闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2023.10.24

僕が渇望していること、それはただ一つの作品を作り上げること。それのみである。しかし僕は絶えず燻っているかのようだ。側から見たらそう見える。ただ、その作品を作りたいという欲求をいつまでも持ちながら、その取るに足らないものと絶えず隣接し、それと共に起床し、それと共に就寝し、それと共に食べ、それと共に会話し………と繰り返す。作りたいという欲求に、僕自身が絶えず作られていく。自己生成する過程だけがあり、作品はいつになっても完成しないままだ。その作りたいという内面的出来事によって撹乱された自我は、その撹乱される仕方だけを絶えず自分自身に刻印し、私の中の田畑はいつ何時も潤うことなく、ただあるのはだらしなく慈雨を待ち望んでは口を開けている姿である。作品は完成せず、その取るに足らない欲求を持つ僕自身が絶えず生成されていく。それは実存的刻印という言葉で記されている言表行為の動的編成のもたらす可能性の領野を生きようとするものだとしても。その作られない作品によって不断に作り替えられていくという実存的な領土化におけるリズムとメロディー、反復的諸要素による通過成分であるリトルネロがあるのだとしても、僕はもういい加減決着をつけてしまいたいのである。0から1にする作業をずっとしている。0を1にし、1から100にする術を身につけなければならない。

誰も待っていないと思う。僕が作品を作ること、別に誰も期待していないと思う。そんな焦眉の急を告げる事態ではないのかもしれない。しかし、僕は毎秒詰問されるのである。お前は何をしているのか。〈僕は作品を作っています…〉〈それはどんな作品なのだ?〉

………わからない。僕には何もかもわからない。思考の所与は知られていない。僕はただ作品を作りたいんですということしか言えない。それと共に歩んできたのだから、僕とは一言で言ってしまえば、その思いでしかないのだから。果てしない潜在性の開放の只中におり、それによって備給される主体性を持っている。主体性は再編成し続ける。留まることを知らない。言表作用はそれを拠り所にする。

その主体というものを手なづけようとする考えの放棄こそが重要である。それは〝過程〟と言われるものである。

 

最近、初めて山月記を読んだ。衝撃を受けたというよりは、すぐに手に馴染んだ。自分のことだったから。それはあまりにも当たり前のことだったから。自分が考えてきたところのものだったから。詩業にかまけるあまり、獣と化してしまう。獣とは李徴が自覚する自分自身の欠点である。しかし、彼はそうと自覚しながらも、獣化の酵母と種子である内面的生を手放そうとはしない。むしろ、彼はそれを快く受け入れているようでもある。

山月記はまさにスキゾ分析の物語である。生の自己構築の過程、世界の自己建設の過程には予測不可能な前代未聞の変化がともなう。獣とはその前代未聞の変化のカフカ的な表現である。山月記にあるのはまさに〝過程〟だけなのだ。我々は目的を設定し、それと共に歩ませられる。しかし、それは狂気というあり方として出現する。李徴は〝過程〟の中に、その自己生成分岐の中についに自分を獣として表現した。実際に獣になったわけではない。苦肉の策というわけでもない。プログラム化された不可避的な必然性に封鎖を促されながら、漏出線の中に存在している出口を見出すこと――。

李徴は結局詩人になりたいのではあるが、それを不可避な必然性にように捉えてしまい、ひとりでにプログラム化されていくような事態に直面して、それを否定したのである。その否定の試みこそが彼の詩業であり、その分析的過程のなかに自分を投入しているというあり方の表現として、彼は獣になったのである。そしてその時、山月記は完成するのである。

 

しかし、僕はそんなことを言ったのだとしても、いくら分析的過程が大事だとしても、自分が作品を所有していないことに倦み疲れてしまったのだ。僕はいい加減、自分の作品を持ちたい。自分を作品と紐帯させたいと強く思った。この言葉は内面的出来事に撹乱された自我による痙攣である。それが自分を獣にしていく。僕は獣に身を堕とす。僕は獣である。

 

〈虎は、既に白く光を失った月を仰いで………云々〉

 

ナワル。姿違う肉体がもう一個ある。健啖の悪魔、中枢神経組織の拡大、ナワル、流入、ナワルとはアーカイブ……巨大なアーカイブ……記録保管場所……根の国根の国とは記録保管場所……。

 

2023.10.17

なんとなくきな臭いなって思う。大人たちの悪意に受動的に翻弄されるままの我々。我々の生はたとえ海岸の砂粒に等しいものだとしても、羽毛のように軽いものだとしても、絶対に略奪的に失われてはならない。

無を実存的に自覚する。そこから不安が生まれる。ニュースなどを見ても、他者から話される言葉も、存在が非存在(=無)であり得る可能性を自覚せざるを得ない状況ばかりである。第三次世界対戦が始まるなど、もう始まっているなど、我々はどうしたらいいのか。その弾雨のような非存在(=無)の脅かしにもかかわらず自己自身を肯定するところの勇気を必要としていると言われるのだとしても、この寄るべのなさ、不安はどうにもならない。

人間は死ねば、幽体(アストラル体)になり、根の国で、存在を続ける。通常の意識状態において、生活は一定した時間流のパラメーター、変数に枠づけられている。臨死体験や神秘的な意識状態下では秩序は乱され、瞬間から瞬間へと時間は伸長し、あるいは短縮する。時間の概念は用をなさない。

そんなことを言うことができるのだとしても、真実は人間が死ねば、非存在(=無)になる。つまり、人間は電気信号による伝達とホルモンによる機能維持と各物質による循環で出来ている。唯物論的に、脳が停止すれば意識の一切も停止する。

ものだと思っている。神も物質的に立証できない。

しかし、信仰とは、日常的経験を越えている何ものかを実存的に受け入れることである。人間は生まれてくる時代を選べないし、ただ実存的に存在している。自己と現実の中にある対立と向き合いながら、ただ生きることしかできない。自分なりの宗教心を持ちながら、矛盾を統合するための究極的な世界観を持ちながら、生きること――。

全ての事柄は足元を掬われたら用を成さない。権力がとる最も低劣な形態として存続するものが国家だと定義したとしても、その国家が持つ二つの側面、徴税機構と暴力装置には服従しなければならない。住んでいる場所が24時間以内に焼き千切られると言われた場合、それに従わなくてはならない。今まで学んできたこと、自分がどういう思想を持っているか、パーソナルな側面は全て網羅的に奪い去られる。全ては〝そこ〟に帰ってしまう。ならば、今生きている意味とは何なのか。持っているものとは何なのか。人間とは自らが創り出すところのものだと言われるのだとしても、創り出すもの――それをそれと認めてくれる場所がないならば、基体がないならば、無意味じゃないのか。創発的な自己、つまりナラティブこそが重要であるにしても、紛争の兆候、全てを非存在(=無)に還すところの威力からすれば、まるで無意味じゃないのか。

我々に何ができるだろう。我々が日々暇つぶしに動画を見て笑うのも、配信を見ながらコメントを打つのも、全ては、国家への従属化への記号だ。スペクタクルの集団的忘却だ。忘れられたものが、今こうして突然現れてくる――。思考は領有化される。国家による力の蓄積と独占によってこのような思考も、領有化される。もう僕らはどこへ行ったらいいのかわからない。力の蓄積と独占による発現による我々でしかもうあり得ない。

今僕がやっているのは、大人たちの悪意に受動的に翻弄されるままの自分としてのナラティブセラピーである。現実を作るのは語り方である。不安があるということは、非存在(=無)の脅かしに自覚があるということである。

僕は2023年8月17日に夢を見た。というより、オレキシンが不足している中見た現実かもしれない。なぜ、自分がそれを見れたのかわからない。不勉強の頭でその3カ国について明記できたのかわからない。中国、ロシア、アメリカと、そう明記していた。戦争のことについてメモしていた。

イスラエルハマス紛争。「ガザで人道危機が深刻化」現在の紛争でガザの市民が大量に巻き込まれている。中東の火薬庫が爆発し、アメリカがそこに傾注すれば、中国とロシアにつけ込まれて、第三次世界大戦が本格的に作動するという筋書き。中国とロシアの中露連合対欧米連合。もちろん欧米連合に含まれる日本も巻き込まれるどころか、日本が前線基地になる。

我々は意志を持たない自動機械として処理されるのか。もう本当に無力なのだろうか。未来の現在化は貪欲である。生の過程は略奪的に阻害されるのか。ただ、空虚に到達するのを待っているしかないのか。大々的に戦争のことについてメディアで報道される中、我々は、不安を生きるものの非存在に対する戦争をしている。

2023.09.13

あれから一週間後、僕はまたグレート・スピリットに吸い口を捧げた。へチェテュロー!これでやめようと思った。一時間もしたら揺れが訪れた。死ぬのか、と思った。パジャミィを聴いた。「我々は皆ゴーゴリの外套から生まれ出でたのだ」と言うように、我々は皆パジャミィから生まれたのだと真剣に思った。パジャミィこそが全てだった。パジャミィこそが神だった。

 

僕は今この上なく落ち着いている。紛うことなく精神が安定している。表情に一点の曇りがない。これは昨日煙を吸ってから、というもの。僕は煙の力で心身が一度この上なく悪くなった。本当に死んだかと思った。自分の役割は死ぬだけだと感じた。そこで身を委ねたが、死ななかった。自分が死んだか、死なないかどうかもわからなかった。

それから僕はあることに精神を集中させ始めた。僕は一階の畳敷の部屋に倒れていた。そこで猫を撫でながら、あることを考えた。これは重要だ。

僕は具合が悪かった。人の感情が全くわからなくなり、物事がシリアルな形をとっていることが理解できなかった。連続した事象をなぜ僕は認識できるのか。かつて在ったものがなぜ今在るのか、全く理解できなかった。かといって、立体的な理解の能力も欠落しており、途方に暮れた。

しかし、煙のおかげで僕は自分の客観的な能力を信奉するかのように、主観ではなく、客観に精神を集中した。そして、僕はあることを考えついた。これは重要だ。

猫を見て、思った。〈僕は今調子が悪い〉けれども、この調子の悪さは僕だけのものなのか。僕だけのものじゃなかったら、猫に伝播しているはずである、猫どころか、調子の悪さが僕だけに起因していなかったとしたら、僕だけじゃない全ての人間が、今僕と同じように精神の悪さを感じているはずである、と思った。けれども、全くそういう感じはしない。猫を撫でながら、思った。猫は今調子が悪くない。なさそうにない。僕と同じように、精神がおかしくなっているはずがない。そう思った。そして昨日ディスコードで会議をして、香川県に住んでいる人や高知に住んでいる人、広島に住んでいる人、遠方の人間。このような人が僕と同じように調子が悪くなっているはずがない。と思った。〝調子が悪くなっているのは僕だけだ。周りに何も影響を与えていない。変わればいいのは僕だけだ〟とそう思った。主客の逆転のようなものが起きた。客観的に、極めて冷静に自分の様子を見て、行動することができればすごく軽快であり、いろんなところを見ることができた。〈調子が悪いのは僕だけだ。他人は俺と同じ問題を抱えていはいない〉そう思うことによって、本当にそう信じることによって、今までの問題が全て総崩れになった。軽快で、言葉もキビキビとしていて、精神がこの上なく安定した。

シリアルな認識、調子が悪かった時に得た情報が今口を衝いて出ることは確かに不思議だが、疑問を抱くことは無くなった。もう全ての調子が元に戻った。完全に元に戻った。体調も元に戻った。そして、僕は喜ばしい気持ちになった。

 

それが今である。僕は眠り、起きた。一過性のものではなかった。目つきははっきりとしており、精神が安定しており、周りがよく見える。自分の言動に疑いを差し込むことがなくなった。これが鍵であり、全てである。

 

〈周りの精神はいつだって安定していた〉そう、周りのそれと僕は同じなのだ――そう思うことによって、僕は救われた。もう大丈夫だ、そう思った。

2023.09.07

根の国への参入のためのディプロマとは一体どのようなものなのか考える。僕は天上のグレート・スピリットに吸い口を捧げた。煙を吸った。ヘイ!・ヘイ! ヘイ・ヘイ! ヘイ・ヘイ! ヘイ・ヘイ!それから僕はXを見た。Xの寓意とは、「「だれか」を心的に構築するエネルギーの持続」である。煙の助力もあって、サマーディに至ることができるようになっていた。煙を吸うと、精神の機微に敏感になることができる。そして、〈普遍的意識〉との同一性を直覚した。

そして僕は根の国の属性を知った。根の国への参入は、生きていて辛い人ができるということだ。根の国は辛い人と密接である。根の国への参入のディプロマとは、根の国を望む現世の辛さである。

僕はXを眺めて、とある人物を見つけた。心に深く食い込んだ苦しみを吐露していた。その苦しみとしばらく馴れ合っていた。すると、境界が消えるかのように、僕はその人になっていた。俺が俺を見ていた。そのアカウントに付与している美を食していた。そのアカウントは美にして糧だった。色々な人に蚕食されるであろう。

人を救うとはどういうことなのか。理解した。人を救うとは、決然と自分であろうとすればいいのである。自分であろうとすることから苦しみは生まれる。そのアカウントを保持している限り、内と外が区別されない文脈は形成され、連続し、流れていく。感染源である。それに感染し、馴れ合い、また別の苦しみが作られる。苦しみに馴れ合う傾向を人は持っているのである。

そして、〝苦しみがあるからこそ、人は救われる〟。〝苦しみがなければ、人は救われない〟。

苦しみを流出させるアカウント、それは救済の属性である。その人の自己同一性が人々を救うのである。苦しみを感じ、苦しみを流し、人に感染させ、人はその苦しみに馴れ合い、境界をなくし、救われる。

何によって救われるのか。根の国によって。自分と他人の境界を失えば、人は根の国にいるのだから。それが至上の世界である。境界を失うために、僕らは現世にいる。苦しみを味わうために僕らは現世にいる。普遍的意識を直覚するために僕らは現世にいる。どうせ、最後には全て交わるのだから。

科学的な見地からすれば、今僕らを構成する原子や分子は不滅であり、その物質は宇宙が誕生した時からあり、別の物質を作っていた。138億年前から変遷しており、たまたま今の僕になり、現在文字を打っている。それが死後、また原子や分子になり分散される。物質が存在している限りそれを繰り返すのである。しかし、意識というのは一体なんなのかは判明していない。要は、原子としての生まれ変わりはあり得るが、意識としての生まれ変わりはない。

この意識という問題。僕が今抱えている意識。原子や分子は永久になくならないが、意識は永久になくなる恐れがある。じゃあどうするのか。意識を捕縛する方法はあるのか。しかし、意識の本質は生成である。生成とは、僕らが今抱えている意識=存在は瞬間ごとに死滅するが、全体としては表皮を変えて保存されるものである。そして、保存するための媒体がある以上、人は死なない。保存先において、連続的に更新される。保存先がある以上、人の感情に働きかけ、触発し、回収され、人は永久に死ぬことはない。そう、僕が苦しんでいる人のXを見て、境界をなくしたように。僕はその人だった。その人は僕だった。そのような経験こそが至高である。苦しみを保存すること、苦しみを凍結させること。それは時を跨ぎ、全てを生じさせるための価値のあるものになる。苦しみ、苦しみこそ全てである。根の国に送るための、サイコポンプというものは、凍結した苦しみである。苦しみがあれば、人は境界をなくし、根の国へ行き、一緒になれる。

 

2023.09.01 空星きらめ text2

空星きらめと僕は夏休みも最後だと言うことで、プールに行った。群馬県桐生市にあるカリビアンビーチである。二人で車に乗り込み、僕の運転で一時間と少しかけて向かった。まだ暴力的に暑く、きらめはこう言った。

「これだけ天気がいいと、みんなプールに来るか〜。青い空、眩しい太陽、突き刺さる日差し、絶好のプール日和だと思わない?」
「……なあ、きらめ、なんで地球がこんなに暑いか知ってるか?」僕はまた条件反射的に衒学が口をついてでるのを止められなかった。
「ん、どしたの急に?」
「電気のようなエネルギーを作るには二酸化炭素を多く必要とするんだ。その二酸化炭素が増えると地球の温暖化が進むんだ。二酸化炭素が大気の中に増えて、そのほとんどは地球から宇宙に出ていくべき熱エネルギーを吸収してしまって、十分に熱を排出できなくなってしまうんだ」
「そうなんだ、詳しいね」
きらめは少し声の調子を落とし、返事をする。僕の言うことはいつもこうだ、ただ後に要らぬことを言ってしまったという自責の念に苛まれたとしても、自分の知識をひけ散らかす欲求には抗えなくて、刹那的空間を満たすのだ。

「ごめん」

謝っても仕方がない。なぜ謝るのだ。ずっと親しんできた幼馴染だろう。

「え、全然いいよ。なんで謝るの」

「まあ、今日は天気が晴れて良かったな」

「うん!昨日までの天気予報だと、来られるか怪しかったじゃん。どうやらきらめのお祈りが効いたみたいだね〜!」

でも、きらめは宇宙にいるんだな……そう思った。

お祈り。この交わされている対話こそがまさに祈りである。きらめとの対話。完結し、必然化された自己を中断するというリスクの上で、きらめに自分を曝すという祈り。イデアなき対話の持つ、潜在性への祈り。そしてあらゆる営為において、それ自体が齎す影響と、自己を取り囲み、降りかかる運命、因縁への祈り……。

「どうしたの。ぼうっとして」

「いや、なんでもない」

プールに着くと早々、きらめの提案でウォータースライダーに乗ることになった。

(アグレッシブだな……二人乗りの浮き輪まで用意して……)

「それじゃあ、出発まで三、二、一、スタート!」ときらめの快活な声が聞こえる。

「楽しかったな…なあ、きらめ?」

「まだまだだよ〜!飽きるまですっべり続けよ〜!」

そのあとは、流れるプールや、波のプール、施設目玉のロデオマウンテンや、室内のベンチに座りゆっくりとした時間を過ごした。

「あれ、そういえばきらめ髪留めどこやった?」

きらめの頭や、あたりを見回しても髪留めらしいものは見つからなかった。

「ごめん、大事なものだから探してもいい?」そう少し切迫したような声できらめは言う。

「ああ、一緒に探そう」

もしかして、さっきのウォータースライダーやロデオマウンテンの衝撃で落としたのか……係員に落ちていないか聞いても見つからなかった。だが、僕らは必死になって探した。

しばらくして休憩したベンチに行くことになった。濡れたプールサイドをペチペチと裸足で歩くきらめの足音が可愛くてどこか吸い込まれそうになる。

「あった〜!」

「お、良かったな」

髪留めはベンチの下に落ちていた。どうにかこうにか、僕らのプールの一日は良い結末で終われそうだ。

「ほら、きらめの肩見て〜」帰っている最中、きらめが147cmしかない身長の肩で僕の肩を突きながら言ってくる。

「お、日焼けしてるな」

太陽の光、太陽光線、この光、可視光線も紫外線と同じ電磁波の仲間。

「紫外線っていうのは、赤、橙、黄、緑、藍、紫っていう色が含まれていて、紫の光よりも波長が短いことを言うんだ。波長の短い光ほど粒の一つあたりのエネルギーが大きくて日焼けするんだ」

「へえ〜そうなんだ〜。お互い肌のケアを忘れないようにしないとね」

僕の会話は破綻を持ち込む、と思いながら、車に乗り込む。

「帰るのめんどくさいなあ。このまま君の家に泊まってもいい?」ときらめが溌剌と提案する。だが俺はアンヴィバレンスな気持ちだった。きらめ……きらめが家に来たら……。

「紫外線よりも波長が長く、周波数が低いものを電波と呼ぶ」

 

――そう、きらめは電波だった。

 

続く。

2023.08.31

昨日は精神不安に侵され、本を読むことや寝ること以外のあらゆる行為を阻害された。本を読むことなんて微塵も想像すらできなかった。精神の安定が潤滑油である。もっと言えば、罪責消滅が。罪の意識を持っていると、精神が不安定になるが、現実感が増大する。罪の意識を持っていないと、精神が安定し、現実感が減少する。

僕は最近まで非現実感に覆われていた。だが、精神が安定していた。ゆえに、意識の量が減るため、本を読むなど行動ができていた。だが、一昨日の夜、母親が夜勤で、父親と二人で焼肉屋に行き、偶然友達と出会い、そこで友達も混じり焼肉を楽しんだ。飲み食いの代金は全部父親に任せることになった。酔っ払った勢いでカラオケに行こうと僕は言い出し、カラオケにも行ったが、そこでも父親に代金を負担させた。罪悪感を求めて罪を犯すという意識はなかった。

昨日親と一緒に食事をして後ろめたいような声調で、感謝の旨を告げると、「ああいうとき、親は払わざるを得ない」というようなことを言っていた。

そこで心を占めていたのは罪の意識だった。明朗快活に感謝を述べることができれば僕はまだ救われたかもしれない。しかし、それすら言えないのだ。元気で朗らかに対応なんてできないのだ。それほど僕は何もしていないのだ。何もしないことを課せられているのだ。動けないのだ。

精神病院に入院しているとき、僕は非現実感に侵食されていた。離人感、現実消失感で辛かった。しかし、そこでは罪の意識はなかった。罪悪感とは世界で唯一のものである。がゆえに罪責消滅の状態では、現実感がなくなるのだと僕は思った。

入院してから、13日目である7月14日の日記で現実消失感を嘆いていた。「自信がないと起こる?万能感の欠如?ナルシシズム(同一であるという再認)と関係?自分以外、いや自分すら生きていると思えない。テレビの中の人、頭の中に出てくる人々、独我論?秩序に対する、調律に対する抵抗?面従腹背ということ」と現実消失の原因として書いていた。

7月15日、13時過ぎ、また非現実感に襲われた。「鉛のよう。思考や身体が重い水中を歩いているよう。現実消失とは受け入れられない事柄がある時に起こる?変えたくても変えようのないもの。本当に今までに戻れるのか、今までの世界があるのか」

 

本当に今までに戻れるのか。今までの世界があるのか。

 

今までの世界は〝あった〟。それは容易に取り戻せた。入院生活で抱えていた強烈な現実消失感で、一生の問題意識として抱えていくだろうなと思っていたものは、安易に破壊できた。それは〝罪悪感〟によってである。

世界の非現実感とは、世界の唯一性である罪悪感がないことの表れである。精神病院は徹底した管理によって主体性を根こそぎ奪い取るということによって、根を下ろすということができなくさせる。その非道とも言える扱いにより、罪悪感を感じさせないようにさせる。病棟の中で罪を犯そうと思っても犯すことなど想像をするのも難しいことである。

しかし、これが病棟から放たれ、他人を自分とは違う存在と見なす、孤立無援の意識を持つ自由の身になってみると、罪の意識を容易に感じやすくなるのである。

人は他人と同じ条件の下に生きていない。しかし、入院中は同じ条件の下に生きているように錯覚させた。集団的に管理され、目的は退院になり、罪悪感に付け込まれる隙もなかった。しかし、一人というのは罪悪感の餌である。タブーを維持する心的装置である資本主義は罪悪感を増大させるということは言うまでもない。

だが、両親に金銭を負担させたりすることなどによる罪悪感は、非現実感を打ち砕き、現実感を生じさせる。何度も言うが、世界の現実感は〝世界で唯一のもの〟である罪悪感と同じ根を持っている。だからどちらかが傾くと現象は起こる。

罪の意識を消すと、非現実感が起こり、罪の意識を生じさせると、現実感が起こる。

今は後者であり、行動することもままならなくさせる。誰かのせいにしているわけではない。この解消法としては、物理的に周りに誰もいない環境を作ることである。

2023.08.29

原点である本を再読して読み終わった。ナワルのデザインを考えようと思った。しかし、それはいつでも難渋した。ナワルとは変身後の姿であり、もう一つの自我である。Wikipediaを見ると、鳥獣のような姿である。しかし、例えそう描かれていたとしても、その外面的な作用、人間の姿から鳥獣へと全身一様に変身することは起こったことがないし、起こることがない。

ブラッドボーンにおける赤い月の接近による獣の病の外面的な作用は、言ってしまえばゲームという媒体だから起こることであり、脳液がどうとか、寄生虫がどうとか言っても獣への変身は現実には決して起こり得ない。じゃあ、完全ファンタジーに割り切るなら別だが、変にリアリズムを重視するなら、ナワルは描けないのだろうか。

じゃあ、文字である本という媒体はどうなのか。そこで思いついた。ナワルという獣を、実体験としての次元として機能させるならば、文字という媒体自体を利用するほかはない。媒体自体を。実際に変身などあり得ないのだから。もし変身があるとしたら、幻覚に過ぎないのだから、ならば文字を介した悪魔による感覚機能の奪取はあり得る。文字という体液で想像を掻き乱し、器官に働きかける。

ナワルへの変身とは、脳の変身。それなら文字で書ける。だったら、ナワルが鳥獣でもなんでも構わない。文字上で変身しているだけだから、今書いている俺は悪魔である。ナワルとはつまり、文字を介した文脈の中でしか捕捉するできない概念である。文字という力と速さ。それを操っているのは悪魔。悪魔とは作者。悪魔とは獣的な衝動の責任者。しかし、白痴だとかいって、獣という臨床像を系統的に分類していく試みはつまらない。獣はなぜ獣なのか。ナワルはなぜナワルなのか。それを考えなければならない。悪魔が操っている小説を読む中、識別する言葉によって快楽を覚えるということはあり得るか。読者は何を持っているか。変身という言葉に含意されること、変身とは、他者との関係性の変身である。受容の集積である人間の人格にはどのような変身も禁止されているがゆえ、変身が起こる原因として、自身のアイデンティティを脅かす破壊的な力に身を委ねなければならない。

スサノヲの本を読み、スサとは荒むということから来ていると知った。母を求め、母のいる根の国を求め、泣き叫ぶ荒々しい気性である。荒地。荒地とは、不安の発生母胎である。荒地、木々、木の根っこ、木の根っこは根の国に繋がっている。

木々に囲まれたアサイラム病院。そこがナワルが産み出される場所である。誰によってか。悪魔(文字)によって。悪魔(文脈)によって。それがもたらす力と速度によって。それでなら、ナワルの外面的な作用はあり得る。

全ては文字であり、文脈である。文脈とは、悪魔による幻覚である。ナワルの変身、その発生母胎はアサイラム病院である。