闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2020.07.16(2)

僕は、「不在」という概念を、無限のパースペクティブに支えられたこれまでの〈いま〉群であると認識している。
記号は不在の事物を参照させず、記号は、記録、再生産、拡散の結果であること、つまり、ビフォの言う、想像することのできる傾向性として現在のなかに“あらかじめ”書き込まれているもの。
傾向性とは、ある一定の方向への動き、だから、それは現在するという動詞化を含んでいるはずである、そして、記号本来の役割から切り離すこと。ガタリが言っていたように、ロス・ペローのような「カードをかき乱して、メディアを別なやり方で自分に引き付ける」というような人物には注意しなければならない。
レヴィは、「不在が過剰という環境そのものに勝利する」と言っている。これがまだよくわからない。語るまで存在しないものが、一つ前の記事で引用した〈他者〉という余分で過剰なものに、勝利する?能動的不在として語ることはできるだろう。不在として世界に登場させることができる。ああ、それが世界構成の中に書き込まれた中身ということであり、可能性?その危機感に対し、ボードリヤールや、ヴィリリオなどはそれぞれ著作を上梓したのだろう。ここにおいては、不在を「想像することのできる傾向性」として理解しても構わないだろうと思う。田中泯さんというダンサーは、「身体気象」と言う言葉を使って、一瞬ごとに古い田中泯であると言っている。「即興とは何時、何が見えても固くならないこと」

ここで話は変わるが、僕は最近カウンセリングを断られた。僕としては切望していた。なぜか。

・意識が外に向かっても、すぐ内向して『自分』を考えてしまう。自分の過去の体験や過去の思いを考える時間が増え、目の前の物事を昔と結びつけやすくなる傾向がみられました。
内界に目が向きすぎると、
・内界に気を取られている間は外界を観察できないため、外界で起きている事(今の周りの状況や相手の様子)が分かりにくくなる。
・過去の体験を思い出して辛さを再体験してしまったり、以前と同じ行き詰まり感が起きやすく、思考が何かした実感に繋がらなくなっていく。
・外界に意識を集中できないので、身体の動きが遅くなり、その場の流れに合わせづらくなる。

その場合、思い当たる場合は、手足など自分の身体を使って何かをする時間を増やしたり、生活の中で決まった事を行うと、現実の外界に対して行なっている事なので、意識が外に向きやすくなり、自分の労力で何か行なっている実感や集中力に繋がると思われます。

と書いてある紙を渡された。確かにその通りだと思ったし、外に対しての意識付けを行なっていくことをすることが優先であると言われた。こちらとしては逆であり、行き詰まっているから、カウンセリングを希望しているのだけど。これでカウンセリングを断られるのは数回目である。1回目は投薬をしないとカウンセリングをできないと言われ、そこから投薬を始めたのだ。アルプラゾラム
今は、ビプレッソ、レキサルティ、その副作用を抑えるアーテンを飲み、若干落ち着いてはいるが、やっぱり僕にはカウンセリングが必要であるという信条は変わらない。
しかし思ったのだ。やはり、カウンセリングをしなくとも、意識付けは必要であると、田中泯さんの言うように、「空に浮かぶ雲を舌で舐め、川の水面に眼を接近させ魚影を受け止める」
そういうことが必要なのだ。

最近、観念で生きている人の住んでいるアパートに泊まるという出来事があった。僕はその人が食べ物を食べている姿を見て、独特な感じを覚えた。その男性は言った。「俺がナルシストが好きなのと同じなんだよ。のいくんは食べられることによって自己の存在を確立してるから、食べてる自分が嫌い。で、同じように食べられる存在であるはずの人が食べてる姿を見て喜んでいる。自分の中の嫌な部分を外部に投影して喜んでる」そのあとに彼は言った。「虚しい」と。それは移行の場そのものを占める。“不在”ではなく、無を一旦はくぐり抜けたはずである。そのアパートは税関であり、寄食者とでもいうべき人が二人住み着いている。そのような人に対して対置させる通過させる人物が必要であった。それが可能性であると思った。その男性の食べ方、犠牲的、貪欲、刺激的であるそれは領土の“中心”に身を潜めていると思った。