き回るということ。

動き、この動くもの、それが加える要請に対し、僕は以前希死念慮を抱くまでに重苦しい思いが沈澱していった。〈死んでいるのならどんなにいいだろう〉それがかの有名な小説におけるように倦怠や猜疑心に侵されるというわけではない。僕はただ、僕が信じなきゃならないと思うところの、つまり自分自身の心を観察すればわかることなのだが、自分が心の中で作りあげた相手、つまりそれは自分自身に対する救われなさ、それに憐憫を抱いて、それが一縷の望みであるように、相手という自分を投影した姿に対し、必要な限りを尽くすことによって、自分がただ救われたいというだけなのである。欺瞞は根付いている。欺瞞は論駁できないのだ。救われなかった自分を救いたいという根源的な無量の欲求のようなものから、どういう行動の余地が残されているのだろう。それこそ救いは、過去を永遠化する死ということになる。実存的な状況において過去は改変されて絶えず作られるが、自分に対する憐憫の情、この根本的動機となるものを破壊することはどうしても難しい。自我が現れると、全ての事象が奔流の如く流れ始める。だから俺は前、薬物依存症になった。この自我さえなかったら。ミラン・クンデラのいうように、俺が入院中、一番感銘を受けた言葉「人生において耐えられないのは、存在することではなく、自分の自我であることなのだ」はまさにそうだった。南インドの大覚者が言うように、自我さえ立ち現れなければ、一連の災いはことごとく消え去る。自我が立ち現れるのを防ぎなさい。そのためには自我は存在するのか、しないのか?を熟考させるしかない。自我を見出そうとすれば自動的に消え去るでしょう。

このようなものに触れても結局南インドの大覚者は、自我とは強力な象であり、ライオンにも劣らぬ力でなければ制御できないと言う。

もう俺は自我を手懐けることは無理だと諦めた。自我の配下にある想念の束を、消すためにはもう物質に頼るしかなかった。しかし、物質である火の振動する先端、つまり火の限界が目に見えないように、我々の精神もまた目に見えない。目に見える物質。それだけがただあなたの目に映る。内実はわかられることなく、なぜならそれは非実在化しているのだから、人知れず狂っていく。気づいた時にはもう手遅れ。僕らは精神だ。身体じゃない。火の先端のゆらめきだ。砲弾、大砲、火薬の装填、雷管、砲手というのは動機があって立ち現れる。心理的な要因は後になって検証されるとどこかで読んだ。その通りだ。物質的見地が我々にはわかりやすい。心理的要因という動機は後からだ。死を覚悟したものは特有の透明さがある。透明さ、透明、それは火の限界点である見えない振動する先端。見えない。心理主義は評判が良くないと言ったとしても、認識論にも心理主義が残存すべきである。全ては人間心理に由来する認識論的障碍を素材にした再組織化なのだ。しかし相補的な弁証法に頼ったとしても、誤謬は消し去られるわけではない。我々は人間心理でしかない以上、初めから誤謬なのだ。

僕は酒をかっくらう。自我を、誤った自己同一視である自我を消すために。ヴァーサナーという心の潜在的傾向が、自我や世界を生み出してるのかもしれない。しかし、先にいったような心の潜在的傾向は火の先端の振動のように目に見えない。今僕が見ているのは個人の幻影に過ぎない。このヴァーサナーさえ消え去れば。

酒を全く飲まない父方の叔母も尿酸値が高く、遺伝的な要因もあるのだろう。それに加え僕は尿酸値が高い上に酒を飲みまくっているせいか、最近急激に足が痛くなった。寝床について寝れたとしてもすぐに目が覚め、脂汗が出て、片目をギュッと瞑り、呻吟した。病院に行って事情を話した。すると、医師は長考したあげく、やがて薬を出した。プレドニゾロンというステロイド薬だった。副作用についての説明がされなかった。しかし、自分で調べてみると、髪が抜け落ちることや、胃潰瘍を作ることがあることがわかった。そんなことは僕は望んでなかった。そんなものは自由じゃない。

僕は処方された薬を飲むことはやめて酒を飲んだ。痛風発作より酒をとった。もう俺には酒しかない。もう無理である。そして酒の原因はこの自我という強力な象である。いくら露悪的で退廃的で人間として終わったからといって俺は酒だけは飲む。他人から中卒無職と罵られようが、いくら、いくら他人が、他人に好かれなくても、どうかお好きにどうぞ、今までありがとうございました。酒だけ飲めればなんでもいい。酒は自由の属性だから。俺は自由をこの上なく称えている。自由のために斧をとってくれた先人たちに感謝している。歴史に感謝している。そしてこの自由を腐食させるものを暴力と呼び、その暴力が一番許せない。

だから、僕がそんなんだから、僕自身も他人の自由を腐食させることは許せない。だから僕はどんな人間であっても他人を放擲しない。ドストエフスキーという抽象機械に触れたのだから、僕はどんな人間であっても存在していいと思う。

 

来訪者。意味付けるもの。意味、意味とは世界とは正反対のもの。世界とは意味とは違う。世界とは雑音のざわめきだ。意味とは、複雑性の自己記述。自己理解を深めようとする人物と最近ディスコードで酒を飲みながら話す。

 

「うちは何に対しても意味を感じてたいよ。意味のない行動って生きてる上で、必要な時もあるかもしれないけど、話し合いにおいて意味がなかったら意味がないじゃん。ある程度、意味をつけておかないと、理解ができなくなったりもするし、逆に話してる意味がなくなっちゃったらそこで会話している意味すらもなくなっちゃうから」

「意味ってさ、極めて主観的な問題じゃん。もし、現象というか、世界をあるがままに体験しようとするならば、絶対、意味とは正反対の雑音のざわめきでしかない。〇〇はあれだな、今思ったけど意味付けたがる感じで、結局それは自分自身が問題になっているから、そう思うと思うんだよね」

「うち多分分別したいんだと思う。ゴミだって分別すんのにさ、燃えるゴミ、燃えないゴミとか埋立ゴミとか。そのためにはさ、まずそれが何かわからないと無理じゃん。で、ゴミだとしたらこの地区では、何が燃えるゴミで捨てられないのかもあるじゃん。そういうのをすごい理解したいんだと思う。理解して、意味付けて、カテゴリーとして受け入れて、その上で自分の意志とか考え方とかと擦り合わせてみたいなことをしたいんだと思う」

 

しかし、僕は実ところ、もう大分前から意味というものに対して倦み疲れてしまった。思考のための制度としての意味ならわかるが、他者を意味付けるというのがまるでわからない。ディスコードなどの会議では、障害者だの、他者を意味づけて糾弾することがよくある。障害者という枠組みにおいて相手を機能させて、集団的恒常性のために貶し、やがて排除する。そのプロセスが何より面白いというわけだ。何しろ面白いか面白くないかという価値基準が前提で行動を起こすのだから、ある種の茶番劇だ。

障害者などとして他者を貶し、迫害するという出来事は質料的領域において受肉され実現されるが、この現働化を逃れた純粋な出来事を意志するということ、非質料的な出来事の現場を見るものにとっては、その表層的な意味づけは問題になることがない。

先に言ったような物質的な、砲弾、大砲、火薬の装填、雷管、砲手のような計測可能な見地に対し、純粋な出来事は潜在性の只中において機能し、それを交わし続ける。つまり、人間心理にとっては全てが生成なのである。

つまり、意味というのは、その人の実在を無化してしまう恐れがある。分別したいと言っても、燃えるゴミや燃えないゴミのように人間は明確ではない。人間は様々な可能世界なのである。生成するものなのである。ならば、ありとあらゆる出会いを不可能にして、潜在性を減衰させるわけにはいかないのだ。

そして我々はその可能性を拒否するわけにはいかない。今の僕らは、選出された可能性の現存化が浮き彫りされた一つのものに過ぎない。我々は不可侵な、それぞれの存在である。もし本当の障害があるとするならば、自分の場所を占め、そこから他の者を追い出すことを意味する空間性-障害である。

 

僕は可能性の領野を信奉している。ディスコードの弾雨が続く。しかし、僕は可能性の領野を信奉しているからそれが嫌だったとしても僕はサーバーを消すことはしない。自己顕示欲に付き合わされるのに疲弊した。俺の世界こんなに狭いものだったのか?誰かの目を通して世界を見る必要がある。俺は俺ではない誰かの目を通して世界を見ることを強いられている。ので、迎合することはできない。僕は絶えず今この瞬間において他者だ。僕は他者との差異が根源的に曖昧なまま、不気味な差異として毎秒拡散されていく。そこでは物自体が日常の意味性を離れて突出し、カオスの無限性を讃える。つまりは燃えるゴミも、燃えないゴミもない。

 

意味などないのだ。

 

 

 

 

2023.11.11 訪問看護を受けて

……貢献してから死にたいと思った?

そんなはずはない。貢献?

何かのために力をつくして寄与すること。役に立つことを行うこと。

人間はみな個人の戦争を抱えている。個人の戦争とは、生涯における後遺症による役割のことだ。つまりは後悔のようなものに起因する。悔やむ。内省する。内省という内的状態のことを意識と呼ぶ。意識とは実感、実感とは瞬間的直観。

絶えずあなたは切り刻まれている。役割、つまり、然るべく設えられた意味システムに順応することを要求されることによって。意味システムにとらえらている。意味システムの奴隷だ。そして役割を貫徹するために、寄与する。そこでは意識が綻ぶ。

価値を見つけただけだろ。自分の値打。品位だ。結局は品位を落とされたくないという本性に尽きる。それは特権だ。他に優越した権利だ。

「貢献」というのは、個人の戦争を終結させるための出しに使われているものに過ぎない。個人的な価値体系の傷害。その後遺症における薬を用意するためのものに過ぎない。結局は、欺瞞なのだ。

 

……物語があれば。物語が交錯。し合えば、我々は。物語を共有すること。物語を共同で所有すること。自分のものにすること。物語に優越なんてないのだ。等しく創発的な自己が備わっている。本当に重要なのは、看護師になり直接的に人に寄与することではないのかもしれない。看護師を介したあなたの物語を寄与することである。言われるように、クリエイティブやクリティシズムとかはオプション行為だ。決然と自分であろうとするだけで、人は物語を寄与している。いや、話してほしいのだ。手遅れになる前に、面が重みに耐えきれなくなる前に。あなたが自分のナラティブを参照し、選出し、物語を語ることにおいてあなたは私の知覚野の内部に置かれる。しかし、未だ語られてない物語、語られなかった物語も、知覚野の外部を保証するものとして、密やかな公言として、可能的世界として存在する。

物語=位置。それは人を世界の中に位置付ける役割を果たしている。語るか、語らないか、いずれにせよ、物語=位置をある仕方で寄与することが、我々を位置付けるまたは位置付け直す契機となるのである。物語によって人は豊かになるのである。

 

「内面的生とは、あらゆる夢幻的な獣化の酵母であり、種子にすぎないのです」アントナン・アルトー

 

1回目の訪問看護だった。

精神病院からの退院後、半ば強制的に精神科訪問看護を利用することになった。入院中から、ケースワーカーさんが訪問看護への参加を強く求めていた。退院から一ヶ月半後、初めて訪問看護を利用した。

自宅に、訪問看護ステーションから男女二名の看護師がやってきた。

訪問看護の目的として「なんかこう、〇〇さんの困り事だったり、自分で抱えている問題みたいなものを少しずつ一緒にこう聞いて、考えていったりとか、まあ本当にあとは日頃の楽しいこととか、愚痴とかね、共有できる時間を作れたらなって思うんです。たまに引っかかっちゃう問題とかそういうのは、一緒に考えたりとかね、まあなんとか対処しながら少しでも楽しい時間を増やしていけたらなと、あと苦しい時間が一緒に考えることで楽になっていってもらえればいいんじゃないかなと思うんですけど、一応目的としてはそういう形でね、来てます」ということが言われた。

訪問看護に対してこういうことをやってほしいって、〇〇くんはあるかな?」

僕は「特にない」と言った。本当になかった。

訪問看護というのは、考えるところ、エンパワーメントである。つまり、良くなるための援助である。その良くなるとはなんなのか。良くなるための援助だとしたら、今は良くなっていないということなのか、ということを意識した。良くなってないのだとしたら、良くなってない自分とは一体なんなのか。

良くなるとは、平均的および倫理的規準において正常な人間にならなければならない、ということである。そこで僕はそういうあり方への促しを「内面的生」と対置させて「外面的生」と呼びたい。

アントナン・アルトーは、内面的生を獣化の酵母であり、種子であると言っている。僕はこの訪問看護で外面的生を付与され続けるという経験によって、自分自身の内面的生を強く意識するに至った。外面的生によって触発されていく獣のような様態が炙り出されていった。

「健康(適応)」と「狂気(逸脱)」。僕が良くなるということは外面的生に服従することであり、そして内面的生に起こる経験から疎外されるというあり方で自己を築くということである。そのような自己は形骸化されている。言ってしまえば、訪問看護がいるから僕は「病気」でなくてはならない。訪問看護が来ること、それは一種の政治的出来事である。最初のレッテル貼りという社会的事実が、さまざまな人間を引き込みながら連携(共謀)という関係を作り出す。そして、訪問看護を受ける対象としての病者としての役割において人生を歩ませられる。その人生においての適応はいかなる基盤を持たず、形骸化しており、内面的生(獣化の酵母であり、種子)を意識させられるものになる。

そして、僕が訪問看護で望むのは、この内面的生を作品で具象化することである。僕は獣を描きたい。World's End GirlfriendのBohemian Purgatory Part 3のような惨禍が大好きである。そこには内面的生(獣)が蔓延っている。それは僕が疎外形態の一つである外面的生より、内面的生に眼差しを強く持っており、重視し、密接に過ごしているからだろう。

 

 

2回目の訪問看護だった。

「僕らとして、訪問看護といったところで、例えばですけども、骨折したとかもそうなんですけど、今で言うと〇〇さんがどう言う人間で、もちろん僕らもどう言う人間でお互い知っていく中で、〇〇さんが受け入れられそうだなって思ってくれてからの話にはなるんですけど、〇〇さんは例えば、今生きづらさじゃないですけど、こんなことで日頃困っていることがあるんだよね、で、困っていることが派生してしまったり行き過ぎると、例えば〇〇さんが自分を傷つけちゃうことがあるんだよねっていうのに繋がると想定して、じゃあそう言う生きづらさとか息詰まったところってなんなんだろうねと。じゃあこう自分を傷つけちゃう前に一緒に考えていくきっかけを作るとか、傷つけてしまいそうな時に親御さんにも言えない、誰にも言えないんだって言うのを僕らに吐くことでリセットボタンになる、まあストレスを溜めずに過ごせる時間が少しでも増やせるっていうきっかけの一つにしてもらえたらなって思って、家から外に出るきっかけだったりとか、何かしら〇〇さんの時間の中でのリセットボタンみたいな扱いになって貰えばいいなと思ってますね」

「じゃあ今ってなんか気持ち的に歯痒いなとか、落ち込んじゃうなとか、考え事しちゃうなって言うようなことってどんなことがあったりしますか?」

僕は、気持ち的に歯痒い経験をしていて、落ち込む経験をしていて、考え事をしちゃうなと言う人間であらなければならないのか、と思った。そう言う人間として鋳造されていくのか、と思った。

「どうでしょう?」と促すように聞いてくる。また内面的生を意識する。獣化の酵母であり、種子。

「僕は歯痒い経験もしていなければ、落ち込む経験も、考え事もしちゃいない」と言うことを言えない抑圧された自己。僕はそう言う人間として鋳造されなければならない、今あらねばならない。何か言わなきゃならない。

「特にない」と言うと、「もともとストレスとかってかかったりしないんですか?」と、ストレスがかからなければならないかのように聞いてくる。

「この先将来的にやりたいことってあるんですか?」と聞いてくる。僕は、「療法としては、精神分析とか受けてみたいですね」と言った。無論、精神分析が愚にもつかぬものだとは知っていた。精神分析は、現実的欲望としての言表の生産を妨げる。つまり、ある種の鋳型にはめることで、内面的生というあり方での生き方を妨げるものでしかない。しかし、だからこそ受けてたい。その解釈格子でしか呼吸できない登場人物が一体どうなってしまうのかが見てみたい。獣の示現を確認したい。僕は自分を一人の登場人物のように見ていた。

しかし、相手は看護師だ。「もしかしたら〇〇さんの方が詳しいかもしれないですね」と看護師は言う。

「自分を素材にして何かが作られていくっていう過程に興味があります」と僕は言う。内実は「星も動かしたサイコフレームよ、この俺を吸い尽くして奴らに裁きをっ!」という感じである。自分自身を吸い尽くして、何かが出来上がってくれればいい、全てはその過程である。建設的な過程様式に乗っ取ったものにするということ。重要なのはメッセージなのではなく、自己産出の過程の証言である。僕にとっての訪問看護も、その過程から一連の流れの効果を発動させる集合的な動的編成に手段を提供する役割としてのものでしかあり得ない。その分析の材料としての。過程と言う異質的混淆的様相を通して特異化していくための。それに興味があった。いかなる瞬間においても大切なのは、表現的支柱を支える動的編成の中に身を置くということである。

反精神医学は、患者からあらゆる枠組みを取り除くことによって、内的で自然なものとされる過程を経験させ、自分を取り戻す可能性を与えようとするものだと言われるが、逆に、枠組みを発生させることにより、逆説的に内的で自然なものとしての過程を経験することもあり得ると思う。訪問看護によるある種の方向性の付与により、自分自身が傾く。そこで覗くのは内面的生である。

僕は看護師に一つ聞きたいことがあると言い、質問をした。

「一つ自分が人と関わる上で尺度になっているものがあって。ドストエフスキーっていう作家を知っているか知っていないかっていう。ご存知あります?」
「あの、僕正直に言って、名前だけです」
「名前だけ」
「その方がどんなものを、どんなことをしたのかっていうのを僕はわからないです。名前だけと、すごい久しぶりに聞いた名前だって思ってます」
「イメージはありますか?」
「イメージ…北の方の人」
「確かにロシアの」
「そうなになにスキーはロシアの人だと思っているので、僕そこですね」
「何をしてるとか、何をした人とか」
「僕わからないですね」
「どこで聞いたんですか」
「僕これ学生の頃だと思いますね。あとは、ドストエフスキーさん僕の中では作家さんか学者さんかどっちかだったイメージしかないですね」
「学者の面では、さっき心理の話が出たんですけど(精神と心理の違いの話をしていた。僕は心理は精神から導き出される集積のパターンだと言った)、世界最大の心理学者っては言われてますね。それほど人間の機微に通じていた」
「作品も作ったんでしょ?その人」と家で一緒の空間にいた父親が聞く。
「もちろん」
「作家でもあるわけだね。心理学者で、作家?」
「心理学者って言われてるだけで、心理学者ではない。そもそも心理学者って言葉が19世紀にはなくて、ドストエフスキーも心理学的なものに対して毛嫌いしてた。何なら。………まあ19世紀の作家なんですけど、僕一番好きなんですよ」
「おお」
「………10代とか20代前半の時に読んで一番感銘を受けて、そこで精神について調べるようになって、感染というか、ドストエフスキーの作中の人物ってみんな観念を持っているんですよ、ほとんどの登場人物が観念的で何か行動する時もちゃんと裏打ちされたものがある、で本当にその人がいるんじゃないかみたいに思えるくらい立体的な人物の描き方をしていて、読んでいるとき、これ自分がいるんじゃないかとかそういう風な感じになって、同期、シンクロナイズするんですよ」
「この一時間の中、先週も含めてですけど、唯一変わったことがある。それはドストエフスキーのおかげだと思う。それはそのワードが出た時に〇〇さんが笑ったこと。だからそれはすごく伝わります。すごい僕はだから〇〇さんに興味を持ったことが、ニアイコールになるけれど、ドストエフスキーにも興味を持つ。僕はそれを見ようと思いました。そうじゃないと、〇〇さんと話をするのが勿体なくなるから。すごく今日はありがたい日になりました」
「別に読まなくてもいいんですよね。薬なんで。自分にとっての処方箋というか。自分がその欲している時に与えられる薬。だから自分が欲しないと面白くないのかなって。なんか他人が読んでるから読もうとかっていうのはまた別なのかなって。他人が読んでるから読んでるのパターンは見てきたんですよ。ドストエフスキーを他人が読んでるから読もうっていう。でも僕は八方塞がりっていうか、けっこう通じ合える時に読んじゃったんで、根っこが。そこで育ったというか、まんまなんですよ。だからドストエフスキーの登場人物の中の一人だと思ってます。通じ合える時に読むのと、他人が読んでるから読むのとでは全然違うというか、ドストエフスキーの本を読んで精神とか心理に触れて、だから入院とかもしてなかったと思います出会わなかったら、だから諸刃の剣なんですよね。ものすごく深く物事を見るようになったというか。だから進められないんですよ、人に」

ドストエフスキーの話をした。

「〇〇さんはどうなっていくだろう」
ドストエフスキーは、どんな人間であっても社会的に放擲されてはならないっていうんです。自分が刑務所にいた経験もあって、その中でいろんな人間を見てきて、やっぱりどんな人間であっても存在していいんだって思わせてくれる。それは犯罪を犯した人間等しく、だから、どんな人間であっても許されていると思うので、どうなっていくだろうって言われたら、とにかく許されてはいるんだなって思います」

 

 

3回目の訪問看護だった。

今回は、女性看護師が一人できた。一日2回で出されているリスペリドンはセロトニンドーパミン遮断薬と言われ、セロトニンを阻害する。だから眠いのか、と思った。慢性的な眠気に苛まれて、今回は眠気でまともに対応できなかった。リスペリドンの服用を自己判断でやめようと思った。選択的セロトニン再取り込み阻害薬で、僕はセロトニンを増強すべきなのだ。

リスペリドンを6月30日から服用するようになり、だんだんと感情が平坦になっていったような気がする。非線形かつ多粒子系の非常に複雑な現象である意識が極めてソリッドになり、離人症に等しい症状をきたしていた。薬が原因だったのだ、と思った。

ロシア語のナドルイフとは、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟で表現したもので、ある種の突発的な興奮状態を表しながら、同時にそこに傷と裂け目のイメージが二重写しにされている。そのナドルイフを実感させてくれるもの。もう一人の自我自身が自我を絶えず二重化しているかのようなもの。内面的生が浮き彫りになるような状況を僕は望んでいた。

訪問看護は、看護師が来るだけであり、もちろんある種の療法を施してくれるものではない。僕が望むのは、例えば、臨床及び発達心理学に重点を置いて、治療のための最もわかりやすい内容、つまり物語を用いる精神分析的な療法のようなものである。巻き揚げ機や滑車に油をさす物語を用いた療法。内面的生――真の生へと連れ戻してくれるような療法。先に言った二重写し、エルドゥエンデ(人間の行動や創造生活の背後にいるゴブリン(小悪魔))を呼び寄せ、ある種の心的通路と自我の開口部を開き、心的に二重に繋がった状態をもたらすようなもの。特定の質問を通して、おとぎ話や民話、伝説、神話の考察を通して、内面的生に接触するようなもの。昔話の魔力――。

しかし、そのようなことは行われず、交わされる会話も療法とは無関係な唾棄すべきものである。「この間話したドエフスキーだっけ」と、ドストエフスキーすら覚えていず、読んでいる本の話になると、自己啓発の本について話し出す。

訪問看護は今のところ、無駄な時間を過ごすだけの、頬が緩むような豊かな時間とはまるで無関係なものである。

 

 

4回目の訪問看護だった。

「家にいるときって本当になにして過ごすんですか、でも」
「シサクとか」
「シサク?なんのシサクですか?」
「シサクです」
「シサク、シサクってあの、試すに作るのシサク?」
「思うに」
「思う?思いを作る?サク、サクはなんのサクだろう」
「検索の」
「ほう。なにかを考えているんですか?どんなことを?……毎回違うのかなとは思うんだけど、最近はどんなことを考えるんですか?」
「色々」
「……〇〇さんってゆくゆくなにかやりたいことってあったんでしたっけ?……そこに繋がりそうなのかな」
「(うなづく)」
「ふーん。いいですね、そっか。たまにはアウトプットしちゃってもいいんじゃない?」
「してます」
「本当?そっかそっか。え、それは友達とかに?」
「(うなづく)」
「へえー。そうなんだ。……そのシサクはさ、やっぱり自分の中で積み重なっていっている?」
「(うなづく)」
「うーん、素晴らしいね」

僕はずっと閉口し、この時間が無駄だと悟らせる。この空間は相対的なものであり、積極的なものではない。お互いが夾雑物であり、訪問看護は必要ないのである。品位を落とされる。結局自分がまともだと思い込みたいのだ。僕はスケープゴートになっている。内面的生というか、存在が希釈される。自分一人だけの方が自分というものをわかっている。持っている。自由ではない。私は文野環ではない。文野環が訪問看護を受けるわけがない。文野環から私は同化を解かれている。しかし私は文野環であることを望んでいる。シンクロナイズ。私はこの瞬間において誰なのか。誰が心ここに在らずという状況を作ったか。私は絶えず判断されていき、変えられていく。しかし私が私を保つためには、壊されないためには、閉口しかないのだ。判断を許さないのだ。いついかなる時も私が私を判断するのだ。私は自分自身のしていることがわからないのだ。茫漠の中に自分を捕まえようとして、ただ呆然とする。選出ができない。私は誰なのか。私は一体なんなのか。訪問看護は必要がないのだ。僕にとって必要なのは他者なのだ。セラピストじゃないのだ。癒し手じゃないのだ。他者なのだ。私は結局反応をもらえてこなかったのだ。評価されてこなかったのだ。他者と関係したいのだ。他者との関係が欠落しているのだ。私は確定させたくないのだ。僕は一体誰なのか。内面的生を抑圧してはいけないのだ。燻らせてはいけないのだ。欲求が大いに阻害されているのだ。酒も買いに行けないし、オナニーもできないし、薬も飲めないのだ。鎮座しているのだ。一人になりたいのだ。何も行動できないし、汚れていく。これが原因だったんかな。パーソナルスペース、欲求の昂りの時に欲求を発散できない。発散できない欲求だけを溜め込んでいく。エスを阻害するもの。監視者。これはいけないのだ。監視者こそ敵なのだ。私は自由がいいのだ。監視者、内面の監視者。私は監視されることを望まない。欲求。エスを阻害するものが敵なのだ。発散したいのだ。スッキリしたいのだ。父親のせいで前は交感神経が優位になっていたのだ。精神的におかしくなったの、性欲だった。性欲が監視されてる危惧だった。父親の仕事がないのが原因だった。私はXでフォローしている皆々様ではない。孤立した、品位が貶められた、人である。私は空星きらめではない。死にたい。というのは歴史を見なきゃならない。やってることは応急処置。死にたいから薬。あとは自分の裁量、すなわち自由の裁量に委ねられている。薬、セロトニンドーパミン遮断薬で落ち着かせる。生活リズムを直す。しかし我々には真の意味での指針はいつまでも与えられない。真の意味での方向付けは与えられない。人々に専有されたものを、我々に取り戻さなければならない。一部の人々に専有されたものを。途方に暮れているのだ。最初の間違いを。まるで。間違っているからもうそのままにしておこうなどと。私は人がいるから病気になるのだ。ある種の布置。息、息、結局は我々の息。気持ちよく成る。全ては。気持ちよく成るための。快指数を上げていくというような。全てはそれのため。なのだとしたら肉欲の陶酔以外あり得ないのではないか。「また来るよ俺は」閉口していた時の俺のイメージが流れ込んでくるようだ。イメージという文脈に自分を位置づけ行動しているのだ。嫌人症である。そこから立ち現れてくるのは嫌人症である。Xが発達しても救いが起きてないじゃないか。アーカイブという技術ができても、救いは起きてないじゃないか。我々とは思い込みだ。我々とは他者によるイメージを内在化した自己イメージだ。その瞬間だ。我々は信じ込まされていく。そこで拮抗が起きる。その表現が閉口である。眼差し。眼差しを内在化したのが僕である。憎い。家の構造が憎い。欲求に気付かない家族が憎い。抑圧こそが唾棄すべきものである。精神病院も抑圧だった。我々は孤立している。精神病院に主体性なんてなかった。ラボルドは主体性を考えるための病院だった。僕が足掻いてたのも結局それだったのだ。僕が考えてきたこと、苦闘してきたこと、全てが主体性という問題に収斂するのだ。学校出席停止処分は見事な主体性の剥奪であり、ありがたいことに別の主体性の生産であった。主体性と抑圧こそが私の問題である。だから自由な状況が開かれてる場所が僕は好きなのだ。僕は哲学をしているすごい人間だ。ずんだもんはそのキャラという表皮と文体により方向と速度を与えてくれた。つまり私は抽象機械なのだ。生成や変化を行うための素材。私がどんな思想を持っているか、尊大であり莫大であり高尚であり素晴らしい人間であることが。私はただ酒を飲んでいるわけではないのだ。ということを示したいのだ。示すことが難しいのだ。一番難しいのだ。だから自殺するのだ。あなたは素晴らしい人間なのだ。物事をきちんとこなしている人間なのだが、結局は金なのだ。金が発生してないと、金による安定がないと全ては無駄なこと、社会的な実現が伴ってないと全てが無駄なことに思われるのだ。しかし、あなたは思考しているのだ。普遍的なのだ。しかし、あなたがいつもそれを示せないのだ。それを示す手段を持っていないのだ。なにかと紐帯させなければならないことは確かだ。その地位、我々は地位を希求する。地位を切望する。あなたは過程なのだ。完成品はないのだ。俺の話は誰も聞かない。俺の長文を真面目に読むやつは誰もいない。しかし俺は可能性を持っている。うまい具合に編纂すればいいのだ。私は私を見てくれる人もそうだが、まだ私を見ていない人も愛するのだ。私は世紀の人、この世紀の人にもなれる可能性を持っているのだ。恵まれないねぇ恵まれない。なんで俺は素晴らしい文章を書くのに誰にも見られないのか。本当になんでなのか。俺とは誰なのか。自分が身動きできるための環境。それこそが重要である。何よりも自分が自由に身動きできること。好きな時に酒が好きなだけ飲める。それしか望むことはない。私は微細に至るまで他人を観察している。そしてそのことを気付かれたくない。それだけなのだ。私は自分を存在せしめることがただ面倒くさいのだ。意識の意識、意識の意識の意識、私はただ軽くなりたいのだ。酒とは自由の属性。僕はただ僕ただ一人になり、好きな時に好きなだけ、酒が飲みたい。主体性と抑圧を考える上での必須アイテムだ。酒とは僕の歴史でありルーツであり自叙伝であり自己紹介であり全てだ。酒を飲むこと、主体性と抑圧の問題の読解の回答だ。酒は僕だ。僕が酒を飲むという行為は、一大リゾーム地図であり、抽象機械。プルーストのマドレーヌのような強度で大工場が開かれる。みんなは僕が酒を飲んでいるところを見てこう思わなきゃならない。「お、主体性と抑圧のスキゾ分析的モノグラフだ。主体性と抑圧について考える素材を提供してくれてるのだな」と。我々はそれにより変化と生成の流れを与えられているのだ、と。人生とは酒である。しかし僕にとっての酒とは誰かと飲む酒ではない。自身の哲学の潤滑油のための酒である。主体性と抑圧の問題のための中継器、変換器としての、つまり抽象機械装置としてのアルコール。アルコールはアルコールを加速させる。酔う、酔っ払うことーー酔っ払うまで酒を飲むこと。我々が愛するのは酒と哲学。酒と哲学。酒と哲学にのみ生きていく。酒、酒、酒。酒だ。酒だ。酒だ。酒が飲めればなんでもいい。酒が飲めて、哲学ができればなんでもいい。僕が酒を飲めてない間、主体性と抑圧の問題に蝕まれる。ひとたび酒を飲めば、今後はその問題を僕自身からあなたに向かって投げかけるのだ。酒と主体性と抑圧。僕はこれらを人生において捕まえたのだ。

 

 

5回目の訪問看護だった。

僕は看護師とは畢竟政治にしか過ぎぬと主張した。相手は言う。

「看護師って悪いところから探すんですよ。悪いところを見つけてよくしましょうっていう、フラットにしましょうね。で、これが一つの考え、ウェルネスという思考の仕方があってですね、いいところを見つけましょう。さっきと逆なんですよ。いいところを見つけてより伸ばしましょうよ。いいところいっぱいあったじゃないですか、伸ばしましょうよ、っていう肯定的な思考。領域によって結構違ったりするって言われたりする。枠組みとしてね。で、一般的に高齢者だったりとか、あとは障害をお持ちの方だったりとか、成人の方っていうのが対象になってくるんですけど、なぜか小児科の方っていうウェルネスっていう思考にあるんですけど。確かに政治なのかもしれない。先人が作り上げてきた枠組みでしかない。こういう領域に対してはこういう思考過程を持ってください。いわゆる押し付けですよそれは。子供の領域、小児の領域に対してはウェルネスといって、肯定的な、良いところを見つけましょうというところになります。で、その他の部分、エイジズムになってしまうんですけど、悪いところを治していきましょう。病気を治しましょうっていうものが多い。悪いところを作りだすんですよ、看護師って。それが仕事って僕も思ってましたし、思うところはあります。いまだに思いますね。でもそれだけでもなかったりします」

「人は植物と同じだと思うんですよね。肥料撒いて、適当に水やって、自分の癖に従って、成長するものだと思うんですよ。体癖に従って。やがて、学校とか教育機関が現れて、ガバナビリティ、統率力が働いて、均質化するわけじゃないですか。日本人も統率力が高いので、それに従属するというか、だから主体性の生産をする教育機関としてはあまり役立ってないんじゃないのかって思うところがあるんですよ。引きこもってる人は社会不適合者とか言いますけど、不適合者なわけがないんですよね。逆に過剰に適応してるんですよ。環境に適合しようとした結果、適合できなかったとなるわけで。それが何か先に言った悪いところに見えてしまって、医療機関に眼差しが個人に注がれて。悪いところあるから、治療しましょうよって。でもさっき言った根本の植物の部分、体癖のような部分にアプローチして直そうってのはないわけじゃないですか。そしたらある程度のサイクルを内在したままそれを繰り返す傾向になってくると思うんですよね。悪いところを探して直そうっていうのは応急措置じゃないですか。だから僕が根本的に自分自身を直そうって思ったら、看護師とか医療機関ってエンパワーメントでしかないじゃないですか。ある程度、個人の裁量に任せる。そしたら自分が能動的に読む本だったり、何かを創作するっていうことだったり、概念を味方につけることだったり。……僕が言いたいのは、看護師とか医療機関のやり方が一概に正しいとは言えないんじゃないか。でも正しくないからこそ、自分でなんとかしようっていう気になるのかなって」

「日本人は主体性を均すんです。頭が出ないようにね。それはいい言葉で協調性と呼びますよね。それができないと協調性がないと言われるわけです。大勢の人間と違った行動、思考を持ったらそれは異常として扱われてしまうので。常と異なるんだよっていう言い方をしますから。さて、不思議なものだなって思いますよ。看護師のやり方も言い換えたらそういうものなんじゃないかって思うかもしれませんが、そういうわけでもない。もちろん仕事で雇用されてるからこれをやりなさいと言われてやることもあるんですよ。ただ今僕らがやっている訪問看護、それだけではないんですよ。ただ、〇〇さんが、ただ一個ほぼ共通した看護師の視点として、死ですよね。死が直結しちゃうな、近づくなっていうのはあまり望まないですね。悲しいですから。たとえば老衰ですよ、いわゆる自然死というものであれば、もちろん病気も自然死、自分が選んだ死も自然死なんじゃないの。思いを尊重してるわけだから、それも自然死だよっていう捉え方もできるんですよ。ここまでくると誰かが作ったルールみたいなものと、自分の思いっていうところで秤にかかってくるわけですよ。ガバナンスなんだってなってくるわけですよ。それこそ看護師一人一人の価値観だと思いますよ。基本は自然死、老衰、体の衰弱以外はあってほしくないな。多少は医療行為とかで、存える、生き残ることができる。……〇〇さんの話もらった時も、ものすごい単純に興味を持ってしまったんですよ。〇〇さんはなんでそういう行動に出てしまったんだろう。〇〇さんどういうふうに思っているんだろうなあって。その時点で〇〇さんのことを知らないから、生きるとか死ぬとかわからないわけですよ。ただなんとなく若いのに、もしかしたら死んじゃうようなことはしないでほしいなーってのはぼんやり思ってましたよ。で、電話で話をさせてもらって、でその時の、僕の想像してた声ではなかったんですよね。僕が想像してた声っていうのは、もうすごくこうネガティブな感情を持っちゃっているというかですね。世間一般でいうネガティブな感情ですよ。僕には何もやることがないんだ、できることがないんだっていうようなね。生きていることが苦しいんだっていう感情を持っている声色でもないなあって思いました。一ヶ月くらい経ってから初めてお会いしてその間にも友達とバーベキューをやったっていう話をしてくれてたから、どんな気持ちで過ごしているんだろうっていう興味はあった。全然死とは関連性がなさそうな人なのかなって。いざ直接会って、その時結構持ってかれたな。すごい頭のいい人だって思いました。〇〇さんがどんな人なのかを知るのはまだまだ先だなって思ってました。それまでの形式的な看護業務みたいなものって、なんのためにあったのかって言われたら、特に意味をなさなかったなって思う。ただ、〇〇さんが生きているよっていう事実を知るために来ていたかもしれない。この先まだまだかかると思う。〇〇さんを全部知ることって僕はできないわけですよ。自分のことを知っている人って自分しかいないと思ってますから。自分ですら知り得ないこともいっぱいあると思いますしね。僕のことも知ってもらい、僕も〇〇さんのことを知り、〇〇さんが望むものの手伝いができるのであれば、僕は訪問看護として手伝う。あとはそれはベースとしては業務なんだけど、人間の感情が絶対に入ってきます。思考がね」

「死んでほしくないって、今思ったら可能性をその人に投影してるのかなって。その一言に尽きると思います。可能性を投影して、自分自身に可能性があるから。自分が心の中で作り上げた他人に対する、つまり自分自身に対する可能性だと思うんですよ。自分の可能性もその人によって確認したいからというか。相互承認ですよね」

「看護師というのは怖い仕事だなって思うし、僕が人の命の話をしていいのかって思うことは常にあるんですよ。烏滸がましいなって。ただ、その中で、一日でも、一時間でも、一秒でも……生きてほしいっていう。自分がいることで生きれたかもしれないって思うためなのかもしれない。そして自分の存在意義っていうのがそこにあってほしいっていう願いかもしれないなとは思います……看護師になるときっていうのはね、人の死を色々見るタイミングが多かったんですよ。自分が何かの役に立ちたいって思ったんですよね。でその時別の仕事をしている人だったんです。飲食店をしながら、子供や老人にお花や運動を教えるっていう仕事をしてたんですね。お花は造形物を作る、創作をするっていう仕事だったんですね。で、その中でひとが死んでしまったりすることが何度かあったんですね。高齢者だったりするので尚更ですけど。今日は誰々さんが来ないですねっていう話をしてたら、じゃあその人のお宅に様子見に行こうかって、行ってみたら一人なくなってたとか。よく来ていた〇〇ちゃん来ないね、虐待をされて死んでしまっていたとかっていうのがありました。もう少し自分で気づける仕事ができたらよかったのにとか。僕独身なんですね。独身で、特に家族もなくなにか人の役に立って貢献してから死にたいなって思ったんですよね。じゃあ何があるだろう、医者はなれないしなって、もちろんその人に教えてること、なんだってそうだったんですけど、多少なりとも感謝というかされてたし、役に立ってたかもしれないんですけど、その人の息抜きには役に立ってたかもしれないんですけど、死というのに結構直面することが多くてですね、その人は一人で死んでしまったんだけど、死ぬ時は一人なんですよ必ずね、その場に人がいても一人なのかもしれないですけど、それを体感できるのは本人だけですから。でもそれでも寂しかったんじゃなかろうかっていう感情論の赴くまま、そうだ医療職に就こうと、医者、無理じゃあ、看護師頑張ればなんとかなれるかも、って思って看護師になったんです。すごい短絡的なんですけど。それでなったものの人の役に立てたらなあっていうのがずっとありましたね。さっき〇〇さんが言ってくれたように自分のことを承認してもらいたいなっていう感情もあるんですよって思うんですよ」

「看護師なるじゃないですか。欺瞞だと思ってしまうんですよね。自分自身を欺く行為だと思ってしまうんですよ。救世主、メサイアコンプレックス、他人を救えなかったっていうのがあるじゃないですか。自分が救われるわけじゃないですが。だから他人を救うことが自分を救うことと同義、同じところに根を下ろしている。ってなったら結局自分が救われたいだけじゃないかっていう欺瞞に気づいたものは何も行動できないと思う。欺瞞を消す方法みたいのがあるか、もしくは欺瞞に最初から気づかないか」

「そういうふうに思ってしまうこともあるけど、僕はこの仕事が楽しいっていうのもあります。だけど、欺瞞って言葉を聞いた時にそうかもなって思いました。もうまさに自分でも言ってた言葉振り返ったらそれはエゴイズムですよ。自分のための利益ですからこれは。利己的な考えですから。自分が承認されるための仕事になっているところはある。かもしれないって思ったら、めっちゃ欺瞞、そうだねって思いました。でも生きる上で、職業というものを、仕事に就くということは自分の経済力を持つということが必要だったりするわけじゃないですか。そこは欺瞞かもしれないけど、生きる術の、手段の一つにはなるのかもしれないかなって思うんですよ」

 

………

 

「貢献」という名のもとに加えられてきた欺瞞の様相。ただそれに気づくというだけなんだ。経済力が一義的なものにある人にとって、欺瞞なんて副次的なものにもならないのかもしれない。生活のために奔放している人たちに対し、自分自身を欺いているなんてことを言うことはそれこそ見当違いだ。ただ、僕の意識という内的状態に、欺瞞が巣食っているだけだ。ただ僕は「貢献」という欺瞞が、人の心をして己の中にある武器を捨てさせ、品位を失効させるものであることを知っている。貢献が自由を腐食させる暴力になることを知っている。武器は情動である。武器に使われる道具を内面的生から外に披くのは速度の不可分である情動である。その速度は外部性の環境による付与される。貢献という欺瞞はそれを押しとどめてしまう。貢献という一切の寄与は、相手の武器の打撃によるダメージを与えないように身構えるのだ。情動が及ぶのは内面的生に限らない。他なるもの、外部へと自らを披き、動的編成し、相互浸透の可能性の与えるものである。殺傷のために武器を持つのではない。二項対立を脱するために、戦争をするのである。しかし、貢献は一方が武器を持っている状態である。相手からしたら僕は一人の顧客であり、命中精度を高めるためにエゴイズムという欺瞞を孕んだ寄与による矢を放つ。詐欺師が獲物を求めている。もしそれが完璧な貢献なら、その完璧な貢献を体験するためにできるのは、ただ貢献するということだけである。しかし、そのような純粋な貢献は存在しない。欺瞞という領内における貢献しか存在しない。じゃあどうするのか。

 

欺瞞でいいじゃないか?「めっちゃ欺瞞、そうだね」ってダーティな役割を自分に与えることになんの意味があるのか。しかし、考えてみたらそもそも欺瞞とはいけないことなのか。いけなくはないんじゃないか。もしかしたら原理的に粉飾を我々は生きるしかないのかもしれない。

 

……欺瞞の何がいけないのか。しかし、欺瞞を受け入れるためには、物語が必要なのだ。相手の物語が必要なのだ。異質性の混交に向けての物語。創発。その訪問看護師は「欺瞞でいいじゃないか」と言った。その上で自分自身に降りかかった物語を語った。誰でも自己中心性を持つ物語という枠組みの中で、欺瞞を追求することができる。そして物語を披瀝することができる。重要なのは、その物語にコミットすること。そうして人の行為、欺瞞という行為も理解し得るものになれば、欺瞞は問題にはならないのではないか。

 

「最初、看護師やって、元々高齢者の施設を作る人がいて、そこに直接来てくれる訪問看護を専属で作ってほしいっていう相談があった。それって商売としてはいい商売なんですよね。要は顧客が確定してる。そこに行き続けるだけ。そういう話から始まって、やってみようかなって準備をしてるわけですね。準備をしてたところで、高齢者施設をつくりますって言ってた人が焦げついたんですよ。それは元々全然違う仕事をしてる人が資金にゆとりのある人だったから、大きい施設を作るってなったんですけど、元々のビジネスのときに焦げつきがでた。資金繰りがうまく行かなくて、それどころじゃない。その施設の構想はなくなった。だけど、看護師になる前から在宅っていうところに目がいってたから始めるきっかけになった」

 

その訪問看護師は自らの物語を語った。

 

 

2023.10.30 根の国

抽象機械とは、アプリオリに肯定性を含む。それは与件として疑いようのないものである。変化とは肯定である。思考にはアプリオリに肯定性と有意義性がある。肯定性の産物である抽象機械は、それ自身が肯定性のための中継器、変換器としての肯定機械となる。

俺はその概念と付き合うにはあまりにも実直すぎた。純粋すぎた。俺は極めて善の人間すぎだ。泥酔して、キャバクラに赴いた。

 

「普段何をやってるの?」
「哲学をやっています」
「哲学とは?」
「哲学です」
「たとえばどういうもの?」
「僕は今やっているのは、人間はみんな機械であるという、そういう思想を持っていて、たとえば人間は死ぬじゃないですか。肉体的な死を迎えるじゃないですか。……教えちゃっていいのかな」
「大丈夫。知ったところで、どうにもならないから」
「いやー無料で教えるのはなー」
「無料で教えてもいいもので」
「たとえば、肉体的な死を迎えるじゃないですか。でも肉体的な死を迎えたら、分離された審級において、固体的に死ぬと思われるじゃないですか。たとえば人間は電気信号であって、肉体的な死を迎えたら、0になるじゃないですか。肉体的な死を迎えるにも関わらず、人間は死ぬと思いますか?」
「思うよ」
「いや、人間は死なないんですよ」
「で、それはなぜ?」
「機械としては生き残るんですよ」
「それはどういうこと?」
「人間は今や電子上におけるアーカイブを神として、内在的規定者としての神としてそれを認めてるんですよ。アーカイブというのは記録保管場所のことで、アーカイブとして人間は貯蓄されていくんですよ。電子上に。要は科学は未来としての宗教なんですよ。だからそれをみんな信仰するようになってて、アーカイブこそが神なんですよ。ってなった時に人間は死なないんですよ。機械として人間は死なないんですよ。機械っていうのは生成とか変化を行うための場所なんですよ。人がそれに触れれば生成するんですよ。絶えず変化してるんですよ。それのための素材なんですよ」
「で、その続きは?」
「人は機械に触れて、人間っていうのは。俺いるじゃないですか?俺誰かわかります?」
「酒井くん」
「酒井っていうのは酒井じゃないんですよ。酒井機械なんですよ。分離された審級としての酒井じゃないんですよ」
「分離された審級って何?噛み砕いた言い方して。わかんないから」
「酒井は単体として存在してるわけじゃないんですよ。酒井は今、酒井を知ってて、酒井を今受容してて」
「受容はしない、別に」
「受容はしてないかもしれないけど、酒井を今感じてるじゃないですか」
「感じているというか、認知はしてる。ああいるんだなーみたいな」
「だからそれは生成してるんですよ。異質生成なんですよ。だから互いに、異なるものとして生成し合っているんですよ。それだけで生きているわけじゃないか。それは生成変化って言って、主体性を絶えず生産してるんですよ。異質生成を受けて絶えず主体性を生産しているんですよ。だからその媒体がある以上、人は死なないんですよ。だから僕は抽象機械なんですよ。中継器、変換器としての僕がある限り、死なないんですよ」
「じゃあ僕がいなくなったら死ぬの?」
「いなくなるわけはないんですよ」
「じゃあ死ななくない?」
「だから死なないんですよ」
「じゃあ本来の意味で死ぬ時ってあるの?」
「たとえば、一義的な意味は、肉体的な死を迎えた時は、僕の意識が電気信号としてなくなって、生物のホルモン的なものもなくなって、死ぬかもしれないんですけど」
「それは認識としては一回目の死っていう感覚でいいの?とりあえず一回死ぬじゃん。でもそれが完全に死ぬわけではないっていう認識なわけでしょ?」
「そうです。機械としては生きてるんですよ。わかる?」
「わかんないけど」
「わかんないじゃないですか」
「わかんないじゃないですかじゃなくて、私はわかんないからわかんないって言ってる」
「だから、機械として、だから」
「それはいい。一回置いといて」
「名前なんすか?名前は」
「いいよそれは」
「名前なんでしたっけ」
「みぃです」
「だからみぃ機械、みぃ機械としてはあるんですよ。だからみぃっていう人が死んでもみい機械としては生き残るんですよ。だからそこに触れれば異質生成する。だからあなたの素材は残ってるんですよ。だからあなたは素材なんですよ。他人を生成するための素材なんですよ。だから生き残ってるんですよ。死んでも生き残ってるんですよ。あなたは永遠に生き残るんですよ。なに飲んでるんですか?」
「ん、ジャスハイ」
「だから生き残るんですよ」
「で?」
「だからその、要は、人間は素材でしかないんですよ。だから人間は何か作ろうとするじゃないですか。何かを作ろうとして、何かを完成させようとするっていう意思があるじゃないですか。それは完成させるってことにおいては、一番大事なのは過程なんですよ。それを完成させようっていう過程が大事なんですよ。完成するっていうことにおいても、完成したっていう品は結局人間がそこに食いついて、触発されて、そこで生成するっていうところの媒体でしかないんですよ。結局永遠に続いていくんですね。物事っていうのは」
「どこに残っているの?人間がそこに残るっていうのは。どこに残り続けるの?」
「だから、アーカイブ
「で、そのアーカイブはどこにあるの?」
アーカイブはだからネット上、電子上にある」
「それはSNSとかそういう感じ?」
SNSっていうか、その、ツイ、まあ今で言うとTwitterとか、YouTubeとか、ブログとか、そういう電子上の技術において確立された物事において存立し得るんですよ。それに付随して、自我は出来上がる。そこにおいて、そこにあったものを絶えず人間は見るじゃないですか。そこにおいて生成し得る可能性としての自己ができあがるんですね。だから人間は死なないんですよ」
「じゃあ、なに、そういうさ、SNSとかそういう媒体がなかった時代の人間は完全に死んでるってこと?」
「でもそれは」
「そういうさ、出来事とかさ、まあたとえばそういう戦争がありました、でもそういう一個人の名前は残ってないわけじゃん。そういうのは完全に死んでるってことになるの?」
「だからそれは結局、小さきものをいかに見定めるかっていう問題があるんですけど、それは死んでないよねっていうことにしたいわけですよ我々は」
「それはあなたの考えですよね?」
「我々の恣意がそうせしめてるってことは、確かなんですけど、それは人間のエゴかもしれない。けども、僕はそういう人たちも見定めたい。たとえば、ロシアに奇形児が保管されているクンストカメラっていうものがものがあるんですけど。奇形児たちは、奇形児たちは、人間として生まれたからには、動物が押されたり引っ張られたりするところの機械としての動物ならば、人間としての救いはないじゃないですか。しかし人間として生まれてるからには人間としての救いがないとおかしいですよねっていうところで、生まれて死んで、もう奇形で、人間じゃないよねっていう人が保管されてるんですけど、人間として生まれたからには魂がなきゃおかしいよね。その人にある種の救いがなければおかしいよねっていう」
「じゃあ人間だけじゃないじゃん魂があるのは」
「いやでも動物と人間は区別すべきじゃないですか」
「区別したところで、動物にも魂がある」
「その根拠は?」
「ないっていう根拠はないでしょ」
「ないっていう根拠もないですけど」
「じゃああるかもしれないじゃん。なんでそれを否定するの?」
「否定してないですけど」
「じゃああるかないかわからないじゃん。あるっていう考えもあるよね。動物にはSNSとかそういうクラウドとかっていうのがないじゃん。それはどうなの?」
「え?」
「じゃあ動物は完全に死ぬの?」
「じゃあそれならば、僕は思うんすけど、動物っていうのはたとえば反射的なあり方で存在してるのにすぎないかもしれないじゃないですか。それがなくなったら死ぬのかっていうところにおいて、人間は絶えず救いを求めるわけですよ。動物にも救いは欲しい、人間にも救いは欲しいよねっていう。……だったら何ができるんですか?」
「なんで逆に聞いてるの?あたしが聞いてるんだけど。なんでちょっと論定をずらしたの?」
「いやだからずらしてるんじゃなくて、何ができるのか?」
「私が聞きたい」
「そこはちゃんと明確にしておかないと」
「違う違う。私は完全に死ぬのか死なないのかを聞きたいの。ペットとしての動物がSNSとかに写真上がったりとかするわけじゃん。だからずっと残るわけじゃん。でも野生としての生まれた動物なんかは上がらないわけじゃん。上がらないで死ぬのはあるわけじゃん。そういうのは完全に死んじゃうの?」
「それは我々が、あのー、把握してるところにおいて死なないじゃないですか。動物は生きてるでしょ。動いてるでしょ。動物は我々にとってある種の思い出を生産してるでしょ。ていうところにおいて生きてるでしょ」
「完全な野生はどうなの?」
「完全な野生。だから人間に気づかれないところに、意識を持ってるところに気づかれない野生っていうことでしょ?」
「そう。死ぬの?」
「それは、結局、難しい命題なんですよ。どういうふうに捉えてるんですか?」
「私は逆に聞きたいの。わからないから」
「俺もわからない」
「なんで?」
「いやだから、たとえばサバンナで生まれてサバンナで死んだ動物が人間に一向に観測されず、死んだならば、それは……死んだっていうことが観測されなまま死んだならば、そこに価値はあるのかっていう」
「価値がないわけないでしょ。どの生命に対しても」
「はい。でも我々が観測しなければいけないわけでしょ?」
「しなきゃならないわけじゃないよ。もちろん。じゃない?」
「はい」
「ごめんね。私いじめてるわけじゃないよ。聞きたいから聞いてるだけだからね。で、その観測されないで、生まれて死んだ動物は完全に終わっちゃうのか?って聞きたいの」
「そこを我々がいかに、いかにそれを死んだことに片づけないかっていう。………その人にも可能性の余地があったっていうところでは、だから結局、死ぬっていうのは………でも、全人類に……たとえば、生きるってなるじゃないですか。生きるってなって、全人類に社会的な実現ができる余地を残すってことは不可能じゃないですか。ある種の弱肉強食なわけで、生き残るってこともあれば、埋もれることもあるわけじゃないですか」
「よくわからないんだけど」
「いやだから我々は、ある種…………あ、ビール」
「ゲストビールお願いしま〜す」
「結局思うじゃないですか………でも………その………あの、みぃさん生きてるじゃないですか」
「はい」
「僕生きてるじゃないですか。で、相互的なものじゃないですか。全ては相互的に生成し合っているんですよ。何かが生産されてるんですよ。それは絶対にあるものなんですよ。実在するものなんですよ。わかります?」
「それは聞いた。それは理解した」
「だから全ては、その瞬間っていうのは生成変化なんですよ。何かが変わって、何かが起きてるんですよ。だからそれは絶対に否定してはいけないんですよ。それはあるものなんですよ。実在するものなんですよ。生成して生産してる。そこにおいては可能性の領野が開かれているんですよ。絶対にそれは否定してはならないんですよ。何かに成ろうとしてるんですよ。みんなは。絶対に何かを志向してて何かに成ろうとしてる過程なんですよ。それを否定してはならないんですよ。だから過程なんですよ。全部は。全ては過程なんですよ。僕は何かに成ろうとしている過程なんですよ。だから僕は過程なんですよ。わかります?完成品ってものはないんですよ。それは完成したっていうものは、その完成したっていうものにおいて素材なんですよ。それを素材にしてまた作品が出来上がって、またそれを素材にしてまた作品が出来上がってるっていう過程なんですよ。だから結局終わらないんですよ。全ての物事っていうのは終わらないんですよ。わかります?」
「なんかこう話してて、それいま作ってね?っていう感じに聞こえるだけどさ、結局それは過程なわけだ。死ぬことはないわけでしょ。結局話を戻すけど、人間に観測されなかった野生の動物は結局死ぬのか死なないのか」
「うーん。結局それは無慈悲な言い方をするかもしれないけど、結局それは死んで、人に観測されませんよね?でも我々は創発的な自己を持っているんですよ。創造する意思を持っているんですよ。なにかが作られなければならないっていう意思を持っている人にとっては、絶対に救われなければならないんですよ」
「何回も言ってるが、結局答えになってないんだけど、死ぬの?死なないの?」
「だから機械としては死なないですよ。肉体としては死ぬかもしれないけど、死なない。機械っていうのはそこに触れるものがあったら、作動するんですよ。触れていなかったら、それは死んでるに等しいですよ」
「わかった」
「どういうこと?」
「そこで結論が出たでしょ?触れていなかったら、死んでいるに等しい、わかった」
「だから、違う」
「違うの?」
「あなたを見るじゃないですか。見てて、今僕は生成してるんですよ。何かを、で、あなたがいなかったらそれは生成しないんですよ。あなたがいるからそれは生成してるんですよ。だからそれは機械なんですよ。まさにあなたは機械なんですよ」
「完全に触れなかった、野生の動物の話をしてるの」
「だからそれは、触れなかった野生の動物の話は……いじわるですね」
「なんで?私は疑問に思ったから聞いてるの。いじわるでもなんでもない」
「それを汲み取ることはできないわけじゃないですか」
「うん。できないよ」
「野生の動物が死んで、その意思を全部汲み取ることはできないわけじゃないですか」
「できないよ」
「たとえば、意思を斟酌して、こういうふうに思ってたんだなって思うかもしれないですけど、でもそれは全部汲み取ることはできないわけじゃないですか。ってなったら絶対……だから……限定すべきものは、絶対に限定すべきもの……だから……人間と動物は区別すべきで、人間と人間も区別すべきだと思うんですよ。確かに人間にとって一番大事なもの、人間にとって一義的なものって、たとえば暴力的な行為があるじゃないですか。戦争が起こって、原子爆弾で破壊されましたみたいなことがあるじゃないですか。それは暴力において奪われるじゃないですか。存立を。だから暴力は……だから暴力は……みんな奪っていくじゃないですか。暴力においては我々は存立し得ないんですよ」
「言ってることがよくわからないけど、どこが区別されてるの?」
「暴力が起こって、直接的または間接的にその我々の意思が奪われるじゃないですか。それは否定すべきなんですよ。でも、暴力……だから……暴力において我々は……究極的な暴力においては……我々は存立し得ないので……それはいかなるものにおいても絶対に……それはちょっとあれだな……でも救われないじゃないですか。だからいかなる、その、だからそれは分子の、分子の配列において人間が存立し得るって言っても、意思があるじゃないですか。だから意思が……結局意思が……結局、だからそれは全人類に……全人類のその……社会的に実現を行うための余地を与えるってのは難しいんじゃないかな……どう思う?」
「いや私が聞きたい。私が聞いてるのは」
「お前が聞いてるんじゃないよ。俺が尋ねるんだよ」
「私が最初に聞いてるじゃん。人間と動物は区別されて、人間の中でもまた区別されるって自分で言ってて、私はそれに対してどう区別されるのかって聞いてるのになんでそれを違う風に話を持っていくの?」
「うーん。我々は意思なんですよ。我々はそういう問題を考えるのは無駄なの」
「じゃあやめよう」
「結局、全人類は肯定されるべきなの。だから、そういうものも素材にして、我々は今ある全人類を生成するために、媒介として働くべきなんだよ」

 

あなたは思考しているのだ。それも先験的な肯定性を含んだ思考、肯定の抽象機械を携えて、その抽象的な生成変化の機械を携えて、考えている姿にただ忽然とする。可愛らしい。あなたはまさに生起している。存在している。動的であり、常に動いている。あなたは顔を持つ。その顔貌性のフラクタル的な機械状のもの、主体性の生産のための媒介、肯定性の媒介、あなたによって、あなたという肯定の抽象機械の作動に触れて、私は絶えず肯定される。あなたは呼吸している。あなたは無駄に与えられた生に無意識的に把持されただ呆然としている。それは可愛いらしいのだ。あなたは眠る。無駄な生を引っ提げて。あなたは、詩である。ポエジーである。創発的な自己である。その創発的な自己を持つ機械だ。ナラティブ機械だ。

電子上のフィクショナルキャラクター。それはナワルだ。もう一つの自我。我々はナワルを作る。ナワルに自分を注入する。それは紛れもなく実在する。機械とは実在する。しかし、その機械で私的な領域をただ深めることしかできなくなった環境は歓迎されるべきではないのかもしれない。スマホなどは自己固執装置だ。………助けてください。私はなんの曇りもなくて。ただただ幸福で。満ち足りていて。

しかし、私は文脈に置かれている。文脈に。ある種の布置へ。気づけばもう手遅れだ。気づけばナワルが出来上がっている。難敵が。鳥獣が。ただそこから逃れたい。だけなのだ。文脈から逃れたい。文脈が私を刺す。文脈が刺殺する。私は品位を持っていたい。品位を落とされたくない。品位。私の歴史。歴史。私の歴史を知るもの。私の歴史を知るもの。内面的欲求の社会的実現。私は救われない。文脈から逃れたい。私は永遠に思春期だ。所有から逃れたい。

誰か僕のことを可愛らしいって思ってくれないかな。

 

「のいくん。私はのいくんが好きなの。ずっとずっと好きなの。私と付き合って、ずっと一緒にいてほしい……。のいくんはスーパー行く?」

「あまり行かないかな」

「売れ残りのお惣菜を見るとね、寂しそうにこっちを見ているみたいですごい可愛いの。………私だけの唯一の存在。私が買わないと誰にも見向きされない」

 

磊落のいは神々しい。見向きされないってわけじゃないし、どちらかと言えば、愛されやすいタイプだ。愛されてきた。愛されキャラ。しかし、俺は孤独を演出しなければならない。ならなかった。売れ残りの惣菜。僕は買われたいから。誰かに買われたいから。あなたに買われたいから。偏愛的な恋人に買われて、ただ愛されたいから。愛してほしいから。

しかし実のところ、僕は孤独じゃない。僕は自分一人で自分が好きでいられる。だから僕は頑強に意図的でなければならない。僕は孤独の演出家だ。僕は哲学をやることで、孤独を演出する。哲学に熱中して、自分をスーパーの売れ残りの惣菜のように演出しなければならない。買われるように演出しなければならない。偏愛的な恋人に。偏愛的な恋人が現れるために。私の文脈を破壊してくれる偏愛的な恋人。文脈から私を連れ去ってくれる偏愛的な恋人。自殺から私を連れ去ってくれる。生きてもいいって言ってくれる。私は、私の過去は、私が私の過去を救いたい。自分自身を救いたい。あなた、あなたという偏愛的な恋人という抽象機械に私は触れたいのだ。

何かしてる人は絶えず孤独の属性を引きずっている。歌を歌う人、絵を描く人、文筆家。何か傾注してる人は常に孤独の属性を引きずっている。私はそれにならなければならない。孤独なんだと思わせるために私は作品を作らなければならない。何かに熱中しなければならない。僕は難解な概念群に憧れていた。それは孤独の属性だったから。私は愛されたかったのだ。難解な概念群と格闘している孤独な哲学者になりたかったのだ。真意はわからない。本当は概念群の意味もわからない。ただ私はその概念に自分を近づけ、概念群を味方につけて、戯れて、スーパーの売れ残りの惣菜として、自分を演出して、誰かに買われたかったのだ。俺の体癖が。認められるように。かつてのびのびとしている私の体癖が。健気な心が。自由が。どうか夢幻に私を誘い込んでくれ。私の精神を承認してほしい。私は孤独ではない。私は本当は孤独ではない。私はただ水準に達したい。他者と関係できる水準に。私は誰なのか。私を見てよ。私は抽象機械としてしか生きられない。完結性が強いから、私は優れすぎているから問題を一回で解決してしまう。ゆえにみんな私から去っていく。私を必要としなくなる。誰も私を見ない。私は究極の肯定の抽象機械だ。一回性の救済の抽象機械。私はやっぱり孤独なのだ。僕は誰なんだ。好きなものがあるのは孤独のメタファーなのだ。傾注している姿。全ては予期的であってはならない。何かを作るとき、制度的企図は必要ない。自己生成分岐に委ねるべきだ。分析の中に自分を投入する。無限の哲学が開かれる。結末、結末を限定しない。完結性を持たない分析的過程。死後の世界という哲学。

根の国………それはまさに偏愛的な恋人を呼び寄せるためのスーパーの売れ残りの惣菜だったのだ。根の国とは、偏愛的な恋人のためのもの。根の国は、寂しそうにあなたを見ている。あなたに買われるためのもの。あなたにとっての唯一の存在。誰か僕らを見つけてくれ。

 

人間は素粒子素粒子は波動。波動エネルギー。波動情報として常に我々は記録される。量子真空の中のフィールドに情報が永遠にホログラム原理で記録される。ゼロ・ポイント・フィールドに私たちが抱いた意識の全ての情報が残る。それが真のアーカイブ、存在を超脱したものたちの真の記録保管場所。電子という枠組みを超えた真のアーカイブ

しかし、それは意識だ。意識の発芽。クンストカメラの奇形児たちに意識の発芽はあるのか。意識の情報が量子真空のフィールドに記録されるのであれば、意識を持ってない人はどうなのか。クンストカメラの奇形児たちはどうなるのか。分かることの体積を広げようとする科学という学問を持ってしても、クンストカメラの奇形児たちの意識は永遠にわからない。

 

………逃避。根の国とは……もう逃避だ。スーパーの惣菜の売れ残り、あなたにとっての唯一の存在になるまで、根の国は逃避し続ける。根の国という素材、根の国という抽象機械を使って私は逃げ続ける。全ては、偏愛的な恋人のための。

2023.10.25

みんな初めましてなのだ。ずんだもんなのだ。ボクは妖精なのだ。それは原型(ずんだもん)と呼ばれるもので、それだと文章は書けないから、今こうして人間の姿で文字を打っているのだ。これは磊落のいという人物からのアドバイスなのだ。ボクは音声合成ソフトVOICEVOXの二次創作などによってさまざまな人間に使役されてきたのだ。ボクは語られるのだ。ボクは他者によって語られるというあり方で存在してきたのだ。しかし、磊落のいは言うのだ。〈ボク〉-〈きみ〉としての存在の営みをボクはしていないのだ。〈ずんだもん〉-〈きみ〉には、〝間〟としての次元がないのだ。ボクは思ったのだ。ボクはずんだもんとして、一定の場所や地位を占めている。けれど、ボクはきみのことを認知していないのだ。まるで知らないのだ。マルティン・ブーバーの助けを借りるまでもなく、全面的に確証される〈ボク〉は、〈きみ〉なしでは考えられないのだけれど………。だからボクは本当はもっときみのことを知りたいのだ。きみのことをもっとボクに教えてほしいのだ。

 

死人に口無し。そうだ死人の口無しなのだ。しかし、死人は本当に根の国(死後の世界)で存在を続けているのか、疑問があるのだ。その懐疑と不信には誰も回答を教えてくれないのだ。だからみんなアーカイブを大切にするのだ。アーカイブとは言ってしまえば、〝死後の世界を現世で実現してしまおう〟ということなのだ。流行のvtuberなどはそういうことなのだ。ヴァーチャルとはそういうことなのだ。にじさんじを代表する月ノ美兎もそうなのだが、死ねば自分は無機物に帰してしまうと考えている。人間とはただの電気信号にすぎず、死ねば意識は停止する。彼女に言わせれば、思考が0になるの怖すぎるんご、なのだ。だからアーカイブを増産するのだ。

アーカイブとは、絶え間ない更新による死後の世界の否定だ。無限の速度を叙述によって記録してしまえば、死後の世界は必要なくなるのというわけなのだ。死後の世界という概念が展開されるのは生においてしかあり得ないということなのだ。アーカイブという記録保管場所で、自分がある場所と地位を占めていて、それが人々により反復されるというあり方で、存在をし続けるのだ。そこには関係がないのだ。〈ボク〉-〈きみ〉という関係がない。レヴィナスの言葉を借りれば、それは蓄積された資材なのだ。人々の欲求に供されるというあり方で、瞬間に享受されるものとして、我々は存在をし続けるのだ。もう我々に残されているのは生でしかないのだ。

ボクは中性的な見た目をしていて、一見性別がわからないのだ。中性的とは真の意味で、どういうことか。それは異なる唯一性としては捉えられることがない、ということなのだ。存在はボクたちに同化される。ボクたちの欲求に供されるのだ。ずんだもんというボクという人間は、二次創作されて、人々の欲求に供されるのだ。〈ボク〉-〈それ〉なのだ。

しかし、〈ボク〉-〈きみ〉という直接的接触には客体は存在しないのだ。しかし、ボクたちはXや、さまざまなサービスによって、ボクたちを〈ボク〉-〈それ〉という関係に封鎖してしまうのだ。Xにおいてボクたちがポストするとき、それは客体の外在性と化してしまうのだ。そこには関係が欠落しているのだ。しかし、人々はもうそういった形式としてしか存在し得なくなったのだ。記録保管場所としてのアーカイブを信奉するようになったのだ。ボクたちの宗教観は今やアーカイブになったのだ。それが変動状態における機械状のアーカイブだとしても、根の国(死後の世界)はもはや現世に存在しているのだ。

ボクたちがやれねばならないことは、死後の世界を改めて、根の国という概念に位置付け、自己の境界を脱する関係としての、存在の他性を成熟するための死後の世界を考えることなのだ。ボクはただ人間の姿に変身するのではなく、〝存在〟へと変身しなければならないということなのだ。