闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.11.26

最近読んだシュタイナーや、内海康満さんなどに影響を受けている。

最近のところ、何をしているかと言うと、人間が酸素を吸い込むように、霊界におられる大天使(アルヒアンゲロイ)に言葉の余韻を吸わせている。それはつまり、天使のヒエラルキーの最下位であるアストラル界において、その時、僕は人間のヒエラルキーの最下位である肉体とエーテル体の外に存在しており、天使のいる霊界にいる。そこで、僕のアストラル体は天使によって使用されているということである。(天使は、人間界においては風や火として顕現するらしい)天使は肉体やエーテル体を持たず、非物質的である。人間のアストラル体は物質体、エーテル体を通して経験し、それを眠りにおいて、霊界に送り込む。

人間は、霊止(ひと)であり、霊主体従(れいしゅたいじゅう)である。字義通り、霊が主体であり、それに従属しているのが体ということである。まずそれを理解することである。決して今理解することはないが、日常生活における体の動きに付随して理解が成り立ち、霊的な成長をもたらすはずである。それに無知であるということは魂に穢れがあるということである。今こうして物質的な世界に肉体を持っているということは、自分が霊ということを理解に至らせるためだ。最近、文章の書き方がわからなくなり、今日松本圭二さんの松本悲歌というエッセイを読んでいた。最後、ルネスタという睡眠薬アルプラゾラム(僕も飲んでいる抗不安薬)を飲むようになり、断酒しようというところで終わっている。墓である石に紙を対比させていたり、言葉は身体を解体するバクテリアとまで言っている。だが、臓器を3Dプリンターで作成する3Dバイオプリンティングのようなものが出てきた現代では、そんな技術、必要ないと言うであろうが。
この世はスクリーンである。松本圭二は言葉や映像は脳みその外にあると言った。だが、脳みそがどういう動きをして、という唯物論では僕はなくて、自分の中にある映写機がこの世を映し出しているのだと見ている。この話を具体的にすると、この世は前世の業によって影響されており、その業を振り払うために、出来事を時宜を得たタイミングで自分の人生に出現させているということ。交通事故に遭うのは交通事故に遭うことで理解すべき何らかが業観念となって自分に課せられるからである。交通事故にあって交通事故を示談や紛争処理センター、裁判所において“解決”することはこの場合、二義的であり、一番大切であるのは“交通事故を通じて”何らかを“理解”することである。それは業観念を取り払うために自分の作ったものであることを。そして霊界においてのみ人間は自由自在になることができるので、今生では業観念を払うことに気を配っていなければならない。そして地球に住む人間には守護天使が付いている。守護天使との出会いは睡眠時におけるアストラル界において訪れ、その出会いの余韻が日常生活での安らぎという感情である。

そして僕は霊界において、天使がもたらしてくれたものをまた霊界へと送り込む循環の中にいる。エーテル体は記憶を貯蔵し、記憶、そう最近読書会において、ミヨシさんとべんざカバーさんに記憶とは何だと思うかと聞いた。ミヨシさんは「検閲された過去」と答えを最初から用意してあったみたいなパブロフの犬みたいな速度で言い切り、べんざカバーは「部屋があって、大量のフィルムがあり、自分では切り分けられないんだけど、今映画を撮ってる時の直近のフィルム」ということを言った。
人間の考えとは、記憶と分かち難い。それは自然的思考であり、その所与、思考の所与である所のものは全的に知られていない。そのため、出発点がわからない人間は誤謬であるが、その自然的思考に霊的思考が流し込まれているのがわかった今となっては、全てが成るように成っており、人間がすべきことというのは霊止(ひと)という観点から”理解“することであり、そういう意味では、人間は真理となり得る。

だが、僕のそもそもの問題意識が、天使というのは肉体も言葉も持たないにも関わらず、なぜ、フーゴ・ジンベリの「傷ついた天使」のように、白さで覆われ、翼の生えた姿形として描かれるのか。ということだった。なぜ、肉体という覆いも持たず、言葉という記号もない天使が、地球にやってきたのか、存在しているのか知らないし、それが不思議で不思議で仕方なかった。ベルクソンの試論にもあるように、言葉が思いのまま伝わることはあり得ず、そういう意味で言葉は常に自分を裏切る。だから天使の透明で霊的な言葉に憧れを覚える、それは天使主義と呼べるもの、それはこの世から切り離された自分への夢想。言葉は裏切るから。僕は双海亜美の姿形をした混沌の中で折れそうになっている翼を持った天使を見た。今生から霊界に行ったとされるスウェーデンボルグだが、天界と地獄という本を書いている。聖言にも天使が人間の姿をしているとされているらしい。僕は天使に憧憬を持ち始めた。というより、持っていたのかもしれない、本源的な二者択一のような、全能感への憧憬と現実への呪詛、しかし、人間が天使になろうとすると、獣になってしまうという。

現実なんて糞食らえだ!

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