闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.09.19

馬鹿らしい話かもしれないけど、ふと頭をよぎって、自分が書いたブログに取り憑かれることがある。それも10日前くらいの記事に。それは明らかなる過誤だったのではないかというもので、それは、言語とイメージについての文言だったのだが、「拘束された言語、非言語的記号の射出による内的形式(イメージ)」という文に変えた。言語がイメージを作り出すのか、イメージが言語を作り出すのか、とか普通の人には馬鹿らしい話かもしれないけど呻吟するほどにまでぐるぐる考えてしまう。そして俺は今言語において考えている、そしてその言語とはいわば拘束された犠牲者的なものであり………と〈いま〉考えている。が、それはもはや考えるということを放棄し、ただ委ねている、そしてそれは身体にまで及ぶ、夏場なのにフードを被り、倒れて手を組んで、足を揺らしている。もう何も考えなくない、放っておいてくれ………と、その〈時〉にまさに〈いま〉言語の限界に震えているのだとわかる。そしてその時、何かが散逸されている。つまり、イメージとはそれなのか。
よくわからなくなってきたので、イェルムスレウの言語学入門という本を手に取る。信念ではなく論拠の本だという。そこで僕は「記号は時間の中に流れる要素を持つ」との言葉に出会い、僕にとって「誤りに固執する」という罪への浄罪の火なってくれて少し救われた。火をくぐり抜け、それは灰になった。要素は時間の流れの中で絶えず可変体であるのだ。だから時間が過ぎればいい。表象は言語構造という恒常体には属さないから、誤りも時間が経てば忘却される。それが思い出された時には記憶表象になるが、つまり可逆的であるという点で僕は落ち着いた。そして表象の総体とは“心理学的な現象”であると言い、言語学と心理学の共同選択のような分野を予感する。先に読んだエストニエの孤独のあとがきに文学における精神分析家としてフランソワ・モーリアックジュリアン・グリーンエストニエらが挙げられている。文学的言語(ペルソナ)には精神分析的である必要はないが、そういう成分は僕にとっては必要であるように思われた。イェルムスレウはこれから勉強していきたい。

そして昨日、ものすごく久しぶりに他人との会話をしたが、やはり疲れた。自閉症スペクトラム障害の常同行動は定型発達でいう「暇」の状態への防衛手段。常同行動は既知の状態を求め、組織化できない感覚、つまりは僕もイメージとか、言語とかいうことになぜか固執している、またそれが他人にどう覚えられているかを気にしている以上、組織化がうまくできてないのだろう。行為の規定や法則の皆無、また秩序の解除の状態はASDにとっては脅威であり、ブラックホールのようなものであるらしい。僕は話している理由に「暇」をつける人はあまり理解できない。というより「暇」という状態に出会ったことがない。それに対し、何か理由をつけるとして今思い浮かんだ感情は「恐怖」である。