2020.09.14
「自閉症の現象学」という本を読了。帰結を持たないノートをここに残す。
呼びかけによる惹起=視線触発。
ドナ・ウィリアムズの「事物との一体化」の時の体験に似ている(まだ咲いていない雪に覆われた桜の木が、岸辺の灯りの光源に照らされた白い風景を見て私が唖然としたように)
感覚的印象の優位性。(僕が、カナダのモントリオールに行こうとしたのと同じように、Osvaldo Ramirez Castilloの絵を初めて見たとき、その悲惨な特異性のために、感性的印象の共鳴のような経験をしたように)
プルーストの作品『失われた時間を求めて』におけるマドレーヌの感覚的印象の連想。
視線触発、(1)作動すると必ず触発(2)向かってくる受動態のベクトル、自分の体の在処を指し示す。
視線が触発するのは、能動的な行動の極としての自我や他我ではなく、見たものを受動的に体験する中で生じる身体的な運動感覚や情動的な触発である。「見られている」
自閉症では、この視線触発の気づきの様態が、外部として理解したり、局所化したりすることができない「侵襲」という組織化されていない感覚によるパニックを引き起こし、体の秩序や統一の喪失につながる。
そして、体が体験されていないときには、自分と他者や事物との区別がつかない=未分化な「自分」と「他者」ではなく、不在としての「自分」と「他者」である。
これは純粋な形態として「美学」の領域につながるが、ここでは踏み込まない。
そして、体の触発の段階が生まれると、視線触発、身体触発、自閉が緩み、相手の存在を観察することが、自分が想像もしていなかった形で「投げ込まれる」体験となり、世界の変容=別の仕方での「自己感」の獲得が起こる。
視線触発は生まれるが、視線恐怖が生じ(間身体性が次元として触発したが、組織化していない)、体そのものを解体する経験として生じたとき、それは苦痛となる。
(記憶にある限り、僕は中学生のほとんどの時間、生徒や教師と目を合わせることがを取ることができなかった)
=二次的な自閉の可能性。
間身体性=視線触発の形成という固有の次元で、向き合い生成する。相手の身体性が作り出し、体験する現象。相手の動きや感情は、自分の体で直接体験する。それらは表情や仕草、感情表現として体験される。
感情=視線触発によって形成された体験の領域で組織化されたもの。
そして、感情や動き(空間)が下書きされる。下図が描けないと、レヴィナスの「同の中の他」………「侵襲」として、恐怖を感じる。
注意すべきは、身体の動きと感情が密接に絡み合っているということ。
相手がどのような感情を持っているのかがわからないと、組織化が機能していない段階になる。そのため、視線触発が想像を絶する不意打ちを与える場合がある。
間身体性の図式化が、情動性と運動感覚によって形成されるリズムである。
図式化=複数の組織化が相互浸透し、知覚野の中で高次の統一の現象を形成する運動。一定の発達段階にある人の中では、連動する。
それは「私のここ」と「あなたのそこ」に局在し、自己と他者の両端の区別を含む。
視線触発はあるが組織化が不完全な場合、自他の区別がぼやけてしまう。「侵襲」としての他者。
人間の個別性は、視線触発に関連して生じる。顔の個性は、形の個別性から生まれるのではなく、視線触発と身体性の個別性に由来する。(間身体性であろう)
自閉症は、外部への回路を持っており、超越論的な構造においては独我論ではない。しかし、対人関係があるにもかかわらず、一人ぼっちでいる。これを間主観的独我論という。
(ところどころで、僕はダニエル・スターンの乳児の対人世界を考える。(言葉を覚える前の乳児が示す主体の形成))
間身体性が独我論から脱却するためには、相手からの視線触発のベクトルを受け入れ、相手の動きや感情に共鳴することに加えて、相手に向かっていく「志向性」が必要である。
ここで著者はメルロ=ポンティらを引き合いに出し、共鳴動作は視線触発との連関においてのみ対人関係の仕組みになるという。
「なんらかの固有の次元において、私は相手と連絡を取っている」僕はこれがよくわからず、後期レヴィナスにおいて存在論から自由な次元を「存在の彼方」と呼ぶとのこと。「存在の彼方へ」というレヴィナス自身の書いた本がある。「在ることは他者なるものの責任性として自らを肯定する」
感性の次元と視線触発の次元、そして情動性の次元、そして運動感覚の次元、さらには言語や論理の次元といった、質の異なる諸次元間の相互浸透が起こっている。
「自閉症」とは、この多元的な構造の一部の軸が未分化であるか、あるいは次元間の接続が弱い集団につけられた名であるという。
定型発達にあって自閉症は空間構成に欠けているらしい。
(ピザーラでバイトしていた際にバイクに乗ってデリバリーの際、道がわからなくなり、なぜか一旦自宅に戻り、そこで一旦落ち着いたところでまた目的地に向かうことがあった)
しかし、この本では、彼らなりのやり方での世界構成として肯定的に捉えている。
常同的な物真似は、過去の知覚を遅れてオウム返しする、一種の遅延エコラリアであるが、……時空間的に拡がりのある常同行動という点。
(最近だと、「ピンポン」という映画における星野裕の口癖を何回も相手に繰り返していたり、ニコニコ生放送における放送では、文野環の進路がジグザグかつ饒舌な喋り方に過度に類似していたが、普段は言語使用が情動性と運動感覚の次元に基づいているとは思えない)
こうした行動を示す自閉症児では視線触発が不在であり、真に独我論的な自分だけの世界を形成している。場合によっては他人を遊びに巻き込むことがあっても、それは遊び相手としてではなく、物真似を代表するオブジェクトとして配置しているらしい。
自閉症は形やリズムに没頭しており、知覚しているか想像しているかの違いはない。
「それらを現実世界に引き戻す」というのは、連鎖するイメージに視線触発によって穴を開けること。
自閉症児は意味がないのではなく、感覚的な形にこそ意味がある。したがって、自閉症児にとっては、形の欠如は意味の不在や、無意味であり、侵襲的な現実である。
自閉症児の場合、安心感を生み出す主要の構造は、何よりもまず常同にある。
不安定な環境で安心感が創設されないと、自閉症児は常同というよりも、原因不明の障害や衝撃性の伴う強迫的な遊びを繰り返してしまうらしい。
ごっこ遊びでは人形に仮託された登場人物が出現する。=フッサールにおいての「知覚的空想」
自閉症児のオウム返しは、相手の意図を汲み取った能動的模倣は苦手らしい。自閉症児の模倣とは、他者の行動や意図が込められた背後の次元の模倣ではなく、「形」の模倣である。視線触発とミラーニューロン系の連動が乏しい。だが、ミラーニューロン系が、興味のある対象物に対しては機能することがわかって来ている。
言葉の思考を代用してイメージの連鎖を作る。
「孤独な心的生」でも通用する。つまり、文法的に分節化された概念を利用した定型発達の意味作用とは異なる考え方である。
定型発達の思考は、思念された対象のイメージ(意味の直接的充実)を必要としない。
言語使用は先験的な思考ではなく、書き言葉から言語を獲得する自閉症児は、次第に言葉の形をデザインとして記憶し、次にそれを対象物の離散的な対象知覚に結びつけていく。
逆に自閉症児の場合、言語は自然な感情表現に基づいたものではなく、感情や感覚を記号に置き換えた行動になる。
ベルクソンは、芸術作品はリズムの中で情動・質を表現すると主張する。
(テンポ、抑揚、メロディ、サウンド、リズム)
「自我」は認識としての行為の主体、行為の能動的・創造的な実行をするのが主体である。行為は身体のコントロールという単純な機能ではなく、空想との浸透の中で創造性を発揮する機能であり、そのためには対人関係の安定性が必要であったのだ。自閉症児は行為の主体というよりも、体と区別されたところに「自我」を持っており、子どもの自我と世界が切り離されている。傍観者として体と世界から切り離されている。つまり、この世界には自我や行為主体の核がなく、行為主体のない非人称的な欲求がそのまま実現されているのである。
自分とは独立した人格としての「あなた」として確立されていない。非人称的な欲求は、行為の主体がなくても魔術のように実現される。魔術的思考とは、外部と自我の両方がない。
移行領域における常同行動をとるのではなく、安心感を生み出し、一次元的な感情の世界に溺れることではなく、多元性を与えてくれる。
自己像に飛び込み、没頭するということは、実際には感覚一次元の世界、幼児期の常同行動の世界、そして感性的快の世界に退行すること。で、あるんだね。