闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.11.14

光の具合や、物の配置など、全体的に好色的な雰囲気に覆われている空間で一人待っていると、「こんにちは、失礼します」と、フリルで装飾された白と黒だけのブラウスを着て、軽快に手慣れたように、僕の目の前で私服からセーラー服に着替え始め、黒の下着を晒す。禁酒しているので大脳辺縁系の抑制は外れておらず、以前の自分であればアルコールで緊張感を緩和させているところだが、胸ポケットに空の錠剤のシートを入れて、神経を落ち着かせながら、識別する理性において、たわいも無い話をし始めるが、「俺は、僕は」などと文法にそぐわない不慣れな言い方と平板化されたような声調で話し、感情がまるで合致することのないまま話が進んでいく。相手の女性は二十代前半くらいのものであり、コース料金を僕は支払い、「どっから来たの?」「すごーい!」などとスマートに話してくるが、なんかこちらは後ろ暗い重石で押し潰されているようであった。メニュー表を開いていたら、ジンジャーエールが飲みたいというので電話で頼んで相手はプシュッと飲む。「炭酸は自律神経切り替えてくれるんで」と悪癖かどうかわからないが、衒学が口を衝いて出る。「そーなの?詳しいナ!」相手はアラームをかける。

2人とも、真っ白のベッドに上がり、二足の裸足で顔を覆われる。無臭で、まるで血が通っていないように、冷たい。足の裏は英語でSoleと言う。綴りが違うが、soulは魂とも言う。人間は最も気高いものと、汚いものの区別がつかないからだという。まあ、箴言のように捉えていいと思う。

人身御供譚で伝承される殺生罪業観では、四足の獣から、二足の鳥類となる。人間は人形という神饌になる。統合失調症の罪責である錯聴に従い、俺は槍刀のような歯で、その足の指を噛みちぎり、寄進することもできた。だが、僕は逆に人身供犠に見立てられ、女性は祀り手としての供進役で、僕が神の食べ物である。足で心臓部を踏まれ、「超緊張してるじゃん、心臓早いよ」と言われる。上着のポケットに入っているシートに触れ「なに入ってるの?」と聞かれ、「錠剤です」と答える。思えば、持ってきていた精神薬を全て飲んでいた。原初の供犠を再認し、否認するというメカニズムが人身供儀の本質であり、まず偶然性により排除された犠牲者を再認し、その供儀を受容することで、それを内面化し、否認することで置き換える。想起(再認)→終焉(否認)、始源に設定してある人の生贄という罪責を合理化しなければならないのだろう。それは救済の声明である。やはり根源にあるのは排除の伴う暴力性だ。僕は十二歳の時、間違いなく暴力を振るわれたのだ。遷延している記憶である中学一年生のシャープペンシルの芯をコンセントのプラグ受けに差し込み、過電流が流れたという事件は、フロイト精神分析では、バッグですら女性器に見立てられ、それに入れる物は男性器とされる。そういう意味では、シャープペンシルの芯は子供の男性器で、プラグ受けは女性器であり、それによる学校出席停止処分とは、明らかに女性器に男性器を入れてはならないという超自我である。「下のお口で甘嚙み、子宮口でチューチューされてはなりませんよ」

共同体秩序の更新に伴う儀礼的暴力における犠牲者である。「取り返しがつかない」という対人的倫理的価値が破損された時、罪として経験される。経験される罪とは、それまで維持してきた病前にあるとされる関心領域(価値体系)における価値実現の傷害である。それは先に述べた再認→否認に少し似ているような気がする。救済の声明を聴くためには罪責がなければならない。
おそらく、所属集団への帰属意識のようなものでしか充足感を味わえないのにも関わらず、共同体は再確認をするために排除する。同調傾向にある人はつらい。
僕が思うに、人間のやっていることというのは「〜であろう」という価値体系→傷害→罪責→その罪責を昇華させようとして、新たな価値体系の生成がなされるのではないか、と思われる。その繰り返しである。
だから、僕は禁止の侵犯をする。セックスをする。嫌な気分と共に射精するので、充足感で満ち満ちており、何も語る必要がない。稀薄化した生きた実感を取り戻すためにはセックスしかない。僕は幸福である。

 

んな、わけねえだろ。僕はピストルで相手の頭を撃ち抜き、見えたのは血肉の光である。