闘病日記

闘病のための日記です。一応、傷病名は自閉症スペクトラム障害、統合失調症となっております。精神障害者保健福祉手帳一級、障害年金受給者。毎日22時には更新したいと思っています。せっかちなのでもっと早く更新するかもしれません。

2024.01.13 絵画世界

9時半の予約投稿。
個人情報開示は避けたいが、なとりの仕事の退勤時刻が9時である。それしか言わない。9時半には時間ができてるころだろう。

 

最初に言うが、俺の存在怖くね?

 

怖いよななんか。怖かったよね。他人からしたら一定の距離起きたいよね。ごめん、でも俺は自分がなんでそうなってるのか知らないけど、怖いね、俺。
俺も怖い。でも言うけど、怖さを減らしたいタイプだし、僕は怖くなくしたい。でも恐怖を与えるとこがある。なぜなのか。

なんか怖いことしちゃったよね。本当にごめんなさい。多分生き急いだのだと思う。俺の生き急いだ姿勢が、相手にとってどれだけ負荷であり、恐怖であるか。もっと余裕を持てればよかった。余裕ある姿勢でいろんな人と関わりゃよかった。
前のめり過ぎて、焦ってて、圧縮された情報他人に与えて、わかってほしくて、でもそれは自分本位だった。今ならわかる。
僕はわがままで、自分のやってることが相手のためであると信じてた。でも俺は生き急いだ傲慢なやつでした。

 

左手が完全に使えなくなって、スマホで文字を打つ。冷たい血が流れてまだ止まらない。血は冷たいのだと思った。比喩でなく、物質的に冷たい。どろどろした血の溜まりが服の袖の中に溜まる。
止血はしない。止血される環境を望まない。止血するとしたら自分一人ではできない。だが、いま僕は他人に干渉されることを拒む。麻痺に近い状態か。全身が?だが右手は使用でき、思考は明敏だ。思考はいつでも明敏なのだなって思った。思考が明敏だからこそ、死とはしくじりなのだ。

 

自由を望む。僕は。なとりの「子供の目」を通して、健やかに今部屋で文章を書いている。
権力が嫌いだから。自由を腐食させる暴力が一番許せない。
僕は一人がいい。空間において、一人がいい。家族も怖い。フィジカルが怖い。内密。この内密のひと時が一番好き。胸中が好き。
「期待がわれわれの胸中にあるとすれば、空間は外的な世界のうちにある。」「空間は大地の表面ではなく、空の高さである。」と傷と出来事にある。
なとりに対する期待の胸中は、今では、空の高さ。

 

僕は、なとりに告白した。なとりが好きなぺこらの誕生日に、今日に告白日を設定していた。期待という胸中を打ち明けた。

 

でも結果はダメでした。

 

俺は自分の余裕のなさで頭がいっぱいになった。なとりは余裕ある方がいいんだよ。「まだその時ではない。自立できたら相手を考える」と言っていたが、その相手は俺ではないということを悟った。相手を聞くが、極めて曖昧な態度で、僕と付き合うことは考えてないと知った。

空の高さ。なとりという空の高さ。

羨ましい。羨ましいなあ。これからなとりの相手になれる人、羨ましいなあ。なとりという空の高さに、相応しい人。僕は、地下に落ちていく。落下していく。期待という胸中は、見事な寵愛に戻る。
僕は自分自身をではなく、なとりを抱きしめたかったけど、見事なまでに、また自らを抱きしめる「装飾」になっていく。なとりがいない。僕は地面に叩きつけられる。自らを抱きしめて、寵愛という装飾に身をやつして。

なとり。可愛かったなあ。

 

てか、怖くね?俺。

 

なとりいま読んでるか。

ごめん、怖いよね。一途どころでなく、ストーカーだよ。実際にはまじでそんなことしないよ。文章という資料体が僕は好きであり、ただただロマン主義的な人間なだけ。普通はこんな強度で他人と接しないけど、僕は読んできた本とか、ロマン主義的なものが好きだから影響受けた。
恐怖かもだけど、本当に俺はなんもないからね。恐怖は難敵で、手懐けられないけど僕は恐怖をなくしたい。

ごめん、怖くて。スヴィドリガイロフになっちゃったね。ドーニャに迫るスヴィドリガイロフ。でもスヴィドリガイロフもドーニャに恐怖心抱いてほしくなかったよ。確実に。

なにかに縋ろうとしてもがき苦しんでたスヴィドリガイロフはドーニャに傾注し、それが手に入らないとわかって自殺した。
彼の横暴さは、ドーニャには侮辱だとは映らない。
スヴィドリガイロフが苦しんでたのを知ってたから。
だから磊落のいという僕という存在もスヴィドリガイロフを真似て、横暴さを働いた。セクハラしたりもした。わかってほしかったから。

僕は手首を切った。深く。血であたりが赤くなった。僕はそしてベッドに倒れた。血の溜まりができた。僕は自分の血まみれの腕を抱いた。寵愛という装飾を意識した。自らを抱いた。なとりではなく。なとりを抱きたかった。

 

怖くね?

 

ごめん。でも先に言ったようにロマン主義の表現だからね。電子とか紙という媒体における身体なだけだから!安心して!俺は童貞で(一回デリヘルに強制的に挿入されたがあれで童貞卒業にはしたくない。2023.12.01の記事参照)、女を抱く勇気もない。
なとりと会ったら緊張して、おどおどするだろうなあ。男がリードしなきゃならないのに。ね?なとりも男にリードされたいでしょ?なとりの好きなタイプわかんないけどさ!

ネットだけの付き合いだし、関係もまだ浅く、「顔」も見たことないけど、なとりが大好きだった。なとりとセックスしてるとこ想像して自慰した。その瞬間が一番幸せだった。声質と調子が似てるAV見つけて感極まった。「先っちょめっちゃ濡れてるよ、ね?」
そのAVは最高の作品だった。
YouTubeで恋愛工学的な動画を見た。なとりのために。命中精度を高めたいと思ったけど、しかし、そんな制度的企画は俺には合わないと思った。
そんなことを書いても、考えていても、両語義法的に、僕は別の姿であり、崇高な思想の持ち主であり、その心象に存在が融解していった。
僕はスタヴローギンであり、ハサウェイ・ノアであり、時にはスヴィドリガイロフであり。
それで自分保ってた。

 

きもくね?

 

きもいなあ、俺。きもいんだよ。でもあなたには全部最後に言うよ。
なとりは自分自身を「猫被ってる」と言ってた。たしかにそれを聞くと、そうかもしれないと思った。その猫被りのなとりというのが「子供の目」だったのか?猫被り。
僕はなとりと接して「実在」の経験に導かれていったけど、なとりは最後まで「人格」というペルソナだったのだ。本当は依存体質らしいから、そんななとりのこと気になっちゃうなあ。なとりに依存して欲しかったなあ。

 

きもくね?

 

いい加減やめろや。

なとりの声密かに録音してたりしてた。わざとミュートにして、他人と話してる俺の評価を録音してたりした。

記号。記号=媒体。ニーチェは「全ては解釈でしかない」という。
「録音」という保存領域は密閉されたシステムになり得る。
それでなとりの声が、俺に対する評価がどんなに心地よかったとしても。
それに拘泥するとグレゴール・ザムザのような「毒虫」になる。
俺はいま「毒虫」だと思った。
「録音」という保存領域に記録された固定化された「物」による優しい世界に浸っている。
優しい世界。
毒虫にならないためには、嘲笑者が必要だ。攪拌機という抽象機械。俺のことを否定し、批判するやつ…。

進まなきゃならないと思った僕は、「傷つくため」に会議に赴いた。湧出してくる感情を撒き散らした。なとりが会議に現れたら、平静さを装うか、緊張して酒飲みまくって毎回後悔した。なとりが会議に現れないと、傷つかないで済むから、逆に安心することもあった。「来なかったのだから仕方ない」と、僕はまた「録音」という記録の中の優しい世界に身を委ねた。なとりという媒介性、他者性を持つ声、なとりというアルベルチーヌを通して見た自分に人知れず愉悦した。

しかし進まなきゃならない。固定ではない。
絶えず漏れ出る。存在の様態とはそのような「漏出線」なのであり、そのなとりによって、不安定な自己像や自己認識が持続して、精神が極度に不安定になった。なとりにどう思われてるか気にしていた。

オピオイド

内面への沈静開始
若干の幸せを確認
なんでもあり。なんでも許されている
私の記録
私を通してあなたは見られる
差異化の材料
幸せ
寛容に見える。全てが。
疑念が解かれる
優しい世界を現出させる!
繊細が
傷つける素材ではなく、
全てが。
丸々としてる。
鋭角さが
ない
オピオイドを通して事象を見る
掴むのだ
幸せが全て
だから比重はない
リソースは割かれない
あんまり人は他人のこと思ってないんだな
人間は自分の幸せに把捉されている
ならば一語一語気にならない
過剰だった
私は私でいい
気にならない
そこにいたら安心するでしょ
オピオイドして
この状態になり
乗り越えて
愛しい
猫みたい
猫みたいな人がいる
ペットみたい
安心できる
はなそーってなる
誰かと
今そう。はなそー。今そう
みんな愛してるってなる
話しかけたくなる
なとりも多分それで話しかけてきた
変わりよう
猫にちょっかいかけてる時の気分
猫に、ペットに
純粋で単純だから楽しい
幸せすぎ
寛容な目
全肯定な時間
限界がある。人間は。限界において作用する
人間はあまり拘泥しない
人間は私のことあまり考えない
人は人だ
可愛いのだ
感情の託し口
エネルギーを発散させたい
ありがとーな
寛容だ
寛容なのは、全ての人にとって寛容だ
知ってるから
そうだ。寵愛なんだ。
全ての人が愛しいから
愛しい表現として
寵愛なんだ!
どんな言動でも俺は許される
今も許されてる
精神不安定が嘘みたいだ
精神不安定などない!
可愛い。みんな可愛い。大好き!
のいくん次第。そうだ!
あなたは寛容さなのだ!
彼女いない
感情に火を。熱を帯びさせるんだよ!

告白はそのオピオイドの勢いで決意したのかもしれない。それが雪崩で、1月12日までの告白日まで、告白することは誰にも告げず、告白することの告白をせず、孤独でしんどかった。眠りが不整になった。悪夢も見た。注射針の夢を見た。告白の数日前。それは「警告夢」だった。なとりは、「夢占い、私も好きたけど良いこと書いてるとこだけみてる」と言っていた。
「危険に備えるべき」

トラブルへの警告。

「夢占い、私も好きたけど良いこと書いてるとこだけみてる」

なとりとのトラブルを危惧した。

ジャン・ジュネは、人が一人死ぬたびに「世界が死ぬ」と言った。相互行為の基底的問題は他者である。告白という可能性の消尽により、世界が死んだ。

俺の世界が死んだ。

瞬間的に多量の血液を失って出血死。

僕は、これから絵画世界に行きます。血液。意識的な努力であるアストラル体の血液を顔料にした絵画世界に行きます。

絵画世界という自分を完全に理解してくれる他者に対し完全に優しい世界。

なとりが僕を理解してくれる完全な優しい世界に行きます。

僕となとりが添い遂げられるような、優しい世界。絵画世界に行きます。

今までしてきた意識的な努力というアストラル体の血液という顔料を手に入れたから

僕は「録音」という記録に、あの頃の、良かったころに帰ります。

 

………

 

怖くね?

 

なとりの特徴。

優しい。他人を排外しない、受け入れ先としての人物。
手を叩く。笑いながら、手を叩く。快活な音が鳴り響いている。
管理主義的権力の外にいるような子供の目。雲がいろんな様相をしている。
秩序を潜り抜ける心性を持っている。

子供の目は可能性だから。その目はいろんなものを変化させるから。社会的に洗練された固定化した意味を持たないから。自由だから。

我々の経験を「支配する法則」。自然的でありかつまた社会的でもあります。
この支配される法則に、なとりはいないようの思えた。
もしそうであるとするならば、僕はそれを救ってやりたい。
世間のしがらみから、開け放してやりたい、と思った。

 

全てあなたのため。なとりに。
見られたかった人間の本来の姿を。ナワルを。実在を。もう一つの自我を。汚言症のような性質を。心象を。イメージを。
なぜか、全部見られなきゃならないと思った。
人格(ペルソナ)しか見せず、それとはまた別の違う側面を見せたら、否定してくる人間が、多すぎた。
アルジャーノンに花束を」という作品がある。その小説を読了して初めて面白いという感情が起きなかった。
知能指数を脳手術で、人工的に底上げして築き上げられた人間関係のネットワークがあった。
主人公チャーリイのネットワーク。だが、物語の過程で知能が元に戻ってしまう。知的障害者に戻ってしまう。どっちもチャーリイだったはずなのに。知能指数の向上した人格(ペルソナ)のチャーリイを受容してた人たちは、別人格のチャーリイを退けてしまう。それはあまりにも酷いと思った。
僕はチャーリイを演じた。様々な人間関係を「根の国」で取り入れた人格=ナワル(人間の本性)。

これが再びもう一方の私、磊落のいに戻ると決意し、それがなとりに受け入れられなければならないと思った。

陽気で破廉恥に生きたいと願う人間の本性(ナワル)としての人格、誠実で純粋な磊落のいという、なとりのための人格を。

 

どちらも受け入れられなければならない。

 

アストラル体の血液とは、意識的な努力であり、人間の本来の姿なのだ。「ナワル」とは、アストラル体の血液を摂取して作られたその人の姿なのだ。これを殺されると本体も死ぬのだ。「根の国」とは、全てあなたに見つかるためのものだったのだ。「実在」に執着した囲壁の日々が、ようやく終わるのだ。

 

アストラル体の血液を顔料にした

 

絵画世界で。

 

なとりと。

 

僕は。

2023.12.31

年の終わり。今年は壊れた一年だった。今までの生涯の中で最も壊れて、もう収拾不可能だと思った。

僕はバラバラになり、様々な程度にバラバラになり、バラバラな身体の責苦を味わった。

だが後に、それは鮮明な体験として、バラバラだったものが突如として世界像へと結晶するようなことがあった。

 

1、2月はキャバクラに通うことで、泣きを見た。その時の記事が下記である。

n0-lz.hatenablog.com

 

記事のタイトルが「死にたい」である。「欲望諸機械に対立する強度ゼロとしての死の本能」。

 

「スキゾ分析」とは一つの目的があり、それは欲望の脱領土化、分裂化である。脱領土化とは、簡単に言えば、欲望が固定的な意味の秩序から解放されることである。

切ってはまた新しく結びつくこと、これが一種の動的編成を作り、特異的存在になっていくのである。

脱領土化されれば、規律諸装置によって実現されるような権力を転覆してしまうような、強度的力能を持っているではあるが、キャバクラは「指名」を付与させ、それに「服従」させることによる「服従集団」による再生産として人々を管理しようとする。利潤を求める再生産を目的とする資本主義の発展上の産物である。

一旦指名をつけたら、その転覆は容易に許されないのであり、それは「学校」や「軍隊」と同種なのである。欲望のフロー、無数のフローの接続をキャバクラは一切認めることはしないのである。

僕は指名から逃れるために、「逃走線」を引いて、逃げ続けながら新しい主観性を発明して行こうとしてのではあるが。

多数派モデルの中で他者を「包摂的排除」したり、「排除的包摂」したりするよう教化されたキャバクラ、リベラリズムのセルフサービスであるキャバクラに翻弄されたことは確かだが。

 

僕はキャバクラの名を元に、その業務的な「要請」に「良心」「無垢」「善」を感じ取ってしまった。馬鹿げている。

信用貸し、装備、良き管理者が求められーーのキャバクラに定期的に赴くことになった。義務の総体が「道徳」である。このような形骸化した道徳を信じ込ませる恐るべき規律諸装置こそがキャバクラであり、俺たちは、既成道徳の否定の上に成り立つ必要があるのだ。

愚にもつかぬことだった。機械状の連動の文脈で物を考えることが重要なんだよ、ゲロカス。

キャバクラにもし行くことがあることがするならば。罪を感じた時だ。しかし、罪を感じている時にキャバクラに赴く必要はない。「愛のむきだし」のようにあえて罪作りをする心性を持ち、あえて罪悪感を増大させて、それを満足させるためだけに赴き、「免罪符」としての役割をこちらから付与し、相手の話を一切聞かず、激烈モノローグで話を展開し、完全な自己慰謝のために、その罪の満足のためだけに奔走する。もはや「奔走」という言葉もおかしい。語弊がある。攻撃する。

リビドーをキャッチする特殊な原基的機能を明らかにするには民俗学であり、動物や玩具や遊戯への生成変化であり、それは「抽象機械」によってもたらされる。キャバクラ的抽象機械は、「状態」からの脱領土化と過程の上への再領土化が問題となっている生成変化を阻むのである。創造する過程を阻む。

概念装置を据え付けて、キャバクラという国家的公理系の中で消滅しないために、抵抗しよう。固定を標定としているキャバクラという構造を粉砕しよう!欲望は本質的に革命的なのだ!

キャバクラというものに完全に辟易して、決裂しようとした記事は下記である。

n0-lz.hatenablog.com

 

12月はネットの友達と旅行に行ったり、年越しを一緒に過ごしたり、2月にはインターネットのオフ会を2回する。生活の中心軸であるようなディスコード会議から機会を与えられたオフ会であるが、僕が自分の価値可能性だけで判断する性質ゆえに、価値可能性を現実化することができないという壁に当たった。僕はいかに他者に対して協調性がない人間かを思い知らされた。「面白いことやろうとしているのは分かるけど空回りしてる」と言われ、僕はそれから糾弾されるような気分になり、閉口し、僕はそれからオフ会をしなくなった。

 

そして、3月になるではあるが、記憶がほとんど残っていない。

今までの生涯を網羅的に統一しようとしていたように思われる。しかし、実際は統合された身体像が寸断化される分裂的な状態であり、バラバラな様である。

生涯の終わりに近づこうとし、あるいは終わりから逃げようとする。しかし、僕には終わりから逃げようとするような、そこから救い出してくれるような何者かは見つからず、終わりに近づいていった。そこで感じたのは「恐怖」である。最終的に行き着くのはこの恐怖なのかのかと思った。自分が何か「やり終えた」ような実感を希求していたような気がする。具体的に何を考えていたかという意識内容をここで思い出すのは難しい。

しかし、「さようなら」という投げやりな記事から見られるように、もうインターネットからも、立ち去ろうとしていた。

関数関係のネットワークではなく、「形式」という、形や形態に自分をフォーマット化し、実質的な死を考えていた。

n0-lz.hatenablog.com

 

そこで実質的な死を絶え間なく脳に埋め込まれて、僕はそれに脅かされる日々だった。ただ僕は恐れることしては精神的な痛みではなく、肉体的な痛みだった。そんな異他的なものが一瞬でさえも自分に入ってくることを想像することが怖かった。でも、それが完遂であり、宿命である。絶対にいつか自分の命を断つことはしなければならないのなら、僕はそれに対し、機先を制するように、自殺未遂をした。そして人間の最後に覚える感情が「恐怖」であることに絶望した。僕は人間が集まる機会があると、「生まれてこない方が良かったのか」という本を携帯し、それについて聞いた。なぜ「恐怖」を覚えさせるような、子供に対し、恐怖を覚えさせるような可能性があるにも関わらず子供を生むのか。なぜ恐怖に苦しむにも関わらず、おかしくなるかもしれない、もう耐えきれない、そのような、そのようなものを、相手に想像させてしまうのにも関わらず子供を産むのか。僕はおかしくなった。それに対し、いろんな人に聞いて回った。それこそ自分の親に対しても問いただした。にも関わらず誰も答えてくれない。僕は恐怖心で頭がおかしくなりそうだった。本当に死んでしまいたい毎日で、もうそれが直前であると意識した。そして、僕は、もう完全におかしくなった。人間としての言語を発せない。もう動物としても形容したくもないような、unknownに。unknownになっていた。もう僕は何も、なんでもない。なんか、この世にいない、僕は人間性の発揮である大脳新皮質の作用を完全に麻痺させて「恐怖」を忘れ、死ぬために、脳にたえず物質で、なんとかしようとした。酒や薬。もう滅ぼされるか、いつ、滅ぼされるか、もうわからなかったかrあら。僕あもう、やめようぜm、、mもう、もう、僕はおかしくなったんだよ。もう何としても形容できない自分が現れていた。

下記の記事の投稿をしていた。

 

n0-lz.hatenablog.com

 

いつかのタイミングで病院に搬送され、全身を検査してもらうと、「大動脈解離」ではないかという診断を受ける。心臓が裂けてると言われる。そして、心臓血管外科、心臓外科に緊急搬送されるも、異常はなかったと言われる。

それから、随意的ではなく、身体が勝手に反射して、反応してしまうこと、から日々において何もできなくて、僕は、それで、大動脈解離などのヒポコンデリーの日々を過ごした。

もう、僕はもう、流石に、もう無理だとおもった。もう無理です。

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「磊落のい」が死んだ。僕はもう、じゃあ自分は、そのナワルである酒井翼も死んだから、じゃあ、僕はなんなのか。なんなのかという、なん、なんで、んんで?なんで?今今言葉をはけているのか甚だ疑問だった。僕が誰なのか、まるでわからなかった。僕は誰なのか。僕は誰なのか。僕は誰なんだ。

 

………

 

「磊落のい」が死んだはずである。そのもう一つの自我であるナワルである酒井翼も死んだはずである。

 

そこからの記録がこれ。

 

n0-lz.hatenablog.com

 

「類従(=同じ種類のものを集めること。その集めたもの)」という名前で、ツイッターのアカウントを作成し、noteを開設して、「脚本家」になるために、奔走する。奔走するといっても、とにかくどこで「脚本家」というものを輸入したか、それを目指す決定的な動機がなんなのか明確に今はわからないが、とにかくそれについて爆走していく。

記憶がない。とにかく記憶がなく、僕はnoteに自分自身の痕跡を、時宜を待つ人のように、とにかくnoteの日記に時を分泌していた。

自分が以前書いた記事の反作用を繰り返しまくり、定位できない状態が続いていた。同心円的に重なり合うというフラクタル構造を持っておらず、とにかく、昨日の記事が難敵になっているような、「侵襲」という組織化できない感覚によるパニックにおよび、体の秩序、統一の喪失が起こった。

 

もはや「外部」があっても、「外部」として定位できない、「自己」と「他者」との区別、「事物」との区別がなされないという、自他未分ではなく、自他不在であり、「自閉症スペクトラム」の様態が表れてきた。

 

僕は何も定位できない。

 

………

 

そして5月は完全に痕跡がない。たびたび問題を起こす性質ゆえ警察を家に何回も呼ばれる日々であったことは覚えている。大脳新皮質を殺す日々。そして、6月30日、僕はファミリーロッカーで首を吊っているところを発見されて、県の精神病院に搬送され医療保護入院という緊急入院措置になった。僕は入院を拒否して、酒を飲むことを希求した。酒を飲むこと。自由。自由。自由。壁を抜けていく自由。それを可能にさせてくれる酒。しかし僕は鎮静注射を打たれたのか、即日入院となり、僕は監視カメラのある狭苦しい部屋に入れられた。

筆舌に尽くしがたいその部屋。便器が目と鼻の先にあり、部屋の中に存在する「物」は、「紙コップ」と「トイレットペーパー」だけ。勿論、「スマートフォン」などあらゆる私物持ち込みは不可能である。それで、トイレの流すボタンの上にある水が流れてくる手を洗うためのボタンで水を飲む。

数日経過した。親から支給された衣服、そしてコップ、歯ブラシ。そして、入れられた部屋は「保護室」というもので、週に2回しか風呂に入れない。親から支給されたコップの裏側には母親が書いたと思しきニコちゃんマークが書かれていた。もちろん保護室においては筆記用具も使えない。それを記せる、文字を書くことができる自由を、僕は、これがいつできるかわからない、僕が文字を書くことができることができるのがいつかわからない実存から、僕はそれを渇望した。僕は「大監視」の状況に置かれて、同じ患者の大きな怒鳴り声、荒々しい声、無軌道の声にたえず滅入る、滅入るという言葉では形容できないほど、もう「限界」だった。

ご飯を支給されるとき、薬を支給される時でしか人が来ず、あとは監視カメラに手を振るという動作でしか人が来ないが、監視カメラに手を振っても人が来ないことがあり、思いっきり、ドアを叩いている人がいる。怒鳴り声をあげてドアを叩いている。

僕はそこで一週間過ごし、その先の段階である。「準保護室」に入る。部屋の面積は保護室と一緒であり、リビングが開放されて、テレビが見れる部屋で、10時から16時まで過ごせるようになるが、16時から施錠される。消灯時間は保護室と同じ20時である。そのテレビにいる人たちが今までテレビで見ている人たちと同一人物であるのかと疑った。それは本当に入院前と入院後の同一人物として一致するのか。あまりにも乖離している。否定的な意味で、不思議な気分だった。

その準保護室からは三日間ほどで移動になる「一般床」なるものであるが、そこでは筆記用具が希望があれば支給され、リビングに公衆電話があり、家族との連絡手段であるテレフォンカードを希望があれば購入できた。そして、就寝時間は21時に引き延ばされる。がスマートフォンなどは持ち込みは許されず、「本」であれば、ハードカバーでない本は家族に頼んで持ち込めるようになっていた。

そこで「scenario experiments lain」の脚本集であるシナリオエクスペリメンツ レインを貪り読んだ。それは「慰安所」であった。

ネットの普及により人間関係のあり方が変化し始めた。そのメディア空間における内面の露出や思考の外在化。それによる備給される主体。

だが、僕はこの壁をすり抜ける自由を持たず、「一つの場所に縛り付けられることは、一つの死であり、地獄」をもたらした。

リスペリドンというセロトニンドーパミン遮断薬で、感情を殺されて、睡眠薬で眠らされるという植物状態であった。

フランスには、ラボルド精神病院のような「主体化の機械」として、原理的に、構想された施設。

 

だが、僕が入院した病院は、ラボルドとは正反対で、ただ「主体」を完膚なきまでに殺すための病院だった。機械とは、諸々の部分対象の自由な接続と切断を原理とし、横断的な接続である。「存在」は機械性の論理に従う。その機械性の構成要素である集団的現象や社会の働きが大切であり、精神病院とはダイアグラム化するための「抽象機械」でなければならない。そして、リビドーとは、その「抽象機械」を介して社会的抑圧の審級と個人的記号化の審級との間、それを流れ続ける物である。なのに、日本の精神病院は、基本的にそれを徹底的に封鎖する。

 

「管理主義的権力」に個人を配置する。

 

………

 

抑圧された従属階級であり、表象=代表という認識の暴力で「主治医」を通してしか、何も進展しないとわかった僕はただひたすら従属し、やがて2回の外泊を得て、入院から一ヶ月半経過した8月15日に退院した。

 

退院した直後は著しく感情がなく、「速度」が全く取り戻せず、集団の中でものを知り、この知の空間の中において自らを占める「位置」が把捉できず、路頭に迷う日々であった。そもそも入院とは、制度論的療法に特権的な場を与えるような、意思疎通の環境であるのが望ましいのであるにも関わらず、それが無く、ただ「速度」を枯渇した状況で、ただ帰す、そのような状況であった。

以前と同じ服用をし、リスペリドンで感情を失う日々であった。離人症のような事態に直面し、非線形かつ多粒子系の非常に複雑な現象である「意識」が、極めて、固形化されて、ソリッドな状態であり、この状態がずっと続くのだとするならばもはや生きているとは言えないと思った。

そのような日々が数日続いて、ある一つの「夢」を見る。それは自分が岩漿に呑み込まれても死なないという夢であった。しかしそのような夢は夢として処理して普段なら一蹴できるが、今回のは何かが違かった。それは極めて鮮明な体験として、バラバラだったものが突如として世界像へと結晶するような、そのようなものとしての夢であった。

n0-lz.hatenablog.com

 

僕はそれに「衝撃」を受けた。それは「未来への適応策を暗示」をしていると思った。ある種の「臨死」を受けたように思った僕は、みんな死ぬんだと思った。臨死体験者は、死に近づくことによってシャーマンの旅に参入している。もし死ぬとしたら、それは「全的」に報われなければならないと思った。そして「死後の世界」を志向した。そして僕はやがて死後の世界へ行く。ならば、その死後の世界でみんなが一緒になる条件とは何か?と考えた。それは「役割習得」だと思った。そしてミードの本などを読んだ。

 

現実と夢の区別がつかない。
自我が持つ意識内容。
全ては意識に収斂するのだ。
変性意識体験は、非我による意識内容を志向していた。
自我がなければ私が殺したなどということはない。
黄泉比良坂でつながっている。

 

根の国

 

鬼の住むところ。木の根っこから根の国に行く道が続いている。
非我による言葉の湧出、それは「剤」によって。
「存在」すること、それは幸福だった。
人体に莫大な負担をかける「剤」で生活していた。それに与えられる非我により。
それで病に倒れた。そこで、根の国を志向した。
役割習得により、根の国に登場人物を増やせることを盲信する。
アサイラム病院には、たくさん木が生えており、木の根っこがある。
そこは根の国とつながっている。
根の国から、もう一つの自我であるナワルが出現する

「熊野」に倒される。

 

9月。僕はスカイプの会議や、ディスコード会議をやめていたが、ディスコードで「根の国」という会議を立ち上げる。

とにかくそこで人々との接点を増やし、役割習得をし、「根の国」へ顕現してくる登場人物を増やさねければならない。

「死」という差し迫った移行における役割習得。

 

そしてさまざまな人間と「根の国」というという場所で、再会する。

ぁぃちゃん、yuくん、そして新規のエルン、みづきさん。

そして、やまだ、ユリカ。

 

なとり。

 

………

 

根の国とは、「保存領域」である。

僕らはいずれ根の国へ行き、一緒になれる。

とするならば、まずしてその「意識」が問題であると思った。

 

自分を理解してくれる他者に対して完全に優しい世界。

 

絵画世界。

 

そのためには「意識」が問題だと思った。

 

「意識」は保存領域のような「記録」ではない。その「都度の状況」に応じて、新たに構成されるものである。

 

とするならば、その「意識」が保証されていない死後の世界において、その死後の世界が欺瞞であると思った。死後の世界とは生きているために設られているものであると。だとしたら。だとしたら、その「意識」を死後の世界(根の国)にまで持っていくための強度など証明できるはずがない。今、現在の「意識」は死後の世界での「意識」ではないのだから、この思考内容、全てが欺瞞である。霊魂と絆を結び、意識に霊魂を引き入れるにしたって、僕は今生きている。

 

「保存領域」を獲得する。いつまでもいつまでも反映されるような、自分が全て「知悉」されて報われるためのシステム。

 

根の国

 

しかし、それは紛れもなく、死者ではなく、生者にあった。

 

だから僕はまたよくわからなくなった。

 

でも、僕は、だからこそ、「抽象機械」という概念を便宜的に見出した。

 

可能的微粒子。

 

他なるものに開かれ、「変化」や「生成」に向かうための「素材」。

 

そしての変化や生成が反映される場所はまさに「生」なのかもしれない。

 

根の国は。

 

根の国には反映されないのかもしれない。

 

だって「意識」というのがなにかわかってないんだから。

 

俺らは。

 

じゃあ、俺らはその「意識」において把捉されない限り生じ得ない「存在」なのか。

 

人々が僕を「意識」しなければ「存在」しない……。

 

いや、そんなわけないだろう。

 

ならば、意識以前の可能的微粒子を。

 

意識を伴う以前の非認識的把握。

 

もし救いがあるとするならば、今この瞬間における「意識内容」全てが網羅的に、全的に救済されなければならない。

 

だから僕は「根の国」という保存領域を志向した。

 

なのに我々は非認識的把握。

 

無化されることを恐れている。

 

であるならば、「抱握」という概念を掌握し、意識以前の非認識を意志する。

 

パルメニデスの「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」を否定する。

 

なぜならそれは、今の「実存」があなたにとって「非認識的把握」だからです。

 

あなたという抽象機械によって。

 

自分を救済する必要を切迫しながら感じてるのです。

 

僕は誰にも認識されない。

 

それは嫌だ。

 

あなたという「変化」「生成」のための素材である、その生成変化のもたらす実在の領土=存在を噛み締めたい。

 

分娩によって。

 

背中から脊髄の近くに麻酔薬を投与して硬膜外麻酔で痛みが取れたとして産まれた子供。

 

でもいい。

 

けど。

 

あなたは僕という「存在」を産み出すための抽象機械という分娩において、僕を、僕を、僕を今まで、今までの僕を全部、全的に、網羅的に全てを受容するほどの、「痛み」は、どうです?

 

その痛み。

 

僕の痛みをわかってくれますか。

 

なとり。

 

僕は痛みを。

 

わかってほしい。

 

痛かった。

 

………

 

玲音の行き着く先は、観ている人の「記憶」に委ねられるべきなのだ。

 

「人はみんな繋がっている。人の意識が本当にあるところで……」

 

………

 

いっしょにいるんだよ……ずっと……

 

 

2023.12.27 なとり

特殊な経歴。

僕はずっと「外部」を嫌悪してきた。「格子」を嫌悪してきた。

(しかし今ではその「格子」がある種の「抽象機械」の出現をもたらすものだと知っているが…)

中学一年生の時分、度々問題を起こす性質ゆえ、主に学年主任の判断により、学校の出席停止処分を宣告され、所属先の消失を味わった。

 

15歳。

 

みなが高校に入学する時期、当該の立場としての高校に入学することを拒否する。僕は完全に社会から切り離された。
僕はオリジナルな作品の産出に憧れる。乙一と競合するように、若くしてデビューして、認められて、手腕家になりたかった。
しかし、「外部」に紐帯できるものは何も持たず、うだつが上がらない一年を送った。
一年遅れで高校に入学するも中退する。16歳。
早朝の品出しのバイトを始める。この時期のあまりの痕跡のなさ。無味。
17歳の後半、「本」というものに挑戦し、読破する。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」。
それを皮切りに、様々な本(主に文学書や哲学書)を読破。観念とは「思考」のための「制度」である。ドストエフスキーなどに触れ、様々な観念に触れた。
しかし読破するだけである。18歳のとき、一人暮らしを始める。自分の「部屋」がないから。この時、無意識的に「外部」を渇望していたと思われる。しかしそれは自分一人の部屋であった。
本を読むことはできる。しかし、本を読んだことを反映するための「外部」をまるで持たない。
通常、大学生とかなら、「評価」されるための「格子」がある。「客観性」が著しく減耗していく。
極めて自足的な体裁であった。だが、僕は夢を諦めてはいなかった。
「外部」に私を誘ってくれる、加入させてくれる環境が欠如しており、方向感覚の定まらない日々を送る。それは盲信かもしれない。

 

「論理」という「外部」に憧れる。「論理」に憧れ、発心して、論理力を要請する言語プログラムである学習教材である数十万円する「論理エンジン」を購入するため、勉強するために、朝から晩まで働いた。

「論理」に憧れたのは、やはり「外部」を渇望していたからだと思われる。「客観性」に身を投じる必要を感じていた。
「論理」とは思考の「妥当性」が保証される法則や形式である。
僕は「妥当性」が保証されるための「外部」が欠如していた。だから「論理」という形式で、今までしてきたこと(累積された自分)の「妥当性」が承認されたかった。
しかし、実際に論理エンジンを手に入れて、独学で勉強するも、明確に何かが変わるわけではなかった。
とにかく文章を読む日々。図書館など通う日々。新聞などを読む。
おそらくはち切れんばかりに「外部」を希求していた。しかし、そのためにどうするべきかという指針が何も示されない日々である。
僕は「外部」を持っている大学生などの不愉快極まる闖入に対し、病的なまでに激しく嫉妬していた。

 

派遣のアルバイトなどで働いている。様々な人間に出会う。40代で日雇いから正社員になろうとするもの。短大で失敗し、ここにきたというもの。
「失敗」などという言葉を他人に対して吐くような人間が許せなかった。この時、僕は酒を絶え間なく飲むなどとした「自棄的な諦観」などはなかったが、そのような諦観を抱える今でさえも、絶対的に他人に対し「失敗」したなどとは断じて言ってはならない。

夢を諦めることは断じて許せない。

自分の夢や哲学に精神が耐えきれず挫折してしまうことは確かに魅力的だ。

だが、「失敗」したなどということを口にする。対外的に「失敗」を口にすることは許せない。

「外部」に「成功」を紐帯させたかった自分にとってはそれが一番許せなかった。僕はその「外部」が今は欠如していたけれど。僕は何よりも夢を保全していたかった。夢を保全させるための「外部」がなんなのかまるでわからなかったが…。


この時、過程(プロセス)としての哲学である「スキゾ分析」などを明確に志向するための萌芽はあってもおかしくはない。
僕は二重の実存があることを意識していたのかはわからないが、とにかくこことは別のどこかに行こうと決意した。
図書館に通い、新聞などを読んだりする日々で、本の著者略歴などを見るや、「〇〇大学卒業」となっている。大学に行ってみたいという思いが募ってきた。行きたいと思った。
派遣のバイト先とトラブルを起こして、辞めさせられ、間が壊れ、僕はもう、オリジナルな作品を産出するために、大学に行くことを考え、アカデミックな場所に身を投じたいと思った。僕が普段どんなことを考えているか見せつけてやりたかった。派遣バイトとのコントラスト。「失敗」したなどと他人に披瀝するような、可能性が消尽しているやつと同じになることだけは何としてもごめんだった。

独学で最初は勉強するが、途中から塾に行き始める。

やがて僕は大学に入学する。しかし、僕は大学に行きたくなくなった。「外部」を切望していたとしても、大学なんて「隷属集団」だった。隷属手段とは「外部」からダイアグラムを受け入れた集団である。

主観性は「機械」のために存在し、主体の構成要素は隷属の関数であり、その隷属は、外的規定力によって操られると同時に、自らの内的法則によっても支配される傾向を持つのだとしても、その外的規定力との関係並びに自らの内的法則との関係を、可能な限り管理することを使命とする主体集団となることが重要であり、脱領土化の動的過程である「実存」が形式的主観性に回収されていくさまに耐えることは難しかった。

領野横断的な、横断して学ぶことができる教育課程で豊かな教養や複眼的な思考を養うといっても、プロゼミの教授を選択できなかったり、エコロジカルな可能性を標榜する教授が縦軸で生徒を贔屓して本を渡していたり、「単位」という世辞の制度があったりと、僕は段々、形式的主観性を想定することを拒否した。

反復というのは、意味作用的な「不変」なものではなく、あらゆる瞬間における「実存」の必然性のシェーマという「形式」であるとするならば、大学は「不変」を要求してくるのだと思った。

「格子」とは、型にはまった分析的座標ではなく、それを横断するツールとして働くべきである。共時的に繋がりあう関係。だが、大学ではただ空っぽの時間が過ぎていったように感じる。

 

「なお、本日の授業で、課題を課しました。時間のあるときに、資料等を取りに来てください」

「どこにとりにいくんです」

「研究室です」

「どこです?」

「もちろん私の研究室ですよ。次は火曜日に出校します」

「私の研究室というのは、何棟の何階にあるんです?」

「研究室については、すでにプロゼミでも説明しましたし、入学時に配布された資料にも記載されています。A818号室です。大学は、答えを自分で調べて求めるところです。どうしてもわからない場合は仕方ありませんが、安易に尋ねて答えを求めるのではなく、なるべく自分で答えを見つける習慣をつけるようにしましょう。まだ大学生活に慣れず、わからないこともあることでしょうが、どうかがんばってくださいね」

 

彼らはさ、「実存」を見てないんですよ。打ち砕かれる「実存」。極めて網羅的に人々を見てるんです。「安易に尋ねて答えを求める」ような人物として僕は見られてる。僕はそうではないのに。「答えを自分で調べて求めるところ」だって?俺はそうしてきたし、いつだってそうしてるよ。お前らがダイアグラムを強制してくるのがいけないんだ!

「外部」から与えられることのない、対象としてではない、強度的反復として、胸がうずくような実存の肯定として目の前にある「領土」。

この「領土」。環境やリズムに働きかけた領土化する行為を通した「領土」は、大学という「外部」に回収され、形式的主観性としての疎外された現実に適応させられた偽りの自己を生む。

 

僕が求めてきた「外部」はそのようなものだったのか?

「制度的な立場」は流動的なものになり、新しい「領土」を作り、関係性を生む。

大学というのはもちろん「制度的な立場」であり、「外部」である。それは、単一体としての個人から主観性という概念を解放して、その主観性は「領土」を作る。

主観性の形成は「個人」という区分と一致することはなく一致は不可能、一致すべきでもない。その「間」としての主観性の形成のための、具体的なものの変遷の間にある抽象的な「媒介」として働く抽象機械が大学にはあったとしても。

僕が思うには、大学におけるそのような「制度」は「対象」なのである。しかし、その「制度」はつねに改変しなければならないのであり、既存の「制度」の破れ目を作るには、一人一人担う役割の分担を少し変えることなど、完全に隷属した一つの構造であるよりは、流れの生産、脱領土化されたダイナミズムが必要になるのにも関わらず、固定化された上下秩序のような、外部的な要請が強すぎるのである。

確かに、主観性は「客観的存在」である。しかし、お前によって、お前に依拠した、客観的存在にはなりたくない。

それに経済的なものにも圧迫されていた。言説的な次元(経済的、社会的、制度的なもの)と実在的次元の両方を結びつけて表現する力が資本主義にはない。大学にはない。言説的なものと実存的なものの間にはギャップがある。これを接合しようとする契機が、美的-感性的なものであり個人言語的な「表現」なのだが。

その「表現」を大学は、大学という「格子」としての「枠組み」として機能している「表現」にたえず還元してしまい、無化を孕むのだ。

 

「大学は、答えを自分で調べて求めるところです。どうしてもわからない場合は仕方ありませんが、安易に尋ねて答えを求めるのではなく、なるべく自分で答えを見つける習慣をつけるようにしましょう」

 

その「答え」の行き着く先は、あなたの形式に迎合する「答え」だ。

それは形式的主観性しか生まない。それを拒む。

 

僕は自分を評価してくれる、自分の呼ぶ声を聞く必要があると感じ、「外部」としてある「制度」を希求してきた。

僕は大学を中退し、フェリックス・ガタリについてや、ジャン・ウリについて真剣に学ぶ。

エコロジカルな問題意識というのは、制度論的療法に特権的な場を付与する。それは意思疎通の環境であり、空間の中において自らを占める「位置」によって捕捉する。言表行為=主観性であり、その拠点作りがラボルド精神病院の試みだった。

ああ、僕は、ラボルドに加担するのは、「制度」が僕にはないから、「欲しい」という表現だった。

「制度」が「欠如」しているから、制度の大切さを知っていた。主体性論が叫ばれたのは、主体性が必要だから叫ばれたわけだ。それは「欠如」の感覚から来ているのだ。
俺が制度論や言表行為の動的編成などについて興味を持つのも、その「欠如」の感覚から来る。

その「制度」への諸個人の自発的な参加が重要なのである。それに裏打ちされるのは、「ソフト」な統制システムである。

 

ソフトな統制システム。

 

だが、大学は違う。気がした。

僕が自己実現できず、逡巡していた頃、ガタリがそれこそ15歳の時分、ユースホステル運動で責任者として活動しているフェルナン・ウリという制度論的教育学の人を知る。

家族的な、ミクロ政治学的な、そういう視線の中に感じ取っていた、硬直した世界から離脱、離脱ができると思った。陰鬱な組織によって支えられているシステムからの脱出。

 

15歳。

 

僕は「制度」を希求していながら、大学という「制度」を退けた。そして制度的な自己を捉え直そうとした。それは制度的な圧力強度や異質なものとの距離を測ることが必要となるにも関わらず、制度的な強度を相対化する眼差しを育てることができなかった僕は「制度」にますます捕縛されていく。

 

………

 

僕は「制度」という「外部」を持たない。

しかし、無意識も欲望も人間の内面、人間の側にはなく、「外部」にあり、その外部的支えがなければ、自分のやってきたこと、累積された自分は、承認されない。評価されない。基底層であるカオス性があるだけである。

僕は今までそのカオス性の中にいた。「外部」がなく、評価されず、僕の行動は、方向感覚の失った妄信であった。12歳で所属先を失い、場所と方向尺度の融合が行われず、作用空間のコンパスを持たず、秩序、規則性というものが幻想の共有だったとしても、その幻想すら持てず、そのカオスからの可能性である主体的エネルギーを反映する場を持たず。

「外部」が失われているのだから。

 

何も産まない。

 

………

 

自分の名を呼ぶ「声」を知らないまま生きてきた。

教育機関や、社会にも馴染めず、「外部」を信用せず、独力で生きてきた。

自分を評価するのはいつも自分だった。

しかし、ネットがあるから、ブログなどで自分の考えを吐露してきた。

それは有難い。個人の裁量でしかないが。

 

主観性は客観的存在だ。

 

外部が必要だ。

 

だから、過程(プロセス)に重きを置くスキゾ分析という概念や、「変化」や「生成」に向かうための素材である抽象機械という概念に入れ込んでいるのも、苦肉の策だったのだ。

 

「偏狭」な考え方になっている自分のための。安全網。

 

「外部」がないから、外部によって「客観性」を確保されてこなかったから、「偏狭」になる。

 

………

 

なとり。9月くらいにスカイプちゃんねるで出会い、ディスコード会議で話している人だ。

 

その人を僕はいつからか意識していた。

 

なぜか。あまりにも「ソフト」な物腰だからである。

 

どんな人間でも拒否せず、迎え入れ、子供のように戯れる。管理主義的権力の外の世界にいたような人。彼女からの声はいつも「遊び声」である。「海を見たことがなかった少年」を思い出した。

 

自由意志や自己責任が会話を含む環境や条件に制約されるのだとしても、それは「ソフト」な統制システムとして働く。

 

「ソフト」な統制システム。

 

彼女はよく眠る。ようやくこの世の波打ち際へたどり着いて、経過を果たして、今はぐったりと眠っている。それでも握り締めた小さな手に、小さな自分の命をつかんでいる。何を夢見ているのか?

 

俺が今まで接してきた女性とまるで違う。母性と庇護欲を持っていた。

「子供」と遊ぶことが好きな彼女は、彼女自身が子供のようである。

やはり管理主義的権力の外の世界にいるようだ。「外部」に拘うような性質ではない。権力は、動いている主体、自由な主体に対する作用の様式だが、その「格子」において、主体が自由であることは、その主体が常に状況を変える可能性を持っているということ。

管理主義的権力の外の世界であるということは、つまり、確固たる「論理」を持たない子供の目。生成を壊すための権力機構を突破する。

 

僕が彼女を見るということ、彼女の見聞を聞くということは、彼女の子供の目を通して自分をまたは世界を見るということ。

 

僕には、彼女の子供の目が必要なのだと思った。

 

僕は今まで「外部」を持たず、「偏狭」なってきた。

僕は「外部」を持たないから、勉強しても、何をしても、自分自身を抱きしめるかのような「装飾」になっていた。すべての行為が「寵愛」を強化するための装置となっていた。

 

〝抱かれ〟

 

評価してくれる「規範」がないから。僕は。自分をその規範により、規定すること。自分自身を知ることができなかった。

 

しかし、なとり。

 

お前がいれば。お前の子供の目があれば。

 

限界を規定しなくてもいい。子供の存在には限界がない。

 

限界のない過程、たえず限界を侵犯し、締め金を外す能力。

 

雲がいろんな形に見える。

 

お前の目を通して、雲がいろんな形に見える。

 

そんな日々を望む。

 

子供の頃の。

 

君の子供の目で、「外部」の締め金を外して。

 

これ以上「外部」に拘泥しなくてもいい。

 

自分自身を抱きしめるかのような「装飾」になるような日々だった。

 

ただ僕は彼女を抱きしめたかった。

 

自らを抱きしめるような装飾から解き放たれて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023.12.25

メモ程度に。

 

昨日、ミヨシさんが開催してくれたディスコードでべんざカバーさんと話す。

慧眼すぎる人。見識を備えた人。母親らしさのある人。父親らしさのある人。非指示的療法。心理への配慮。精神的苦闘の最大の理解者。安心感の創設者。「空気清浄機」と評された男。神経系を刺激する光の束。人間的な穏和。暗礁から脱出する活路。モーターオイル。調和に満ちた天国。地雷の埋まった野ばら。思慕の対象。

 

生き延びるためには、研究、刷新、創造といったものを累進的に発展させなくてはならぬのであり、べんざカバーさんは、僕が独学で、感覚一次元の世界で溺れているところに多元性を確保してくれる。安全に愛し、創造することのできるようなどこかへと。創造のモーターオイル。悪なるものの排泄作用……。

 

そこでの若干のメモ、控え。

 

抽象機械についての思想を話すと、クリステヴァの「ジェノテクスト」などと関連付けて話される。「それ自体はテクストとして捉えられない。主体を超えた無限のシニフィアン(記号の無限の連鎖)によるテクストの生産活動」のこと。

無限のシニフィアンが宙吊りになっている。そのような開口部としての抽象機械。

それに対し、同系色の思想を持ち出してくる。

 

なるほど、確かにそうかもしれない。納得する。《お前に殺されるのなら、本望だ》。叩きのめされる。

「抽象機械に賛成はする」とは言った。

「抽象機械が抽象機械」になっている。「コーラ。なんでも代入できる記号。コーラでいいじゃないですか?」と言う。

抽象機械、芸術系の学校に行ったその人は「下地」と訳す。「まとめたら先に行かないじゃないですか?」

確かに。抽象機械という流動をまとめる、自分のものにするような所業は、それは……どうなのか。

新しい、そしてはてるともない織物としての抽象機械を志向しておきながら。もっと、もっと、もっとずっと!を志向しておきながら。

抽象機械という言及をして、抽象機械というシニフィエ(意味内容)を作るというのは、そもそもナンセンスなことなのかもしれない。

無の痕跡を下地(抽象機械)にして。その「不在」から構築された現前、語。生み出すもの。創り出すもの。言語の意味宇宙が誕生し、整列する数(ノンブル)。数におけるイメージ。イメージによる生産活動。

 

無の痕跡。

 

「もし人間の営みが抽象機械の繰り返しだとするならば、分断されたとき、何も導入されない事態はありうるのか?営みが断絶することはあり得るか?抽象機械が意味をなさなくなる事態がある得るのか?」

 

とべんざカバーさんは言う。

 

みんなが抽象機械を自認すること。

 

「自認しなければ抽象機械ではないのに、他人に与えることできるのか?」

 

与えることはどういうことなのか?

 

抽象機械は自認しなければ現れないものなのか?

 

みんなが抽象機械を自認できるように、それを与えること。

 

「何かが生み出されてるのはどういうことなんだよ!」

 

「抽象機械が無敵ワードすぎるから自己言及的になる」

 

確かに。

 

僕は動物の死、観測されずに、人知れず死んだ動物について話す。

 

その観測されなかった動物は抽象機械として働くのか?

 

無の痕跡。

 

「のいさんがやるべきことは自分で抽象機械をお乗り越えになることです」

「………」

「そのヒントは誰にも、どこにも観測されない動物の死ですよ」

 

「そこら辺の思想家の筆頭に今あまり興味が薄いのは、スピノザすぎるから、陽キャすぎるから。コナトゥスを増大させることしか頭にないの。デリダレヴィナスが好きなのは、常に自分が無化されることを考えてるからなのね」

 

「その哲学の行先って自分をわかってほしいということでしかないのかなって」

 

「………」

 

なるほど、なるほど。

 

そうかもしれない。

 

僕は、ただ、自分をわかって欲しいだけ。だ。概念を味方につけた、自分をわかって欲しいだけ。概念で粉飾した、本当の自分をわかって欲しいだけ。

 

え? それが実在? 人格の裏側の?

 

自分の「実在」を見つけてほしい。

 

「実在とは何か。何が実在しているんだ?」

 

「何が実在しているんだ?」

 

「実在というものがハリボテな気がする」

 

「見かけは立派だが、実質の伴わないことやもの。張り子の虎」

 

立派なもの。立派なもの……。

 

僕はそれで自分を大きく見せて、権威めかせて、建造物にして。

 

だが、実際は「実在」って厳密には何?

 

「何が実在しているんだ?」

 

俺は気づく。

 

自分の死が、自分の死が、「実在」という概念に分与されてるだけだと。

 

それも観測されない人知れず死んだ動物の死=自分の死が。

 

「実在」に分与された。

 

僕は内実を失った。失っている。

 

他者に注がれる眼差しが自分に注がれる眼差しなのだ。

 

それは心理だ。

 

「心理は一義的ではないのでは?一義的なのは実在でしょ?」

 

しかし、僕はベンヤミンの靴下の話を思い出す。二足の靴下は、一足ずつ丸めて包まれている。それは小さな袋のようである。

 

僕は実在のことを心理学的現象だと見る。

 

それは実在が自分の心理に由来するものだから。

 

観測されない動物の死に対する眼差しは、自分の死に対する眼差しであり、その心理が、「実在」という概念に束ねれた。

 

だが、実在が一義的だとしたら、「心理」と「実在」は二足の靴下であり、同じ一個の「小さな袋」である。

 

………

 

「実在」について今日色々調べる。そこで出会ったのは、ホワイトヘッドの哲学だった。「過程と実在」。

 

そこで僕は「抱握」という術語に出会う。

 

抱握とは。

 

「意識を伴う以前の非認識的把握を一般に表現する術語」

 

こ、これ、観測されない動物の死ではないか?人知れず死んだ動物の死ではないか?と思った。

 

意識以前の非認識的な働き。

 

我々は観測されない動物の死を認識できない。意識することはできない。一つの個体を漏れなく全部、抽象機械にすることはできない。

 

非認識的だ。観測されない動物の死=非認識的だ。

 

無の痕跡。

 

この「抱握」という術語に鍵があるとみた。

 

自分の死が、非認識的ではならないという意識が根強くある。

 

僕の死、磊落のいの死は、観測されない野生の動物の死であってはならない!

 

その意識が「抽象機械」というところに向かわせた。

 

「のいさんがやるべきことは自分で抽象機械をお乗り越えになることです」

「………」

「そのヒントは誰にも、どこにも観測されない動物の死ですよ」

 

この「抱握」と共に、僕の「抽象機械」を乗り越える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023.12.24 抽象機械

急に熱を帯び始める。全細胞が決起する。これはクリスマスイブという格子なのか。いつもはメモを参照しながら文章を書くが、熱に任せて書く。これは音楽が原因か。朝に「ピアニスティック・ダンスフロア」という曲を発見したからか。

僕には様々な味方がいることを意識する。それこそドストエフスキーに始原を持ち、ソレルスセリーヌバタイユアルトー、バルトなどがいる。

精液、糞、芽、種子としての文章。それは「伝達」ではなく、「場」としての文章。僕のブログは読まれてると思わないが、もし読者がいるのなら僕がずっと主張してることはわかるとおもう。そう「抽象機械」として働いているのだ。

彼らは肯定するための概念である「抽象機械」を肯定するための構成員である。もし、抽象機械を肯定する作家がいるのなら教えてほしい。スキゾ分析における分析的過程という不確実性の次元の中に我々を誘う。

ただ言葉を吐く。言葉をとにかく。躊躇うことなく。ためらいはもはや問題ではない。僕は文章を書くことに躊躇いを感じていた人間だ。あまり見せられたものではないとか、まるで不完全であり、未熟であり、方向感覚も定まっていないとか、しかし、それはもう棄却した。なぜか。「抽象機械」という概念があるからである。そして抽象機械を支えるスキゾ分析という概念。こんなものを手元に置いたら、言葉を吐かないわけにはいかない。全ては「過程」なのであり、完成品などこの世に存在しない。全ては、新しい、そしてはてるともない織物という抽象機械なのだ。

 

僕は思った。この抽象機械をみんなが認識できるようになれば。自分を、他者を抽象機械として認識できるようになれば。

我々は「人格」を保有する。その保有する「人格」でコミュニケーションを図ろうとする。しかし、その人格は変化を禁じられている。どのような変化も。なぜなら人間の変化は、結果として他者との関係を変化させるからだ。

しかし「抽象機械」は変化を肯定する。抽象機械はもはや人格を見ていないのだ。抽象機械は、その裏にある「実在」を見ているのだ。

抽象機械は実在の領土を作る。それは先に言ったように、「伝達」ではなく、「場」のようなものによってもたらされる、それは主体感の生産であり、この世界や宇宙、環境や場、フィールドそのものの抱握によって生じる実存である。

 

少し考えればわかることなのだ。少し「抽象機械」について考えてみればみんなわかることなのだ。固定化された、観念化されたものほど息苦しいものはないと。我々は「変化」したいのだ。それもあなたによって。何かに縋ろうとしてもがき苦しむのは、「人格」しか受け入れられてないからだ。精神病院に二度入院したり、いろいろ患ったりして通院の経験から言って、その人格すらも非人格化する精神病院は論外だ。そんなものはバザリアのように潰すがいい。

「人格」の裏にある「実在」を見なければならない。僕が過度に落ち込むのは、「人格」しか見られていない時だ。重要なのは我々を包み込んでいる「実在」であり、連帯の絆を結ぼうとする愛の精神である。

皆が「抽象機械」として自己と他者を認識し、「真の全体」として他者を見るようになれば。コミュニケーションではなく、コミュニオンとしての関係性を見出すようになれば。

そこでの手引きはやはりドストエフスキーでしかない。「どんな人間であれ、社会的に放擲されてはならない」。

しかし、ドストエフスキーの登場人物は固定化された観念化された思想を持っているようだ。その結果、多くの死体が残されるのであるが、それはドストエフスキーが観念を殺すからだ。

観念を殺すこと。固定化されたものを取り払うこと。それはまさに「死」なのだ。つまり、それは人格の死にも通ずる。

 

変化は死である。つまり、死とは変化である。

 

死んだようになってる人は「変化」した人だと結論する。そして死んだ者は「他者」において再び生きることによって生きながらえようとするのではないか。「表現、ないしは描出するあらゆる変化は、一つの変更だ」とジャンケレヴィッチは言う。

その「変化」により、他者との関係が「変更」される。

 

なぜ変化による変更が起きるのか?変化は変更に繋がるのか?

 

それは相手が「人格」でコミュニケーションをとっているからだと結論する。「実在」を見ていない。やはり、固定化された、観念化されたドストエフスキーの登場人物のように見ている。そして先にも言ったように、作品で死体が残るのは作者により「観念」が殺された時だ。つまり、「変化」した時である。死体=変化である。

 

我々は変化すれば死ぬのである。だから自分に変化を禁じ、「人格」を持つことを強いる。しかし、「抽象機械」はその変化を肯定するのだ。

 

死の瞬間の断面はいかにしても一つのものではない。つまり、変化という死は論述できず、手から滑り落ちる。変化とはその本質からして、人間の基底層であるカオスを体現している。つまり、人間の中にある「複数性」のようなものを暴き出す。つまり、変化とは人間が複数であることの表れである。

 

それは先の表現、描出ということは、変化してしまうということだ。自分が何かを表現すること、描出することは、それは他者との関係を変化させることであり、自分の死である。

 

だからみんな躊躇う。何かを表現すること。インターネットという開口部が開かれていて、自由なのにもかからわず、自分が何かものを言うことを恐れる。躊躇う。

 

何か自分が「実在」としてあることを恐れている。しかし、今や我々は気づこう。我々は実在であり、人格ではない。一でなく。複数である。「数(ノンブル)」である。数からなるイメージである。

 

そう「数」からなるイメージが自分なのに、我々は一つの「人格」に自分を落とし込む。なぜならそれを用いないと相手に受け入れられないからだ。人格を持たないと相手に受け入れられないからだ。人格を保有しないと自分が死ぬからだ。

 

死とは、絶えず更新されようと願う許諾であるとジッドは言った。つまり、それは人格の変更である。「実在」を叩き出すことが死である。だが、「我々は死にながらに生き、生きながらに死ぬ」のである。

 

その変幻流動を、生成を、我々は認めようではないか。なんどもいうが、人格の変化は他者との関係を変更させるから、死体が残る。しかし、人間の本質は固定化された観念化されたものではなく、絶え間なき流動なのである。実存心理なのであるから、だからその固定化、観念化された思考のドストエフスキーの登場人物が苦しんでいる。

 

そうはいっても僕も「人格」を保有している。その「人格」を取り払うのはどうして可能か。どうやったら可能か。それは「狂人」になることである。狂気とは、生きることが不可能な状況を生き得るた目に創出する脱出口なのである。R.D.レインによる狂気、それは「内的現実と外的現実の統一のための内的世界への投入であり、自己の再創造のための航海」

狂気になることは人格を「実在」に統一させるための航海なのである。狂気とは、旅である。「人格」ではなく、「実在」を掴もうとするものの。

それに気づいたものたちだ。

もう我々は狂人になるしかないのであるが。我々にはいい概念がある。それが「抽象機械」だ。

抽象機械という他なるものに開かれ、生成し合うための「場」。その開口部。

それを人が認識することができれば。

自己も他者も抽象機械だと。それを認識することができれば。

内在的冗長性である抽象機械。抽象機械という中継器、変換器。

それは人格の変化をむしろ肯定し、促進させてくれる。

我々はもはや変化を恐れることはないのである。

抽象機械というデフォルトに狂気。

狂人万歳。

狂人の思想が格納され、概念化された「抽象機械」という概念を少し考えてみてもらえればいいのである。

人間は全て抽象機械だ。

人間にとって他者は変換器、中継器としての機能を持つ。つまり、選択素材を構成する。

つまり、我々は他者にとって変化のための素材である。潤滑油であり、他者の人格を肯定し、実在を受け入れるための機械である。機械とは、相互に接続されたネットワークである。「抽象機械を構成する強度の諸特徴は、提示位置的ではなく、横断位置的になる」。つまり、「場」として人間が機能するようになれば。もっとより良く生きられるようになるのではないか。

機械状の脱領土化は、互いにプロセス化し合う生成変化なのだ。

 

我々は「抽象機械」により、変化を肯定しよう。

 

だから我々は躊躇うことなく、伝達としてではなく、表現をしよう。一個の完遂、一個の宿命。それにより、死体を残すのだ。

 

………

 

僕は朝起きると、熱を帯びたように、下ネタをXに書いた。それは「実在」だった。そのような気がした。

心象がまずある。そしてその心象に適用された言葉がある。言葉があって初めて可能になるのが概念だ。そしてその心象の直観から生じる情緒がある。概念はその始原に情緒を持つのだ。

「抽象機械」というのは、情緒(心象)→言葉→概念。の概念の位置に高められたようなものである。が元々は情緒である。

我々には心象が生じることを避けられない。精神に心象が生じることは避けられない。やましいことも、良心も。崇高なことも。

心象を理性により識別して行動しようとする。しかし、我々は元々は情緒からくる心象なのだ。

祭りなど、そのような象徴的な造形物に見られるのは、祭祀の基礎をなすのは情緒だ。性器みたいな形をしているのは情緒の発現だ。

幼児は言葉でおしっことかうんこなどと言い表すことに興味関心を持つ。その言葉により、言葉(口唇性)を制御したことになるからだ。

そしてだんだんソフィスティケートに洗練されていく。言葉を持つこと。言葉を使うことによって。

でも、元々人間にある「心象」が棄却されるわけではない。そんなことはありえない。ただ、識別した理性で統制しているだけである。

だが、我々は結局、その幼児と一緒だ。始原にあるのは汚言症のような心性だ。

そして僕が思うにその、糞みたいな心象が「実在」の鍵ではないかと思うのだ。

祭祀の基礎をなすのは情緒であり、そのようなものによってもたらされるのは一体感だろう。

我々は自分を「糞」みたいな心象を持つ人間だと認めようではないか。

そして、思う存分「場」としての言葉を吐き散らそうではないか!そして、「人格」ではなく、「実在」への意志を持とうではないか。

 

それは「糞」が概念化した抽象機械というものが、背中を押してくれるのだ。

 

2023.12.23

ソレルスの「数」を最近読了する。言葉の力を知った。雑種言語的な語彙の快楽。後書きにもあるように「物があって言葉が作られるのではなく、言葉が物を存在させるのである」。とはまさにその通りだと思った。読んでいて言葉が物に対し先住している様な気がした。会話は一切なく、執拗な粘着型性格のように文章が書き綴られるが、ほとんどその表現は馴染みのある文章とは程遠く、すんなり入ってくるものではない。文様、抽象図形というような触感的なものであり、読めない書である。

会話はないと言っても、クリステヴァの「テクストとしての小説」の「テクストとして見た場合、小説とは、その中に多様な言表の痕跡が総合されているのを読み取ることができるような、一つの記号的実践なのである。20p」にあるように、他の諸テクストから採られた多様な言表が交差している。

「(I)(異)(イ、異なる、《自己防衛のために、あるいは敬意を表すために両腕をあげている男の姿を、線を用いて正面から描いたもの》)」という文章が差し込まれる。

断片は、他の複数の断片と何らかの関係に置かれて呈示され、私たちはその言葉のエネルギーを圧縮し爆発させる倍力装置に身を委ねていればいいのである。シニフィエ(意味内容)という固定され、観念化されたものではない、宙吊りにされた無限のシニフィアンという抽象機械が、伝達としての言葉を退潮させる。ここに表されているのは、「伝達や表現の道具ないし手段」としての言葉ではない。言葉が創り出す、言葉が惹起する、言葉が生産する。絶えず、そういう言葉であり、まさに僕が最近問題意識として捉えている「抽象機械」としての言葉群である。その他なるものに開かれ、生成し合う織物(テクスト)=抽象機械に触れて、もっと、もっと、もっとずっと!を体現する。言葉の倍力装置。

 

そんな感じ。

 

相変わらず日記の提出者から日記をもらっている。僕はその人と通話した際、父親は単身赴任で、父親との接点があまりないことを知った。芸術科高等学校を卒業して洋画と現代アートを学んで、美術学科賞を受賞していた。その人はおそらく無を抱え込んでいる様な気がした。無の場は父の名の機能によって被われている。しかし父の名の機能がしっかりしていないと無に直面することになる。その人は、今まで無の場にヴェールを被せるという効力のある芸術家の行動をしていたのではないだろうか。創作においては、父の名の喪失にヴェールを被せ、父の名に相応しいものを作り出すことができる。無に直面しなくてもよくなる。しかし、それが今は潰えている。だから、僕はその父の名に相当するものを「創作」において創り出してほしいと思った。それは諦めの形式である「日記」でも構わない。無という脅かしを創造的に生きることで、精神的自己肯定が生起する方向に向かってほしい。日記という精神的生活の内容を呈示させる。その精神的生活の内容を僕は愛する。それを愛する者として、あなたも自己自身をも愛するようになってほしい。人間とは自らが創り出すところのものだ。「言葉が創り出す、言葉が惹起する、言葉が生産する」あなたという言葉の倍力装置。創造によってあなたは空間を生み出す。僕はあなたの空間に由来する人物になりたい。皮膚や内臓の同化。分裂、融合、分裂、融合。

 

しかし、あなたは水だ。バシュラールの「水と夢」にあるように、水とは若くて美しい死、花咲ける死の要素だ。水は女性の深い有機的な象徴である。オーフィリアという女性の自殺の象徴。死という内在するエネルギー。

 

僕はあなたに日記を提出させるが、「滑らかで、飛躍のない、正確な目標のない持続」はどうにもならない。あなたに日記という「形式」を与えることは可能でも、日記の「内容」まで与えることは不可能だ。水力学理論では、圧力が上がれば上がるほど、水なり蒸気なりが爆発する確率が大きくなる。圧縮し爆発させる倍力装置。あなたという倍力装置。あなたという「数」。億、兆、京、垓…。そのための圧力。あなたという面積にかかる力の総体。それはどこにあるのか。あなたは理由のない寂しさに蝕まれていると言った。説明できない寂寞感。寂寞感ではないのかもしれない。雨、うなじからこめかみの突出まで逃げていく川。

 

マランビジー。ウィラドゥリ語で「大きい水」。あなたという「数」の列によってもたらされる。マランビジー。川。「数」の倍力装置。億、兆、京、垓、の川。

 

マランビジーとは「閃光のハサウェイ」の最終話のタイトルだ。マランビジーという枯れることのない水。

組織であるマフティーの首謀者は、マランビジーという大きい水に。その、秭、穣、溝、澗、正、載…。「正当なる預言者の王」を掲げて。大きい、数の列に人々を巻き込む。大きい川。大きい川というイメージ。マランビジーというイメージ。億、兆、京、垓、秭、穣、溝、澗、正、載…。

 

人々はいずれ命数法という大きな川に加わればいい。言葉の倍力装置はどこまでも続く。新しい、そしてはてるともない織物。もっと、もっと、もっとずっと!

 

水辺では夜が涼気を引き起こす。夜は薄布をまとう女神である。

 

「寒い」

 

「そっか。寒いよなあ」

 

僕は正当なる預言者の王だから、太陽の燦々たる光を、地上最初の生命の自由。

 

創造。ソ=太陽

 

上から下の力の内向の流れの分岐

 

「個々の人間のありかたは、自分がいまいるところの音階(密度あるいは振動数ともいう)によって決まるほか、上昇性の流れのなかに身を置いているか、それとも下降性の流れのなかに身を置いているかによっても異なる。「父」のもとへと戻るには、下から上に向かう第二の流れへと移らなければならない。人はふつうそれを独力では成し遂げられない。イエスでさえもそうだった。しかるべき人物のまわりに生じる状況を必要とする。これが「洗礼」ということ、それによる「悔い改め」すなわち「方向転換」ということの本来の意味である。グルジェフグノーシス

 

マランビジーという川の流れ。今こそ、あなた、上昇性の流れのなかに身を置くのだ。

 

あなたは大きい川。だけど、載、正、潤、溝、穣、秭、垓、京、兆、億、万、千、百、十、一…。絶えず上昇するのだ。

 

僕はあなたに父としての名を回復させてやりたい。あなたにとっての父親。あなたの父。あなたの父の名。あなたから無を、引き払ってくれる、父。洗礼による悔い改め。それによる方向転換。あなたは今の流れに押しつぶされるな。僕があなたの周りに生じる状況になってやる。下から上に向かう第二の流れにおいて、一緒に父の元へ帰ろう。

 

父親。

2023.12.18

毎日作品について考えているし、タイトルは決まっている。のにも関わらず、〝個人の社会的孤立〟が蔓延している中で、登場人物と登場人物を繋げる環境設定が思いつかない。集団は孤独の集まりであり、何らかの外的目標によって結びついている。この外的目標による共通項が行動の源泉である。

しかし、俺にはそれがない。何もない。外的目標がないんだから、散らばっている孤独の一人だ。そんなような奴が、集団凝集性を標榜して、結合集団を作ろうってんだ。しかし、何も思いつかない。アビャーサ、湯田ねる、主人公のイチルは今どこで何しているんだ。そいつらを壁の内側に住ませて、巨人を投入させるか。恐れの念の対象である。恐れの念は集団の絆の根底にあるものであり、間を引き裂くものだ。そのようなストーリーを用意しようか?絆、分離、絆、分離、絆。ジェボーダンの獣って怖くね?ナワルって怖くね?正体不明のものが襲いかかってくる。恐れの念による集団の絆による外的目標。構成員。我々は構成員であることを望む。社会的な。しかし、俺には何もない。何もなかった。若い頃から極左グループの常連である、フランス共産党のメンバーだったガタリフェルナン・ウリに魅了され、陰鬱な組織により支えられている硬直した世界からの脱出を図る。〈青年の家〉熱度の高い空気感に自らを投入する。

しかし今はまさに不能の時代だ。一人一人が不能を抱えている。社会運動の敗北、労働の不安定化、デジタルコミュニケーション時代の人間の存在的孤独。

社会的孤立が激化し、この不能を抱えたものが、集団凝集性を確保するにはどうしたらいいか。ナワルという正体不明のものを投入しようか。ナワル。新しい社会に不可欠なもの。人々は、自分の中にある魔女性のようなものを「ナワル」という具体的存在に投影する。そしてそいつを滅ぼすことにより、自分の中にある贖罪の代理儀式が行われる。「ナワル」とにかく、ナワルを滅ぼせ。特徴の識別が排除に繋がる。伝染病、ペスト、結核、コロナ………ナワル。

俺はナワルが来ることを憧れる。とにかくナワルが来てくれることを望む。そのナワルとは外的目標であり、人々が社会の構成員としてのあり方を獲得できるようなもの。

しかし、実際ナワルとはどこにいるのか。そのためには「罪」を見つけなければならないか。ナワルという分身に罪を転嫁せずにはいられない。自分の中にある罪。伝染病などの菌とは、罪の在処だ。罪の在処たるナワル。贖罪の代理儀式。ナワルが死ぬ。自分の罪が死ぬ。明らかなるもの。しかし、精神病は罪をどこに擦り付けたらいいかわからない。

俺は、磊落のいは結局、精神病を手に入れた。僕は病気が欲しかった。しかし、病気は外的目標にならなかった。集団凝集性のための素材にならなかった。この病気という抽象機械。機械は相互に接続されたネットワークとして機能する。しかし、俺は病気を外的目標として、欲しかった。病気を勝ち取るために奔走した。みんなでそれを倒したかった。病気を自分のところに引き寄せ、そいつをみんなで倒す。病気という外的目標をみんなで倒す。そのために色んな狂った行動をした。道化かもしれない、つまらない、愚にもつかぬ、虚言性、偽善や自慢と共有しているイロニーを他人に吹聴する。それをみんなで倒したかった。

しかし、そんなことは起きない。俺は多分病気じゃない。なぜならそれは俺がもう〝病気を必要としない〟からだ。精神病なんてものは何の外的目標にならない。かといって、原子化、無力化という不能から救うためのアソシエーションなんかも欺瞞に過ぎない。結合関係のためのソシアビリテ!「お付き合い」のためのソシアビリテ!そんなものが一番腹たたしくてならない。「お付き合い」の様式。繋がってない者を繋ぐ橋渡しの機能を持つ弱いつながり。

だが結局社会的なものを組み直すことでしか自分は定位できない。何かに。共通の集合心性からは逃れられない。「トーテムがなければ、ある部族が自分たちが同じ一族の一員であると認めることが難しくなってしまう」とラトゥールは言う。トーテムが集合心性を満足させる。トーテムにより、イチルやアビャーサ、湯田ねるなどを結びつけなくてはならない。散らばっているそいつらをそのトーテムによって。じゃあそのトーテムとは何なのか。

何度も言うようにそれがわからないのだ。トーテムがない。トーテムがなさすぎる。トーテムがあったことがない。精神病をトーテムにしてメンヘラを呼び込もうとして、その集合心性を持つメンヘラと結合関係になり、外的目標を達成しようとする高尚なストーリーなどない。メンヘラが寄ってこないのなら、俺は精神病などいらない!障害者手帳一級など何の意味もない!統合失調症自閉症スペクトラム障害など何の意味もない!病名が外的目標にならない!病気が大事なら俺は今ありとあらゆる病気だ。生成するんだ!俺は可哀想な奴にもなれない。可哀想なやつだと誰も言ってくれない。スーパーの売れ残りの惣菜として誰も見てくれない。スーパーの売れ残りの惣菜として僕を見てくれる偏愛的な恋人が現れるのなら、僕は革命的青年運動にも加入する。レジスタンス!レジスタンスのコノテーションは、誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。誰も私を助けてくれなかった。

 

虚しい!死ぬほど虚しい。寂しいなっていう寂寞感でもない。虚しい。筆舌に尽くし難いというわけでもない。虚しい、の一言に尽きる。俺が今まで連んでいた他者から肯定的な印象を受けるようなどんなに優れた美貌を持つ人でも、虚しいと言ってどこかに消えた。その人とはもう繋がりがない。僕の親切さがその人を引き上げたのかもしれないが、諸刃の剣だった。滅びの美とかも考える隙もなく、消えた。その人は今にしてみれば、根源的な虚しさを抱えていたのだと思う。その人の虚しさを僕は溶かすことはできなかった。そんな奴でさえ虚しさを抱えているのだ。

学問とは、人に誇示するための虚しい知識欲のためにではなく、行為を目的として求められるべきものである。とメモに貼ってあった文句を読む。確かにそうかもしれない。でも、人間は果たしてそんなものになれるだろうか。行為を目的とする。そんなものになれるだろうか。行為とはなんだろうか。行為、行動とは何だろうか。

「汝の義務を果たそうと努めよ、その時汝は直ちに、汝が何であるかを知るであろう」

自分自身を知ること。それは考えることなく、行為すること。汝の義務とは何か。それは日々の要求である。日々の要求。日々の要求とは何か。僕は無意識的過程の中にいる。常に。日々に。

「この子は自分の名を呼ぶ声を聞く必要があった」僕は自分の名を呼ぶ声を知らない。誰に必要とされているのか。本当のところ、誰が僕を見ているのか。俺を誰かが見て、その誰かがどう思っているのか。知らない。誰もが自分の名を呼ぶ声を聞く必要があると思う。自分の名を呼ぶ声。

 

人間は骨。骨の身体の最もたる支柱は脊椎。脊髄を守る身体の中心軸である脊椎。この脊椎が俺にはない。脊椎がどこかで損傷を受けた、整復固定術を行って、ある正常な位置に。正常な脊椎を僕に用意してくれ。顔、役割、仮面が必要だ。あなたの顔、役割、仮面になりたい。あなたとは誰か。中心軸であるあなたとは誰か。存在を支える網に織り上げてください。僕の存在を支える網を織り上げてください。お願いします。お願いします。自己同一性の障害がある分だけ役割に執着する。自己同一性の障害。自己同一性の供給源がない。あなたというトーテムがない。外的目標がない。俺には何もない。虚しい。虚無。

僕は女の子と通話する。その女の子。今にも消えそうで脆い。「人は失いやすいものに愛を注ぐ。自分自身、女性、祖国」という惑星ソラリスの文句を思い出す。失いやすい。いつ消えてもおかしくない、そんな人だった。頭がぐちゃぐちゃになり、精神がぐちゃぐちゃになり、身体がぐちゃぐちゃになっている。脊椎もない。整復固定術を行おうとした。失いやすいものに愛を注ぐ。なんか俺にできることある?って聞いたら「受け入れて」と言っていた。人生の終わりに何を思うかって言ったら、受け入れること、なのか。なのか、七日、七日間しか残されていないような、息が詰まりそうになるような時間。

「語ることは行動することだ」とサルトルは言う。書くことはしつけるような意思、説得するような意思が先験的に含まれるのだとしたら。他者に対する優位の確立への意図。優越感。しかし俺らは言葉を用意しなくてはならないんだ。そうでないと、天使に吸わせる言葉の余韻がなくなるからね。言葉の余韻を快と感じる天使。天使は言葉の余韻を吸い込んでハッピーになって俺はその天使のハッピーでハッピーになるんだから。

 

俺は提案した。日記を書いてみないか。日記。言葉。毎日日記を提出させる。僕は日記を見る。その人の世界にはイマジナリーフレンドがいた。「周囲の世界を自分の存在にとってふさわしいものに形作ること」

そうだ、そうだよ。俺たちにはこれしかできないんだ。もう物理的な空間に定位することはやめよう。イマジナリーフレンドを作らなければならないほど、社会的に孤立しているんだ。それでいいんだ。その社会的孤立を祝福しよう!

ラトゥールは言う。「除外するのではなく記録すること。しつけるのではなく記述すること、これこそが聖典である」

 

俺はお前を決して除外せず、全てを受け入れ、記録し、聖典にする。他者を説得する不可欠な契機である言葉を用いない。相手の言葉が僕の言葉だ。相手から送られてくる毎日の日記の中に僕は生きる。

均一でない複数性、無差異=無関心ではない複数性、顕著な差異。あなたによって織り込まれる差異によってもたらされる私。存在するのは差異のみであり、それは互いに排除することにはならない。僕はあなたを受け入れる。記録する。聖典にする。あなたの身体はぐちゃぐちゃになり、資料体としての身体しか持たない。あなたの言語の状態にある身体による快楽が欲しい。あなたという細部の具象性。純粋な断片の空間。あなたという空間により散らばっている私は豊かになる。

統一体に組み込まれない細部、断片、断章形式により、俺の自我は解体される。

 

あなたというロマネスク。あなたの歌声。

 

抽象機械。