闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.09.03

その畳敷きの一室を見るだけで、それに過去の内密を見出すような、ただ判断停止(エポケー)というよりかは、思考停止といったような余計者のように、僕はその場所で文野環のアーカイブをすべて見終える。それは明暗法のような家は一つの精神状況になる。それと共に、ニコニコ生放送の回数が413回に到達しようとしていた。「最大の崩壊と最小の発生は一致し、原理的に、崩壊はすなわち発生である」と言ったジョルダーノ・ブルーノは、誕生は死である、というベケットの宿命論に受け継がれている。413回、ベケットの誕生日はちょうど4月13日である。その日は、聖金曜日で、人生を受難とし、復活祭の物語を意識したベケットにはうってつけの日とされている。ただ適当につけた「ゴドーを待ちながら雑談」という題目とも符合するかのように思われた。そして413回(終)と名付け、それ以降配信をすることはないだろう。死と誕生は重ね合わさって、価値は揺らめく必要がある。家という場所が生きた価値として機能するならば、「ゴドー」のような非存在を内包している必要がある。「私になろうとする私」というベケットの作品群の自分を否定し、消去していく人間たちの内的連続を閃くのは、暗示の持つエネルギー、無意識下の投影であり、戦争による強制的な言語の不自由さ、それに対する糧を与えてくれるような、動揺を持った完全な不満、膨大な創意を体現してくれるのは他国語、またはフランス語。夢とは理解できないすべてであり、夢と同質の思考法で生きたベケットから生まれたゴドーは、投げやりに言うなら、なんでも構わない(what-not)ものなのかもしれない、ただ、何かという問いかけを拒否する存在であり、それは無(naught)であり、非存在であり、揺らめく価値である。明日からは生活形態が変わる。起きたら俺はどこにいくんだろうか。もうパソコンを持って行って、畳の部屋で冷房をつけ、ニコニコ生放送に「声」を流入することはしないだろう。僕にとってもう潰えた日々たちは堅固なアーキテクチャではなく、ただの内密であり、誰からか与えられる力強い声ではなかった。この日記の胚種ぐらいのものであった。明日から何をするんだろうか。私を胎児の唸り声であるとする本でも読もうか。それより、橋本洸介さんから連絡が来ていたな。返信しなければ、文野環に追従するように。勝負の終わり。私のデザインの設定画。エンゼルケアを初めてイヤホンで聴く。